一般企業の勤め人として数年間を過ごしたことがある、つまり、学生という甘ったれた身分や、女のヒモになって食わせてもらう立場や、資産家の親の過剰な援助のもとに社会人になることを避けて〈文学かぶれ〉をつづけられた身の程とは遠く隔たった、ごく普通の条件を背負い、経営不振によって職場が消滅しかねないという切羽詰まった状況に背中を押されて、さほど好きでもなかった、というより、むしろ軽蔑の対象でしかなかったこの世界へ、生活のためという動機で足を踏み入れた私としましては、出だしからしてほかの執筆者たちとは文学に対する姿勢が異なっており、悪く言えば、不純、良く言えば、客観性ということになる、しかし、それゆえに最初から突き放した姿勢を保つことができ、酔い痴れることなく、冷徹な眼差しで文学を捉えることができたのです。
 その視線でこの世界を眺め回したとき、まだ若かったとはいえ、あまりのいい加減さに仰天し、とりわけ、純文学と称するジャンルの質の低さには開いた口がふさがらないほどで、若造が書いた小説を老成という言葉を用いて評価する年配の書き手の気持ちがどうしても腑に落ちなかったのですが、ほどなくかれらが物した作品に接したとき、そのあまりの幼稚さと稚拙さにびっくりし、その文章なんぞは、散文とは称しているものの、作文に毛が生えた程度の代物でしかなく、それでもまずますの文章で書かれている作品であるにはあったのですが、内容が大の男が少女趣味まる出しの夢と憧れでいっぱいの、劣等意識の真逆でしかないナルシシズム一辺倒で終始した代物で、男を辞めて女になるか、大人を辞めて子どもになったほうがいいのではないかという、不気味な内容で、どうやらかれらはそれこそが文学の神髄だとでも思いこみ、信じ切っているかのようでした。