しかし、それでもなお、そのレベルと圧倒する文学作品が登場しなかったことと、あるいは、登場したとしても、それが、ナルシシストたちが最も忌み嫌う、現実の臭いのせいで日の目を見る確率があまりに低かったせいで、いわゆる文学ファンの立場は辛うじて保たれつづけたのです。つまり、文学なるものを現実から逃避するための隠れ蓑として利用しながら、ちゃんと生きれば面白く、本当の人間らしさに行き着く可能性が高いというのに、一生涯をこそこそと、ちまちまと、〈逃げ生き〉ながら、手近なところにころがっている、ただの異性にすぎない相手を針小棒大に解釈して絶世の恋人と見なし、交尾に等しい行為を究極の大恋愛に仕立て上げ、だからこそ、自分の人生は無駄ではなかったかのような錯覚に酔い痴れることができたために、なんとかここまで持ちました。
 ところが、そうした安直な価値観にあぐらをかいているうちに、世間がどんな目で文学を見ようと、それは世間が通俗的だからで、真の芸術を理解できない輩が多過ぎるからだなどと、手前勝手な理屈をこね回して、ひたすら自己肯定にこれ努めてはみたものの、時代の発達というか、娯楽の進歩というか、映像文化の台頭と蔓延によって、それしきの作品では、つまり、文章を用いただけの価値のある芸術ではなかったために、たちまち圧倒され、その程度の代物でよければ動画のほうが上という当然の結論によって、出版界は売り上げの低下を差し招き、その流れをどうにかして元へ戻そうという意識は芽生えても、「文学は永遠なり」という思い上がった価値観からどうしても離れられないために、何をどうしていいのかさえわからぬまま、右往左往しながら、小手先の方策で乗り切ろうとするために、却って破局を早めることになり、もはや瀕死のありさまなのです。