自律と自立をめざし、一個の独立した人間として、どのように生きればいいのかという苦難の道を選択した、真っ当な人々、もちろん、そう簡単にはゆかず、挫折と失敗の連続で、ときには恥の上塗りを重ねてしまうこともあるその険路を、それでもなおめざしてやまないかれらは、大人のくさせに子どもをやっていたい、男のくせに女になりたい、白馬にまたがった王子さまの登場を本気で待ちわびたい、厚かましくも醜いナルシシズムに酔い痴れたい、しかも、文学を隠れ蓑として、もしくは踏み台として悪用し、下世話な世間の尺度に適合した出世をつかみたいなどと、そんな虫のいいことを願ってやまない文学なんぞに興味を示すはずはありません。難しそうだからとか、芸術はちょっと苦手だとかの理由をつけて敬遠のふりをしてはいても、内心では異様な世界にうごめく異様な連中として軽蔑しきっているのです。つまり、わからないということではなく、むしろ、わかり過ぎることによって、文学を無視しているのです。
 ところが、文学関係者たちは、その扱いを逆手に取って自分たちの優越性に切り替え、つまり、自分たちこそが俗世間に背を向け、芸術の世界に身を置いて生きる、人間らしい純粋な存在であると、そう勝手な解釈を下し、自己満足の度合いをますます募らせ、偽りの色をつけた優越性で飾り立て、簡単に論破されてしまう自己弁護の言葉を周囲に巡らせて、見え見えの芸術家気どり、文学者気どりをつづけながら、その実、俗世間に横行しているこすっからい世渡りの術を踏襲しながら、実際には才能のかけらも持ち合わせていない、ただ恰好をつけつつ楽をして生きようとしているだけの、凡人にして俗人なのですが、呆れたことに、いや、おめでたいことに、当人たちにその自覚はいっさいないのです。