途中の経過がどうであれ、最終的には自分自身の判断によって決定し、価値観を定めるということが苦手な、というより、人生が苛酷であることに気づいたとたん、それと闘って生き抜く姿勢を選択しなかった、そして、逃げ道などあるわけがないのに、その幻影を追って、文学なるものの、つまり虚構の世界に逃げこみ、それを隠れ蓑にしてどうにか一人前の人間の恰好をつけようとした、いわゆる文学青年たちは、現実の壁に叩きつけられるたびに、屈折した居直りを重ね、〈駄目人間〉であることこそが真の人間の姿だと言わんばかりの結論に達し、そこに居場所を得て、その体たらくを稚拙な言葉で書き連ねることこそが文学の本筋であるということに位置づけ、ほかの誰でもなく、自分自身を辛うじて保つことができ、また、それに群がる同臭としての読者たちも、その価値観にすがりつくことでどうにか面子を保つことができるようになったのです。そして、ひとたびその尺度が定着するや、さほど引け目を感じることなく、劣等意識に悩まされることなく、堂々と大っぴらに、異様なまでに情けない世界に身を置くことが可能になり、それどころか、自慢の対象にさえなり得て、おのれに対する不信感もぐっと弱まり、かつ、その道で成功するという、社会的に認められる切り札を手にすることができるまでになりました。
 しかし、かれらがどう言い繕ってみたところで、所詮は幼稚で滑稽な逃避にすぎません。子どもや女性ならば、ある程度それもやむを得ないところがあるのですが、しかし、おとなの男が、ちゃんと生きれば生きられる潜在能力を秘めた者が、そんなところにいつまでも足をつっこんだままというのは、文学として、芸術として本来在るべき姿ではないのです。そして、文学が女や子どものおもちゃにすぎないと揶揄される所以でもあるのです。