現実ほど強烈な事象はありません。にもかかわらず、核心をぼかした、曖昧な言い方でお茶を濁そうとするのは、粋でもなんでもなく、どこまでも卑怯なだけなのです。
 世間の顔色を窺いながら、ここはひとつ権力側に苦言のひとつも呈しておこう、そうしておいたほうが利口で、しかも無難だと判断した、知識人だの文化人だの教養人だのと呼ばれてテレビに出まくり、講演で稼ぎまくっている輩は、その時期を過ぎるとたちまち豹変し、ふたたび体制側に与し、受け取ったら却って反文化的な存在であることをみずから証明してしまうことになる勲章のたぐいなんぞを目指して、あれやこれやと薄汚い画策に奔走するのです。それが実態で、主流であるという嘆かわしさは、この国の程度を如実に物語っており、二枚舌を忌み嫌う若者たちが本気で社会へ参加してこない、真剣に世間に参入したがらない、大きな要因でもあります。
 若者たちに明確な意識があるかどうかわかりませんが、しかし、すっかり煮詰まってしまった資本主義体制のなかではもはやいかなる夢も描くことができないと、そう肌で感知しているのでしょう。どうせ何をどう頑張ってみたところで、自分たちは一部の成功者の消耗品でしかないという答えを出してしまっているのでしょう。
 とはいえ、かれらがその憤懣を国家に叩きつけることはなく、悶々としたまま、ときおり弱者に向けて放つ暴力によって溜飲を下げ、あるいは、もはやどこを探したところで見つからない逃げ道を探すばかりで、あるいはまた、おのれの劣等意識を一挙に解決するために、インチキ宗教にかぶれるようにして、なんと民族主義に転向し、だしぬけに〈愛国〉を呪文のように唱え始めるのです。