文学が生まれた背景には、文字以外に表現手段がなく、情報の量が圧倒的に少なく、人生と現世とがまだまだ謎に満ちあふれ、暇つぶしとしては最適な娯楽であり得たという時代の事情が色濃く反映し、そこへもってきて、印刷技術の発達という画期的な要因が加わることで、さらに勢いを増すことと相なったのですが、しかし、もてはやされ過ぎて、ぼろ儲けの商売につながることが証明されたために、必然の結果として読者の側に媚び過ぎるようになり、質の高い、芸術の香りにあふれた、進化と深化の道をどこまでも突き進むことが可能な王道がいつしか蔑ろにされ、代わりに、感情移入が容易で、安っぽい夢と憧れの気持ちを満足させてくれる作品のみがはびこり、ストーリーの変化と面白さのみに目が向けられるようになり、しまいにはそうしたものこそが文学であると錯覚され、それを好む人々が群がり、書き手も読み手も編む手も、同種同根で固められ、それ以外の人々は自然に排除され、時代が進むにつれてそうした趣向性がますます強まり、絶頂期を迎え、文学が文学たる所以の基準がほぼ画定され、固定概念にまでなり、そして、あとはもう一挙に腐敗と堕落の坂を転がり落ちて行ったのです。
 文学に取って代わる、強烈な音響や映像の文化の台頭によって、永久に王座に居座っていられるはずだった文学は、もてはやされることによって質を低めつづけた付けを払わされることになり、それならばテレビドラマや映画のほうがまだましだということになり、それこそあっと言う間に片隅に追いやられ、目に見えないことによって安っぽいナルシシズムの底割れをまだ信じていられる、いや、信じつづけたい、狂おしいまでに切ない読者のみによって、辛うじて支えられているというのが現状です。