名レスラー伝~風雲昇り龍!!天龍源一郎~前編 | 団塊Jrのプロレスファン列伝

名レスラー伝~風雲昇り龍!!天龍源一郎~前編

どうも!!流星仮面二世です。

さて、ボクが小さい頃、家にスタン・ハンセンの本で「君にも必殺ラリアート」というのがありました。ハンセンが全日本へ移籍しブロディとのタッグで大暴れしていた83年になったばかりの1月に出版されたこの本には、今まで知らなかったハンセンのことが書いてあったので、それは楽しく読んだ思い出があります。残念ながら今は所有していないんですが、この本に出てくる文章で今でも忘れられない行があります。それは本の後半で、ハンセンが個人個人のレスラーをあげ、それに思いを書いているような・・・そんなページでした。猪木はこうで、馬場さんはこう、みたいな感じです。そこでの一節でした。

「戦っていて、アレ!?っと思うのがスモウ・ボーイのテンルーだ」

おぼろげな記憶なので正確でないかもしれませんが、確かこんな表記だったと思います。

ハンセンが移籍した81年から83年の全日本プロレスにおいての天龍は、全日本第三の男と言われていた時代。中堅どころではありませんでしたが、セミやメインではハンセン、ブロディに翻弄されてしまっていた印象が見ているボクらにはありました。しかしハンセンはこの時点で、天龍はもっと認められるべき、ということを遠回しに言っていました。当時のボクにはわかりませんでした。しかし今に思えば、そういうことだったんだなと・・・振り返ることができます。

名レスラー伝、今回は天龍源一郎です!!

行ってみましょう!!

越山若水(えつざんじゃくすい)は越前の自然が多く緑に育まれた豊かな山々のことを指し、若水は若狭の清く美しい水のことを指す、天龍の故郷の福井県を現す言葉です。天龍はこの福井県の、恐竜の化石でも有名な勝山市の農家に長男として生をうけました。

生後10か月くらいの天龍。面影ありますね

小学校を経て中学に上がると、体重こそ際立っていませんでしたが身長が中2にして182センチと、ズバ抜けて大きかったということがキッカケとなり、天龍の元に時の大横綱、大鵬から大相撲へのスカウトが来ます。

中2のとき、福井に巡業に来ていた大鵬と。さすがの天龍も緊張顔・・・

こうして中2年で東京墨田区の両国中学校へ転校、1963年12月に二所ノ関部屋に入門し、天龍の第一の人生が始まったのでした。

相撲時代は入門10年後の1973年1月場所から幕内に上がり、西前頭筆頭まで上るという活躍を見せました。

現役時代の天龍は強烈な突っ張りを武器とした

74年の初場所3日目では横綱・輪島と最初で最後の取組。得意の突っ張りをサク裂させ健闘を見せた が寄り切りに敗れる

このまま行けば三役、そして横綱も夢ではなかったかもしれません。しかし1975年に所属部屋で起きた後継問題に巻き込まれ、思っていた部屋で相撲ができなくなってしまった天龍は1976年秋場所を8勝7敗で勝ち越ししたのを最後に土俵を降りることになってしまいました。こうして同年10月、全日本プロレスへの入団が発表され10月15日には入団記者会見が赤坂山王ヒルトンホテル(とありますが、このホテルは現在確認できず。旧・東京ヒルトンホテル、現・キャピトル東急ホテルのことだろうか?)にて行われました。

ときにリラックス、ときに緊張感を漂わせた記者会見となった

こうして天龍のプロレスラーとしての人生がスタートすることになります。

入団会見の余韻も冷めない同月17日から、天龍は馬場さん、鶴田らとトレーニングを開始し、巡業にも同行します。

初体験のリングシューズに苦戦する天龍

後、30日からはハワイ、ロスとトレーニングを重ねテキサスへ。ファンクス、そしてスタン ・ハンセンのデビュー戦の相手でもあったジェリー・コザックのコーチを受け本格的なトレーニングに入りました。こうして11月11日にはテキサスのアマリロ・スポーツアリーナで桜田一男と相撲マッチを行います。エキシビジョン的な試合でありましたが天龍にとっては記念すべき初めてのプロレスのリングでの試合となりました。

相撲マッチにて初めてリングに立った天龍

この試合は3本勝負で行われましたが、先に2本を選手した天龍がストレート勝ちを納めています。そして2日後、迎えた11月13日はテキサスのヘレフォード・ホールにて15分のエキシビション・マッチながらテッド・デビアスと対戦。まだ天龍は髷を結ったままの状態でしたが、こちらは桜田と行った相撲マッチのようなまわし姿ではなく、リングタイツにリングシューズ姿。これがプロレスデビュー戦となりました。

ロープの反動を利用し相撲仕込みのぶちかましをかます天龍

デビアス相手に引き分けと好スタートを切った

結果は時間切れの引き分けでしたが、初のプロレス試合であのデビアス相手にデビュー戦らしからぬ大健闘を見せ、関係者を唸らせたといいます。やはり名レスラーとしての器があったんですね。

海外修行も終えて帰国すると同年12月5日、両国の日大講堂において断髪式が行われました。この断髪式、通常は当然国技館で行われるものですが、幕内力士にしてプロレスのリング上にて行われるのは異例中の異例の出来事。当時、いや現在に至っても、これは珍しいことですね。しかしながら総勢42名もの関係者が来場し、この断髪式にてはさみを入れたといいます。

断髪式での天龍。はさみを入れているのは天龍のお父さん

最後は馬場さんが大銀杏を切り、これにて力士・天龍が引退、プロレスラー天龍が正式に誕生したんですね。

その後、再び海外遠征しレスラー修行を行い、明けた77年 6月11日、東京・世田谷区体育館において天龍は馬場さんと組んでイタリアの狼、餓狼ことマリオ・ミラノ 、メヒコ・グランデとタッグマッチ対決、日本デビューとなりました。

マリオ・ミラノのラフの洗礼に大苦戦したが・・・

試合はミラノの攻撃に苦戦もしましたが天龍がメヒコ・グランデにローリング・クレイドルを決め快勝。見事デビューを白星で飾ります。そうかぁ~天龍の日本デビューはローリング・クレイドルから始まったんだ・・・

その後、鶴田とのタッグでハリー・レイス、ホースト・ホフマンと対戦し、この大物相手にも勝利をおさめ勢いに乗ります。そして迎えた5日後、6月16日には国内初のシングルマッチが後楽園ホールにて行われました。相手はデビュー戦でも対決したメヒコ・グランデです。

ここでも得意の突っ張りがサク裂!!

サイド・スープレックスからダブルアーム・スープレックスと繋ぎ、シングル初勝利を飾ったという記録が残されています。ちなみにメヒコ・グランデの正体はリッキー・ロメロ。日本でも活躍した、あのヤングブラッド兄弟のお父さんです。

その後、シングル、タッグとメインの扱いでレスラーとして活躍していきますが、デビューからの3年はややくすぶり出してきてしまったときもあり・・・スランプという感じになってしまっていた時期があったようです。しかしアメリカへ三度修行に旅立ち、帰国後した81年・・・本人も最大の転機だったと語る運命の試合が同年7月30日、帰国した天龍に待っていました。

このとき日本では馬場さん、鶴田が保持していたインターナショナル・タッグの選手権の挑戦者がビル・ロビンソン、ディック・スレーターとなっていたのですが、交通事故の後遺症が改善されなかったスレーターが来日不能となってしまったのです。ここでスレーターの代打として天龍に白羽の矢が・・・こうしてビル・ロビンソンのタッグパートナーに大抜擢を受けインターナショナル・タッグへ挑戦となりました。

インタータッグに挑戦したロビンソンと天龍

実はこの試合のおよそ1年半前の1月、ロビンソンと天龍はシングルで対決しています。このときロビンソンのテクニックに翻弄されフォール負けを屈した天龍は、リスペクトと共に打倒ロビンソンというのが心にあったようでした。そのロビンソンとのタッグ、まさに運命だったのかもしれません。

試合の方は馬場さん、鶴田を相手にした天龍が猛ファイトを展開。日本人同士、そして先輩、師匠を相手にも一歩も引かない戦いを繰り広げました。

くすぶっていた何かが弾けたような好ファイトを見せた天龍

頭角を現した天龍に同年NWAの世界タイトルへの挑戦も決まり、ますます勢いに乗りますが、ここにもうひとつ、天龍の運命が動き出す顔合わせが実現します。この年の7月、国際プロレスの団体としての活動が停止してしまった為、新たな戦いの場を求め全日本へやってきた阿修羅・原との初対決でした。

今見ると身震いしてしまうような構図だ・・・

10月2日、天龍のリック・フレアーへの挑戦のわずか4日前に、まさに待った!!をかけた勢いで立ちはだかった原。天龍は他団体からケンカを売ったような形のこの対戦に闘志むき出しで応戦し、負ければNWA世界タイトルへの挑戦はしないとまで申し出たそうです。

試合はリングアウトで天龍が勝利しましたが、今に思えばもはや結果ではなかったんですねぇ・・・この初遭遇が天龍の長いプロレス・ロードにおける「運命の出会い」だったんですね。

こうして思わぬ運命の出会いを経た天龍10月6日、晴れてNWA王座へ挑戦します。

NWA初挑戦となったフレアー戦

結果は2-1で敗れてしまいましたが、原との戦いがあったかなかったか?ではこのNWA戦の中身も変わっていたんじゃないかなと・・・原と戦うことによって一皮むけた感が、この試合にはあったと思いますね。

その後、試合ではバチバチに火花を散らしていた天龍と原がコンビを組み、同年末の世界最強タッグに驚きの出場をします。

初タッグながら好連携で活躍を見せた

歩んできた道もプロレスをしていた団体もちがうふたりが戦って、そしてタッグを組む。そしてプロレス人生へ・・・ドラマを感じますねぇ・・・

81年、レスラーとしての覚醒と運命の出会いを果たした天龍は明けた82年も注目が集まりました。まず1月には全日本プロレス新春恒例のバトルロイヤルで優勝。2月には東京体育館でミル・マスカラスの持つIWA世界ヘビー級王座に挑戦。最後はダイビング・ボディアタックに敗れましたが、相撲出身の天龍が、当時日本では使い手がそれほどいなかったトペ・スイシーダを見せるなど健闘を見せました。

3月、4月は昭和最後のリーグ戦となった春の祭典、第10回チャンピオンカーニバルで3月に越谷市体育館で馬場さんと初対決。そして最終戦、福岡国際センターでジャンボ鶴田と初の一騎打ちが実現しました。

手に汗握る攻防となった初対決

お互いに技量を出し尽くしての時間切れ引き分けに終わりましたが、この試合もまた天龍の株を大いに上げた一戦でした。そして原戦然り、のちのジャンボとの抗争の原点となる運命的な戦いだったと言えそうですね。

10月には青森県営体育館にてブルーザー・ブロディの持つインターナショナル・ヘビー級選手権にも初挑戦。ブロディがうまさを見せ、逆さ押さえ込みで敗れてしまいましたが、これまた天龍株を上げた一戦でした。

83年、ますますレスラーとして上り調子を見せる天龍は4月7日、宮城県スポーツセンターでケリー・フォン・エリックの持つミズーリ州ヘビー級王座にも挑戦しました。

当時、「ミズーリを制する者は世界を制す」と謳われたミズーリ州ヘビー級王座。NWAとタイトルしては当然、州のタイトルに過ぎないこのベルトでしたが、次期NWA王者候補や過去のNWA王者がチャンピオンになることが多かった、言ってみれば世界一価値のあるローカルタイトルでした。

そんなこともあり、まずアメリカから外に出ることがなく、日本ではお目にかかれないはずのベルトだったんですね。それが海を渡って日本に来て、日本でチャンピオンシップが行われるという・・・これは価値があると思いました。

ケリーのクローをこらえる天龍

おそらくアメリカ国内では日本人が挑戦した過去はないはずなので、天龍と、あと石川だけだったんじゃないですかねぇ?やっぱりすごい経歴の持ち主ですね。

この後、同じく4月16日には愛知県体育館でブルーザー・ブロディの持つインターナショナル・ヘビー級選手権に再び挑戦。残念ながらフォール負けを屈します。そして4月20日、東京体育館では2度目となる鶴龍対決が実現します。

初対決と同じく、勝負はつかなかった

初対決同様、お互いを出し尽くしての時間切れ引き分けとなりましたが、1年前とはさらにレベルがちがう攻防を見せた試合でした。

そして10月はいよいよUNヘビー級選手権が絡んできます。このとき鶴田の王座返上で空位となったタイトルの王座決定戦が行われ、決定戦に残った天龍とデビュー戦の相手でもあったテッド・デビアスの間で同月16日に佐世保市体育館で試合が行われました。このときは追い込みながらスモールパッケージ・ホールドを逆に切り返されフォール負けとなってしまいます。23日の後楽園ホールでは、挑戦者としてデビアスと対戦しましたが、こちらも押し気味に試合を進めましたが場外で足を掬われ両者リングアウトとなってしまい、いずれも王座移動には至れませんでした。

必殺の「デンジャラスドライバー・テンリュウ」をデビアスに見舞う

しかし実力をつけた天龍が初のシングルタイトル奪取へ着々と歩を進め、近づいていくのは明らかでした。

こうして迎えた84年。王者であったテッド・デビアスが同年1月28日ジョージアでマイケル・ヘイズに敗れ王座から転落。そしてわずか6日後、今度は2月3日にテキサスで鉄の爪二世のデビッド・フォン・エリックがヘイズを破り王座に就くというめまぐるしい王座移動劇が展開されました。こうして2月9日、UNヘビー級王者としてデビッドが来日。天龍とUNヘビー級選手権を行うはずでしたが・・・来日した翌日の2月10日、宿泊先のホテルで急死するというショッキングな出来事が起こってしまいます。

このため2月23日、蔵前国技館でのUNヘビー級選手権はリッキースティムボートとの王座決定戦となりました。

急遽実現したリッキーとの王座決定戦

結果はグランド・コブラで天龍がフォールを奪い、ついにシングル王座初栄冠となりました。が・・・デビッドとの一戦、見たかったなぁ。UN王者でもあり次期NWA世界王者候補でもあったデビッドが易々とやられるわけはないし・・・もし実現していたのなら一体どんな試合になったのか?そしてあとへ続く天龍のその後のプロレスも大きく変わっていたかもしれません。そう思うと残念ですねぇ・・・

その後、今度は王者としてデビアスを迎え撃ち快勝。阿修羅・原、上田馬之助、デッィク・スレーター、ジム・ガービンらを相手に防衛戦を展開し波に乗ります。

そして同年9月12日、茨城県の水戸市民体育館でリック・フレアーの持つNWA世界ヘビー級選手権へ再び挑戦することになります(茨城県で行われた唯一のNWA戦です)

テキサス・クローバーホールドで攻める天龍

およそ3年前とはちがう、レスラーとして成長しUNヘビー級王者として挑戦した天龍の2度目の挑戦では1本をフォールで取り、反則がらみで奪取には至れませんでしたが王者フレアーを大いに追い込み、十分、NWAに手の届く位置にいることを証明しました。次回挑戦すれば奪取も夢ではない・・・しかしこれが天龍にとって最後のNWA挑戦でした。

後編へ続きます。