だからといって、文学が死んだわけではありません。死んだり、死にかけたりしているのは、文学関係者たちであって、文学そのものは依然として豊かな、ほとんど無限の可能性を秘めながら、大海原のように眼前にうねりながら、真っ当な書き手を待ちつづけながら、息づいているのです。それにしても、文学は近代文学の夜明けの頃から、すでにして死の道を辿っていたのかもしれません。なぜとならば、日本特有の、とそう言えばなんだか聞こえはいいのですが、実際には派閥好きで、家元精度式の集団を成すことで、既得権益を守りながら、仲間内全体で生き延びようとする、世俗的な悪知恵が横行し、それなしでは生きてゆかれないようにする、そこからはみ出した者は抹殺するといった、芸術の精神とは相反するあこぎな生きざまが蔓延り、その裏には強い者に従う、集団に頼るといった、反自立的な、一個の独立した存在者としての権利と自由をみずから放棄する、普通の人間としても最低の価値観である事大主義が大きく働いていて、いかんともしがたい状況をがちがちに固めてしまっているのです。
 ひっきょう、芸術にはこれほど不向きな国民性はないということなのです。言うまでもありませんが、芸術の精神の核となるものは、個人の自由にほかなりません。それをどこまで保ち、どこまで追求できるかという立ち位置を最初から最後まで確保できないような者に、また、生来そうした精神の持ち主でない者に、芸術の世界に首を突っこむ資格など皆無なのです。それがどうでしょう。実際には〈芸術家もどき〉がごっそり集まって、さもそれらしいことをしながら、ちゃんとした眼力の持ち主にそっぽを向かれるような、作品と呼ぶも恥ずかしい代物を世に送り出しつづけているのです。