とはいえ、そうしたナルシシズムべったりの傾向は、世界の文学においても例外ではなく、わが国ほどの高い確率ではありませんし、また、質の点においても数倍も高度なのですが、やはりその根底いは同じ種類の、反自立をよしとする、むしろそれを競い合うかのような、救いがたい、軟弱なくせに卑劣で愚劣な精神が流れていて、文学の主流を形作っています。しかし、それとは真逆の方向、つまり、一個の独立した人間として自律と自立の方向をめざしてやまない、ゆえに飛び散る火花を高度で高尚な、これこそが本当の文学、これこそが本物の芸術作品と呼べるような、圧倒的な文章で描かれた作品が、数は少ないのですが在ることは在るのです。
 ところが、文学を現実逃避の安易な小道具、あるいは、婦女子のままでいたいがための隠れ蓑として利用したがる読者が増え過ぎ、そうした悲しい人々の人数が圧倒的になったせいで、版元はぼろ儲けが期待できるようになり、現に、映画やテレビが台頭するまではわが世の春を謳歌できるまでの成長産業でありつづけたのです。内容がどうであれ、質がどうであれ、何か書いてさえあればいいというような、複数の女に挟まれて苦悩する僕といった、妄想で塗り込められた、よく恥ずかしげもなく書けたものだと思うような、文学どころか、小説にさえなり得ていない代物が、傑作として世に堂々とはびこり、関係者はそれを至上のものとして、自信と誇りさえ持って、世に送り出しつづけていたのです。しかも、そうした作品を、数々の文学賞と、仕事がもらえればどんなゴマスリをも厭わぬ評論家たちの持ち上げの言葉と、文化勲章なる国家のお墨付きが、わが国の遺産にまで格上げし、あたかも未来に引き継がれる芸術作品として固定化してしまったのです。