文学とは、言うまでもなく文章を用いた芸術であり、それは音楽が音を用いることや、美術がそれぞれのジャンルにふさわしい道具や素材を用いることとまったく同じであるのですが、しかし、文学以外の芸術はなぜそれを用いるのかという核心部分にのべつ関心を示し、苦心惨憺して磨きをかけているのに、文学に限っては、言葉がすべてであるにもかかわらず、その意識と自覚に著しく欠け、心の命ずるままに、頭にぽっと浮かんだままの言葉をそのまま書き連ねてゆけばいいのだという、あまりにも無邪気な基盤を疑いもせず、おのれのナルシシズムをくすぐるためだけの見え見えの物語を、思いつくままに、わかりやすく、伝わりやすいという大義名分にしがみつきながら、これが散文なのだという、とんでもない誤解と思い上がりのもとに、稚拙な文章を連ね、自己満足を得たところで筆を置くのです。そして、それが文学であり、文芸であると思いこみ、その枠から一歩たりとも出ようとせず、抜け出た作品に出会った場合は、見て見ぬふりをするか、黙殺するかして、これまで通りの安易なやり口にしがみつき、また、そうした仲間が多いことに意を強くし、文学を本気で追求する作品とその書き手を異端扱いして、主流の道を歩んでいることを再自覚し、安堵のため息を漏らすのです。
 ところが、そうした易きに流れた小説が商売として成り立ちつづけていることによって、世間の支持を大いに受けているという事実に頼ることによって、関係者たちは食べてゆかれるというだけではなく、かなりの高収入を得られると意識した途端、それ以外の道が、本当の文学の王道が完全に見えなくなってしまい、しかも、これこそが文学の主流であり、文学そのものなのだと思いこむに至ったのです。