自分自身を持とうとする意思が最初から欠落しているのか、あるいは、過剰に社会性を重んじたがる、あまりに日本的な環境の悪影響のせいなのか、あるいはまた、生まれながらにしてそんな人間でしかないのか、ともあれ、権力と権威に頼って世界を見ることしかできない人々の数が圧倒的なこの国では、さまざまな分野において、薄汚い世渡りをしたあげくにその地位を得た、あくまでそれらしく見える人物を、中身や能力などにはけっして目を向けずに、あっさりと認めてしまい、いささかの疑問も持たずに、その者を奉り、支えることによって、おのれの価値判断を定めてしまうのです。
 これはそのほうが楽だという理由のほかに、保身の意味も多分に込められていて、単なる愚劣ではなく、卑劣な要素が大半を占めているということでしょうが、しかし、そうなると、日本人の気品という、民族主義的、自愛的な人々が好んで用いる評価の根拠が根底から覆されてしまうことになります。
 というか、真っ当な人間の世界ではなく、ひどく醜怪な奇譚の世界と結論づけるしかありません。要するに、異様で、不気味な国家ということになります。そして、そんな国家を形成する社会は、迷いのない言葉で構築された、生き生きとした真実を絶対に育めない、陰々滅々たる、不条理で残酷な、非人間的な舞台ということになってしまいます。
 そんな国民によって引かれた正邪の区分線が常に曖昧で、のべつ憂鬱な陰を落としているのも無理からぬ話でしょう。我慢がならないのは、そうした恥さらしな国民性が美徳の衣を纏って堂々と罷り通ってしまっていることです。幾度となく大きな代償を支払わされているにもかかわらず、その反省が真剣になされたためしは一度もありません。