さて、まだ手つかずの鉱脈を掘り、まだほとんど捕獲されていない大魚の群れに挑む、そんな書き手の登場に期待できるのでしょうか。それより何より、文学の状況や環境がかれらを望んでいるのでしょうか。また、本当にそうした書き手が登場した際に、それこそが本物の文学を本気で求める新人と受けとめることが可能なのでしょうか。その答えは、残念ながら「ノー」のひと言です。文学界の現状とそのレベルは、もはやこれ以上墜ちようがないほどのひどさで、とりわけ編集者の質の低さは目に余るどころか、文壇の力関係と今売れている書き手が誰かということしか念頭にない、というか、それしか興味がない、一般企業の勤め人と比べたら話にもならない、区役所の職員よりもお役人的な、これでよくもまあ高い給料をもらっているものだと呆れ返ってしまうほどの能無しぞろいなのです。大手の出版社ほどそれがひどく、一流と称する大学を出て入社しただけの、ただそれだけの価値しかないにもかかわらず、自分は一流の編集者であると自認し、錯覚して、それらしい態度と顔つきを保ちながら、本当は文学の神髄も理解していないような、「白鯨」や「草の葉」や「ツァラツストラはかく語りき」や「徒然草」さえも読んだことがないような、読んでも理解できないような、ほかの仕事をしたほうがよかったのではないかと思わずにはいられないような、そんな手合いが、文芸誌の編集長や、文芸出版の部長の地位にでんとおさまり返り、その権力をひけらかし、しっぽを振ってくる書き手の卑屈な態度のなかにおのれの存在感を確認しながら悦に入り、日本文学の第一線で活躍しているという過剰な自負に酔い痴れている始末です。しかし、これは今に限ったことではなく、私がこの世界に入った半世紀前から少しも変わることなくつづいた悪しき伝統なのです。