私のなかにある文学とは、たとえば「白鯨」であり、たとえば「ツァラツストラはかく語りき」であり、たとえば「徒然草」であって、その世界のなかにあふれているものは、まさに人間とは何か、この世とは何か、人間はこの世をどう生きるべきかという、究極のテーマが盛りこまれ、しかも、それにふさわしい、名画を生み出すための筆遣いや色遣いのように、きわめて高度な文章力が用いられているのです。ところが、文学は、印刷機の発明と発達によって、また、ほかにこれといった手近な娯楽が得られなかったため、大量生産大量販売の時代に突入し、早い話が一環千金も夢ではない、ぼろ儲けの可能性を秘めた、金の採掘にも似た、危ない商売へと変貌を遂げてゆき、結局は、悪貨は良貨を駆逐するように、悪書は良書を駆逐するようになり、芸術の道からはみるみる離れてしまい、それでも高収入という繁栄が、そのレベルの低さを補って余りあり、というか、潤沢な資金を背景に、そうしたものこそが文学であるという位置づけがなされ、実際には娯楽小説そのものでしかなかったにもかかわらず、あたかもそれが高度の文学作品であるかのごとき印象を授け、また、関係者一同も頭からその尺度を信じこみ、書き手も読み手も、おそろしく程度の低い、〈文学もどき〉とも言えない代物を、さも至高の芸術作品であるかのように扱い、恭しく押しいただき、全集という大仰な形でそれを応接間に飾ることで、おのれの知的レベルの高さを誇示したのです。ところが、そうした自己満足も長くはつづかず、しばらくすると馬脚を現すことになり、「こんなものは所詮、女や子どもが、さもなければ、女に近いタイプの男のおもちゃにすぎない」という、一人前のおとなの、普通の男による、当然の指摘にさらされるや、たちまちオタクの一部に成り下がったのです。