団塊Jrのプロレスファン列伝
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アントニオ猪木をさがして~感想~

どうも!!流星仮面二世です!!

 

ということで先週の10月22日、映画「アントニオ猪木をさがして」を嫁と観てまいりました。

 

本当は公開後すぐに観に行く予定でしたが、急な用事が次から次へと入ってきては先延ばしになり、映画に行くまでに時間がかかってしまいました。


そんなこともあり、この映画に対するいろいろな前評判が耳に入ってきてしまっては、こんなに賛否両論で・・・大丈夫なのかな!?と、心配になってしまうこともありました。でも実際に観てみるとよくできており、ボクら夫婦にとっては楽しむことができた映画でした。

 

ということで、ちょっと感想・・・心に残ったところを述べさせていただきたいと思います。

 

まずは映画の序盤。ここではブラジルに猪木の軌跡を探すということで、その当時に実際に猪木と一緒に働いていた人や、となりに住んでいた仲間が登場。まだプロレスと出会う前の猪木が働き生活していたところを紹介し、猪木との思い出が語られるというものでした。

 

プロレスと出会う前の猪木は、こんな風景の、こういう場所で仕事をして過ごしていたんだ。この視点から、この場所を眺めていたんだな・・・日本を離れ急に変わった生活の中で、どんなことを思いながら日々を過ごしていたのかな・・・そう思うと、もうそれだけで胸がいっぱいになりました。猪木がときおり語っていた「ブラジルに行かなければ力道山と会うこともなかった」という言葉もフワッと頭を過り、ここがプロレスラー、アントニオ猪木の原点なんだなと感激しました。叶うなら現地に行って、この風景を直接この目で見てみたいと思いました。

 

そして、原悦生さんです。猪木の戦いの写真が映し出され、そして原さんが映画に登場してきたときの胸の高鳴りといったらありませんでした。生涯を猪木にかけ、数々のシーンをカメラに収めてきた原さん。そんな原さんが常人では知ることのできない猪木との思い出を語る・・・まさに今回のこの映画で、最も「アントニオ猪木をさがして」の題名にふさわしいシーンだったのではないか?と思いました。


最後に、もう言うまでもないと思います。最も心に響いたシーン。「あ~そうだったよなぁ」とジーンとなったのが、あの80年代の子供のドラマでした。

 

本当に同じでした。ああやってノートに書いて・・・ボクはイラストも入れてましたけど、もう、だいたい一緒です。で、教室の後ろや下校の帰り際に幼馴染みと「今夜のプロレスはさ、猪木がさ」って、しゃべって・・・毎週毎週、そうやって過ごしてきました。これはボクだけじゃなかったはずです。どれほどの人数の同年代のプロレスファンが、これと同じことをしていただろうか・・・嫁にも「これ、お父さんまんまじゃん」と突っ込まれ、うれしなつかしで涙目になりましたねぇ~。

 

ちなみに、プロレスが好きではないのに毎週テレビで見せられて覚えてしまったというお姉ちゃんのコブラツイスト。足のフックは床に着いていましたが腕の使い方は抜群。やけにうまかったところを見ると、まさにホーガンのそれではなかったか?と思いました。門前の小僧、習わぬ経を読む。「腕を組んでますね。これでいいわけですよ!!」という小鉄さんの声も知らず知らずのうちにお姉ちゃんに届いていたのかもしれませんね~。

 

と、ボクはこのあたりが印象に残ったのですが、嫁の感想はまたひと味ちがうものでした。


まず映画が終って嫁の口から開口一番出た言葉が「よかった~。アタシ、もう1回観たい」でした。嫁は昔のプロレス映像に懐かしさを感じ、映画の猪木を通して時代が見えてよかったと。そしてドラマシーンはどれもよく、すべてに感動したと。人は猪木を知ることにより「力」を得られる。これが心に響いたそうで、自分も力を得られた。ヤル気でたー!!また観たい!!と、この映画を大絶賛していました。

 

そして、さらに嫁の映画に対する感想を聞いて「なるほど。そういうことなんだなぁ・・・」と、思うところがありました。

 

そう世では、この映画に対する評価が別れています。その内容は、正直なところ絶賛より酷評の方が多いのが現状です。確かに、どのシーンとは言いませんが、ボクも観ていて理解できない、腑に落ちないところが何点かありました。知ってのとおり、ボクは昭和のプロレスファン。その象徴こそアントニオ猪木でした。なので・・・そんな意味不明なシーンを入れるなら、本来出演するべきはずである猪木のゆかりの人物へのインタビューや、あの徹子の部屋のシーンのようにプロレス以外で猪木がテレビに出ていたシーンをひとつでも多く映画に取り入れてくれたらよかったのに・・・という「こうしてほしかった」と思うところがあったのです。


でも、嫁はちがいます。たとえば嫁は猪木とアリが戦うに至った経緯や、その試合のルールのこと、のちの世論の評価などは一切知りません。ペールワン戦なんか見たこともないし、ストロング小林戦が世の中にどんな影響を与えたのか?なぜ藤原が雪の札幌襲撃事件を起こしたのか?どんな理由で猪木問答が生まれたのか?そういったことは、まったく知らないのです。

 

ただ、毎週金曜8時にブラウン管に映し出され、ジェットシン、ハンセン、ホーガン、アンドレ、長州の維新軍と戦うアントニオ猪木の姿は知っていたのです。


そう、仕事から帰ってきてテレビをつけ晩酌始めるお父さん。お勝手仕事終わって茶の間で一息するお母さん。力道山の頃からプロレス見ているおじいちゃん、おばあちゃんも。そして・・・そんなお父さん、お母さんや、おじいちゃん、おばあちゃんと一緒に猪木を見ていた子供が、当時はたっくさん、いたのです。


その猪木は、誰が見てもわかりました。アントンハイセルやクーデターや興行戦争のことなんてわかりません。でも、テメェーコノヤロー!!と拳を固める怒りの表情や、手を叩きみんなにアピールする姿。延髄斬り、コブラツイスト、卍固め、そしてダーッ!!は、みーんな、わかりました。そして、そんな猪木を見るとみーんな、うれしかったんです。そうやって・・・誰もがアントニオ猪木を見て育ったんです。そうやって大人になった人が、たっくさん、いたのです。


あの頃、猪木を見ていたのは大のプロレス好きや猪木マニア、猪木信者だけではない。日本中のみんなが、この姿を見て歓喜していたのだ


猪木のプロレスはみんなわかった。だから今回の映画も・・・誰が見てもわかるようにしなければならなかった。だからああいう作り方だったのではないのかな・・・と、ボクはそう思ったのです。

 

アントニオ猪木の引退試合。あのとき、猪木の入場時に古舘さんは

 

「人によっては20代の猪木を、世代によっては、熟年の猪木を思い起こしているのでしょうか!?」

 

と実況しました。

 

まさしく、この言葉こそ今回の映画のテーマだったのではないかなと思います。そう、アントニオ猪木はひとりひとりの心の中にいるんです。だから探すことに意味があるんです。だからまた・・・探しに行けることを喜びたいと思います。


テキサスブロンコ~テリー・ファンク追悼~

どうも、流星仮面二世です。
 
さて、遅くなってしまいましたが8月23日にテリー・ファンクが亡くなってしまいました。ということで今回はその追悼ですね。テリーの思い出を振り返っていこうと思います。
 
テリー・ファンク。もはや語るまでもありませんよね。1970年代後半から1980年代前半まで、日本でこれほど人気があった外国人レスラーはいなかったと思います。ファイトスタイル、ファンの姿。関することは、どれを取ってもプロレス史に残る燦然(さんぜん)たるものでした。
 
しかし、実は小学校の頃のボクのテリーに対する印象は、けしてよいものではありませんでした。
 
そう、ボクが見てた頃のテリーというのはハンセン、ブロディに毎回メタメタにされている時期でした。その試合内容は、とにかくやられっぱなし。攻撃している時間よりやられている時間の方が長くて、しかも相手の攻撃ひとつひとつに対して大きなアクションを取り、試合後に相手が去ったあとにはリング上で騒ぎだすような・・・そんなことが多く目につく頃だったのです。なので「ハンセン、ブロディは強い。やっぱりすげぇや!!それに比べてテリーはなんなんだ!?あれで本当にNWAのチャンピオンだったのかよ!?」と、こんな感じで・・・テリーには、どうしようもない苦手意識があったのです。
 
それと会場のファンです。ファンは、そんなテリーにも常に大声援を送ります。テレビから伝わってくる必死なファンの叫びや、チアガール姿の女性ファンの懸命な姿。当時のボクには「なぜ、こんなにまで応援するんだろう?」と・・・そのファンにさえ理解できない点がありました。
 
やがてテリーが引退し、復帰してしばらくした頃。中学3年の終わり頃に77年のオープン・タッグ選手権のザ・ファンクスvsブッチャー、シークの試合を映像で観る機会に恵まれました。

それはプロレスの本や漫画のプロレス・スーパースター列伝で何度も目にしてきた伝説の試合。人間の腕を「フォークで刺す」という前代未聞の反則を繰り出したアブドーラ・ザ・ブッチャーと、それに耐え抜いたテリー・ファンクのプロレス史上の屈指の名勝負です。

とはいうものの・・・そのときも、どこか小学生の頃のテリーへの印象が拭えていなかったボクは、それこそ「見ておこうかな」くらいの気持ちでしかありませんでした。
 
しかし、いざ映像を見始まると、本では絶対に知ることのできなかった数々の衝撃に襲われました。その最たるはブッチャーのフォーク攻撃のスゴさです。一撃ごとに「グサッ」「ズブッ」という波動がこちらまで伝わってきては体に響き、胸に何かが込み上げるような異様な感覚に陥っては気分を悪くすらしました。そしてブッチャーだけでなく、実際にはザ・シークも凶器を使ってテリーの腕を何度も突き刺す攻撃をしていたことを知り、その衝撃はさらに大きくなっていったのです。
 
「なんだよー!!ジョー樋口は何やってんだよ!!」
 
人間の腕が刺されるという、これまで見たこともない光景。そしてブラウン管から伝わってくる異様な空気と甲高い悲鳴に、完全に感情移入していたボクは思わず声を上げてしまっていたのでした。

でも、そんな事態にも耐え抜き、テリーは反撃します。ブッチャーのフォーク攻撃に対し、血まみれで左のパンチを返していったのです。

「よぉーしテリー!!いけー!!」

そして、ピークはその直後に訪れました。パンチでブッチャーに反撃後、なんとかドリーへタッチはしたものの、ダメージが大きかったテリーはそのまま場外で悶絶。ドリーが孤軍奮闘しますが、やがてふたりががりの凶器攻撃をされ万事休すの事態に追い込まれてしまった、そのときでした。

場外で苦しんでいたテリーが刺された右腕と左の拳にテーピングを施して復帰。サードロープをくぐり、握りこぶしを作るとブッチャー、シークを見つめながらゆっくりと、一歩一歩を踏みしめるかのように近づいていき、そして怒りのパンチを見舞ったのです。
 
「テリーがいった、テリーがいった、テリーが、左のパンチー!!」
 
このテリーの攻撃が機転となり、まもなくレフリーに手を出してしまったシークが反則を取られドリーの腕が上げられます。ファンクスが凶器攻撃に耐えに耐え、執念の勝利を勝ち取ったのでした。
 
すべてを見終わったあと、ボクは「テリーがいった、テリーがいった、テリーが、左のパンチー!!」のシーンを巻き戻し、何度も見ました。
 
「テリー、なんてカッコいいんだ・・・!!」
 
当時から今に至るまで長くプロレスを見ていますが、これまでにレスラーの手足の取り方や技に入る動きや技そのものなど、そういった動きを何度も巻き戻して見たというのは数多くありました。でも、そういったものでない1シーンを、これほどまでに見返したのはテリーのこれ以外にありません。技術や技じゃない。ただただカッコいい。なんてカッコいいんだ!!と・・・こうして伝説の試合は強烈に脳裏に刻まれるのでした。
 
あれから・・・時を経て思います。

自分にとって伝説のあのシーン。そう、普通であればタッグ・パートナーが相手にふたりがかりで、しかも凶器でやられているという状況を見たなら・・・負傷していようとも、レスラーはその性(サガ)ゆえに条件反射で素早くリングインし、走りよりってカットするはずです。しかしテリーはそうせず、ゆっくりとリングインし、ゆっくりと相手に接近。パンチを見舞ったのです。それは、なぜだったのでしょうか?
 
伝えしものが「怒り」だったからです。
 
フォークで腕をやられ、ドリーをやられ・・・その、ここまでのすべての怒りをテリーはリングにゆっくり入るということで表し、ボルテージを導火線にするべくためにタメにタメたのです。表情、動き・・・そのテリーの姿に、一歩ごとに怒りと反撃への希望が増大していくのがファンには見え、心情が伝わったのです。そしてそのファンに伝わりし怒りは、相手の真っ正面に到達したときにピークに達し、同時にファンの心も爆発寸前となったのです。こうして振りかざしたパンチの一撃で、ついに大爆発。レスラーとファンがひとつになった瞬間と・・・なったのです。
 
もし5、6年早く生まれていて、この試合を見ていたなら・・・まちがいなくボクはテリーのファンになっていたと思います。なぜ日本でテリー人気が大爆発したのかもわかったし、なぜハンセン、ブロディにやられっぱなしでもファンがあれほどまで必死にテリーを応援していたのか?その気持ちもわることができました。テリー、なんてすごいレスラーなんだろう・・・本当に偉大なレスラーでした。

素晴らしい時代をありがとうございました。

 

テリー・ファンク グラフティ


テリーといえばテキサス州アマリロが真っ先に思いつくが、実はテリーは1944年6月30日、アメリカのインディアナ州ハモンド出身。アマリロには3歳の頃に移り住んだようだ。画像は8歳の頃のテリー。手に持った大量の鴨を自慢げに見せる表情がかわいらしい


こちらは中学生時代のテリー。父シニアからレスリングの手ほどきも受けていたが、この頃は野球に熱中していたという。スポーツが大好きな少年だった


大学時代のアメフト姿のテリー。やんちゃな顔つきだが、その腕前はオール・テキサスのラインマンに選出されるほど。試合の度に新聞記事を飾ることも多くテキサスでの知名度は大変高かったという。スタン・ハンセンの自伝によれば当時テリーに非常に似ていたハンセンが街で間違えられサインを求められることが多々あったそうだ


1965年12月28日、テリーは21歳のときにスプートニク・モンローを相手にプロレスのデビュー戦を行ったとある。画像はデビューして間もない頃。驚くべきはこの首の太さ・・・ただ者ではなかったことがよくわかる


1970年3月、NWAウェスタンステーツ・ヘビー級王座に輝く。父シニアが初代王者であり自身初となったこのシングルタイトルにテリーは大変な思い入れがあったそうだ。初栄冠から1975年4月まで通算12回王座に就いた


ホームのアマリロでは兄ドリーと共に父シニアとタッグで出陣することも多かったという。また1972年12月18日にはニューヨークのMSGにも親子で登場。ビクター・リベラ、エル・オリンピコ組を撃破している


日本へは1970年6月に初来日。当時NWA世界ヘビー級王者だった兄ドリーと共に来日した。「ドリーのポリスマンとして日本へ行ってこい」というシニアの密命を受けての来日でもあった


その来日での日本で最初の試合は7月27日。大田区体育館で兄ドリーと組み猪木、吉村組との対戦だった。この来日第1戦を2-1の勝利で飾ると翌7月28日は横浜文化体育館でアントニオ猪木とのシングル対決が実現。8月2日には馬場、猪木vsファンクスが行われるが残念ながらいずれも敗れている


2度目の来日となった1971年。この年の12月7日、札幌中島スポーツセンターにて馬場、猪木のBI砲を破りインターナショナル・タッグ王座を獲得。末期の日本プロレスでBI砲の最後の対戦相手となった


日本プロレス崩壊後、1972年10月からは全日本プロレスの旗揚げシリーズに参加。以降、常連外国人選手にしてブッカーも勤め長きに渡り全日本プロレスに大きく貢献した。画像は旗揚げレセプションでのテリー。らしい着こなしである


1973年2月10日にジョニー・バレンタインを破りNWA世界王座の登竜門と呼ばれるミズーリ州ヘビー級王座を獲得。まさに「ミズーリを制するものは世界を制す」の言葉どおり、これが世界への第一歩となった


そして1975年12月10日。フロリダ州マイアミビーチ・コンベンション・ホールでジャック・ブリスコをスモールパッケージ・ホールドに取り、ついにNWA世界ヘビー級王座を獲得。プロレス史上、初の兄弟での世界王者となった


王者になりNWA世界ヘビー級王座を肩に下げるテリー。テリーのNWAベルトは地球儀の部分がへこみサイドの黒いレリーフがゴールド、つまりプレートと同色となっていた。いかにもテリー・ファンクというベルトだった


NWA王者時代はジャック・ブリスコ、パット・オコーナー、ダスティ・ローデス、ディック・スレーター、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ロッキー・ジョンソン、アンドレ・ザ・ジャイアント、ディック・ザ・ブルーザー、ジン・キニスキー、フリッツ・フォン・エリック、ジャンボ鶴田ら、そうそうたるメンバーを相手に防衛を続け1977年2月6日、カナダのメイプルリーフ・ガーデンでハーリー・レイスに敗れるまで1年2ヶ月君臨した。画像は1976年6月25日、テキサス州のヒューストン・コロシアムでのロッキー・ジョンソンとの防衛戦。試合は激闘の末、2-1でテリーが勝利している。同日、日本では猪木・アリ戦(日本時間26日)が行われ、NWA、AWA、WWWFは全米各地でビッグマッチを開催。格闘技オリンピックと呼ばれた日であった

 

1976年3月3日、カリフォルニア州ロサンゼルスでプロボクシングヘビー級4位のハワード・スミスとエキシビションマッチを行う。当時の記事によれば、はじめはお互い話ながらパンチや組みの形などを取り、少ししてから実戦的な動きに入っていたという。このスパーでテリーは相手のパンチを掻い潜ってタックルでテイクダウンをとるなど素晴らしい動きを見せている。近年、動画も出てきており、ボクサー相手に巧みに戦うテリーに格闘家としての評価も上がっているという。テリーのNWA王者時代の貴重なシーンだ

1977年12月2日、後楽園ホールで行われたオープンタッグ選手権の開幕戦にて、メインの公式戦の馬場、鶴田vsブッチャー、シーク戦の試合後、執拗にブッチャーに凶器攻撃されていた鶴田を救出すべく登場。ブッチャー、シークに襲いかかったが返り討ちに合い、これにより抗争が勃発する

そして迎えた1977年12月15日。オープンタッグ選手権の優勝戦でアブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・シーク組と対戦。フォーク攻撃に絶え反撃する姿に人気が大爆発。空前絶後のテリーブームが幕を開けることとなった

1981年4月30日、松戸市運動公園体育館では最初で最後の兄弟対決が実現。試合はドリーとインターナショナル選手権王者決定トーナメント決勝を争うはずだったブロディが負傷欠場となったため新王者となったドリーの防衛戦として行われることになり、その相手をリング上で抽選。テリーが引き当て実現となったというものだった。試合は白熱の展開となったが54分ちょうど、エビ固めでドリーに軍配が上がった

1981年12月13日、蔵前国技館で行われた'81世界最強タッグ決定リーグ戦の最終戦での対戦相手であったブルーザー・ブロディ、ジミー・スヌーカ組のセコンドとして突然に姿を現したスタン・ハンセンに試合中ウエスタン・ラリアートを見舞われ場外KOされる。ここから遺恨が勃発し引退まで抗争を繰り広げることとなった

日本ではブッチャー、シーク、ハンセン、ブロディらと激しい抗争を展開してきたテリーだったが、海外では長きに渡りヒールでならしたレスラーだったためラフファイトや反則攻撃はもちろんのこと実はデスマッチも得意であった。画像はチェーン・デスマッチでマイク・グラハムを締め上げるテリー。他にもブルロープ・デスマッチや金網デスマッチもこなした

1983年8月4日。引退の27日前となるこの日、東京の後楽園プールでテリーのサイン会が行われた。日本で最後の夏。引退間近、もう見られなくなるテリーを一目見ようと殺到したこの人だかり・・・テリー人気がどれほどのものだったのかがわかる
(※後楽園プールは、かつてあった後楽園競輪場の施設を改造した大型のプールだったそうです。場所は現在の東京ドームのある場所にあったそうです。情報提供:マスクド・スーパースターズ Mさん、Sさん)

1983年8月31日、蔵前国技館でスタン・ハンセン、テリー・ゴディ組を相手に引退試合を行う。最後まで決死に戦うテリーに日本中が感極まった

試合後「フォーエバー!!フォーエバー!!フォーエバー!!フォーエバー!!サヨナラ!!グッパイ、アイラビュー・・・(とボクは記憶しています)」というテリーの声が日本中の涙を誘った

翌1984年2月、蔵前国技館で行われたニック・ボックウィンクルvsジャンボ鶴田のAWA世界ヘビー級選手権に特別レフリーとして来日。久々に日本のファンの前に元気な姿を見せ名(迷?)レフリーぶりを発揮した

1984年8月、スーパーパワーシリーズにドリーのマネージャーとして来日。開幕戦からセコンドとしてリングサイドに現れたが、ドリーがハンセン、ブロディに攻められるとリングインし身を挺してかばう姿を見せた。しかし8月26日、田園コロシアムで行われたハンセン、ブロディvs馬場、ドリーのPWF世界タッグ選手権でハンセン、ブロディの合体パイルドライバーの前にピンチに立ったドリーを助けるためついに手を出しリング内で乱闘を起こしてしまう

試合後のテリー、ドリー、馬場さん。テリーはこれを機に現役復帰を宣言することとなった

日本での宣言により1984年10月に海外で復帰。日本へは同年の'84世界最強タッグ決定リーグ戦の開幕戦となる11月22日、松戸市運動公園体育館から参戦となった。試合は公式戦としてタイガー・ジェット・シン、マイク・ショー組と対戦し勝利している。1985年10月からはゴールデンタイムへ復帰した全日本プロレス中継にも登場。ザ・ロードウォリアーズや長州力との対戦が実現したが、このときは人気、評価は別れるところとなった

1985年6月からはヒールとしてWWFへ登場。7月13日には1972年12月以来、約13年ぶりにMSGへ登場しラニー・ポッフォを18分56秒、スリーパーホールドで葬った。以降ヒールとしてハルク・ホーガンやジャンクヤード・ドッグと抗争を展開していった

1986年4月7日にはレッスルマニア2のロサンゼルス大会にザ・ファンクスとして出場。ティト・サンタナ、ジャンクヤード・ドッグ組と対戦しヒールらしく名誉の反則負けとなった。しかしファンと記念撮影に応じるファンクスは、よく知るあの顔である

1990年頃からは海外、日本とインディー団体を転戦。1993年にECW。日本ではFMW、IWAジャパンと渡り歩き、ここで1970年代の海外でのヒール・テリーのラフファイトが復活。これがハードコア・レスリングの先駆けとなり、のちにハードコア・レジェンドとして高い評価を受けることとなる。画像は1995年4月2日、東京ドームで行われた夢の架け橋でのテリー。入場時、スピニング・トーホールドの流れる中、大テリーコールを受け花道を歩いてくるテリーの姿が印象的だった

1995年5月3日、夢の架け橋の翌月には新日本プロレスに初参戦。福岡ドームで越中詩郎と組み、蝶野正洋、冬木弘道と対戦。6年後の2001年10月8日の東京ドームではザ・ファンクスとして登場。藤波辰爾、ボブ・バックランド組と対戦。夢の対決を行った

2015年11月15日、両国国技館行われた天龍源一郎の引退試合に姿を見せたテリー。これが日本での最後の姿となった

☆テリー・ファンク必殺技図鑑

スピニング・トーホールド

父ドリー・ファンク・シニアから息子たちへと受け継がれたザ・ファンクスの伝家の宝刀。プロレスは左を攻めるのが鉄則だが本家ファンクスのスピニング・トーホールドは右足へ決めるのが流儀。ドリーもこの形で決める

ローリング・クレイドル

テリーがオクラホマ・ヘイライドを改良し完成させた技。スタンドで左足を掛けそのままグラウンドへ移行。回転し遠心力で股裂きを決める。ギブアップを奪うことはもちろん、フォールも取れる必殺技だ。現在も使われることがあり、またファンの中にはこの技を茶化す人もいるが、そんな人には回転する度に加速していく全盛期のテリーのローリング・クレイドルをぜひ見てほしい。きっと考えが変わるはずだ

エルボー攻撃

エルボーバット、エルボースタンプ、エルボードロップなど、一連のエルボー攻撃を得意としたテリー。全身で放つそれは戦いの随所で大きな効力を発揮した。マードック、スレーター、デビアス、ハンセンなども同じ流れを組む、アマリロ・ファンク一家の伝統的なスタイルでもある

パンチ攻撃

サウスポースタイルのテリーが右ジャブから左のストレートへと繰り出すパンチ。テキサス・ジャブ、テキサス・ナックルパートとも呼ばれる。テリーがいつ頃から使い始めたのかは不明だが、攻勢時でも劣勢時でもジャブ1発ごとに会場のボルテージが上がるテリーの魅力あふれる技である

テキサス・クローバー・ホールド

スピニング・トーホールドが決まらなくなったことにより開発されたというファンクス最後のオリジナル・ホールド。現在でも多くのレスラーに使用されている歴史と伝統のある技である

たくさんの思い出をありがとう。さようならテキサス・ブロンコ

集結だ!!流星仮面二世

どうも!!流星仮面二世です!!
 
さあ、ということでございまして今回は9月17日に東京・後楽園ホールにて行われましたプロレスリング・ノアの
 
「CLEANUP INTERNATIONAL presents真・飛翔 ~丸藤正道デビュー25周年記念大会~」
 
行ってまいりましたので、その模様をお送りいたします。
 

今回の観戦。まずノアですが、ボクが最後にノアを観戦したのが2017年6月17日に茨城県土浦市の霞ケ浦文化体育館で行われましたプロレスリング・ノアの「Navig. with Emerald Spirits 2017」なので、実に6年3ヶ月ぶりとなります(輝けエメラルド)

 

そして後楽園ホールは、あの平成最後のプロレス観戦。2019年4月26日、「DRADITION 2019 NEVER ENDING DREAM TOUR」以来、4年5ヶ月ぶりになります(おれたちの8.8 ~平成最後に開花した昭和の夢~)


ということで、まさに「久々」のラッシュとなりましたが、今回ご一緒するメンツも約7年ぶりに勢揃いする面々です。まずは双子の息子たち「M.Tマシーンズ」がプロレス離れしてしまい、ちょっぴりさみしい幼馴染みの流星仮面2号。そして筋肉の北太平洋海流、和製スティーブ・マックイーンとよばれるMさん。そしてそして昭和プロレス最後の重鎮。永遠のまだ見ぬ強豪ことSさんです。

 

そう、このメンバーこそ2014年3月末の開運なんでも鑑定団の撮影日に2号の声掛けで応援に来ていだだいて以来のお付き合いのマスクド・スーパースターズの面々なのです(出撃だ!!流星仮面二世!! )

 

みなさんとはこのコロナ禍で会うことがずっとできていませんでしたが、Mさんのお声かけによりオンラインでのプロレス飲み会に参加させていただきました(コロナ禍をブッ飛ばせ~Zoomプロレスで、いこう!!~)


その後も定期的にZoomに参加させていただき、おかげさまでコロナ禍においても楽しくプロレス話をして過ごさせていただいておりました。そんなメンツが、今回は世の中の流れもコロナ禍前に戻ってきているということでプロレス観戦で集結しようと、顔を合わすこととなったのです。

 

ということで集合場所とした後楽園ホールの当日券売り場で待ち合わせ。はやる気持ちから待ち合わせの40分も前に着いてしまったボクは水分補給しながら後楽園ホール周辺をゆっくりお散歩。周辺を眺めていました。こうして改めて見る水道橋の後楽園ホール。東京ドームという響きもわるくないですが、やっぱり・・・後楽園ホールという言葉がいいですねぇ~。これからプロレス観るんだ。観に来たんだよ~という空気がどんどん体に入ってまいります。最高でありました。

 

やがて時間となるとSさんが到着。お久しぶりですと挨拶をしているとMさんもまもなく登場。そして幼馴染みの2号と続き、次々と対面していき挨拶を交わしました。こうしていよいよ場内へと足を進めることとなりました。


存在感のある大会ポスターを横目に会場へと入ります

 
通いなれた後楽園ホールのエレベーターを抜けロビーに出ると、会場内には所縁の人物、各界から丸藤への祝福のお花がたくさん飾られていました。

有名人からのお花も届いていました
 
この光景を改めて見てみると、丸藤。まさしくこの世界に影響を与え牽引してきたレスラーなんだなと、しみじみ思いました。
 
その丸藤選手。ご存じかもしれませんがプロフィールを少しご紹介しておきましょう。丸藤正道(本名、同じ)は1979年9月26日、埼玉県北足立郡吹上町、現在の鴻巣市出身。兄弟が4人おり末っ子だったそうなのですが、その兄が子供の頃に買ってきた本にあったザ・ロードウォリアーズを見て心を奪われプロレスに熱中していったと、いうことなんですね。で、こうして中学生に上がるとプロレスラーになるべく独自にトレーニングに励み、高校はレスリングの名門である埼玉栄高校のレスリング部に入部。インターハイ出場をも果たしました。また、この時期にはスーパータイガージム大宮にも通っていて、あのキングダムに入団試験を受けに行き卒業してからもう1度来いという、いわゆる入団の手前までいっていたそうなんですね。しかしキングダムが崩壊を迎えてしまいこれが幻となってしまうと、高校の恩師が三沢と縁があったことにより卒業後に全日本プロレスに入門することになります。こうしてトレーニングを積み1998年8月28日、愛知県の岡崎市体育館で金丸義信とデビュー戦を行い丸藤のプロレス人生がスタートとなります。入門から5ヶ月でのスピードデビューにして翌年1月に他界してしまう馬場さんの存命中にデビューした最後のレスラーとなったため「ジャイアント馬場の最後の愛弟子」と呼ばれるようになり、また多彩な空中殺法を使いこなすと新人らしからぬ動きで注目を集め99年度にはプロレス大賞の新人賞を獲得。そして2000年にはノアへと向かっていくことになると、いうことなんですね。

2006年9月9日に日本武道館で秋山を破りGHCヘビー級王者に。これによりGHC全タイトル制覇を達成。ジュニアでは新日本、全日本、ノアの3団体すべてのタイトルを奪取した唯一のレスラーとなるなど、めざましい活躍を見せてきた

プロレスファンになってプロレスラーを目指して。途中、一旦は格闘技に行くような流れになりますが、まるで神が強大な力でプロレスへ引き戻したかのような・・・プロレスラーになる運命を持って生まれてきた、そんな気がしてなりません。デビュー25周年。方舟の天才は、これからも不知火で天を翔け続けることでしょう。

最後までありがとうございました。

いや!!終わらないです!!

では、そんな丸藤選手の25周年記念大会、行ってみましょう。
 
※今回は全試合、試合時間(○分○本勝負)が掲載されているものを発見できなかったので記載しておりません
 
第1試合 6人タッグマッチ
ドラゴン・ベイン、アルファ・ウルフ、吉岡世起vsニンジャ・マック、アレハンドロ、大原はじめ
アレハンドロ (6分25秒 ジャックナイフ式エビ固め) ウルフ

ということで第1試合です。この試合は選手それぞれに個性と躍動感がありよかったです。そして、いい空気を次の試合へ渡したオープニングマッチとして最適、最高の素晴らしいものだと思いました。

そんな中、初めて見る選手が多かったのですが、これは!!と思ったのがニンジャ・マックという選手でした。このレスラーは身長もそこまでないので軽量級なんだと思うんですが、体型が今どきの細めのマッチョとちがい、非常にいい肉付きなんですね。しかし動きはとんでもないんですよ。小さな動きから大きな動きまで、とにかく体の重さ、まったく感じさせないんです。まるで香港映画で使われるワイヤーアクションみたいな動きを素でしてしまう感じなんです。中でも一番驚いたのは2回連続バク転してから放ったノータッチでトップロープ越えするケブラータでした。このリングの大きさでですね、対角線上じゃなくて縦線で2回連続バク転したんですよ。で、その動きから場外へノータッチで飛ぶというですね、ちょっと信じられない動きしました。これはなかなかできないですよ。本当に度肝を抜かれました。しかし、こういった動きもそうでしたし、他のいろんな動きもですね、ちょっとプロレスの持っている質とちがう気がしました。結構いろんな競技で世界を見てきてる選手なんじゃないかなと思えました。いずれ世界で活躍するレスラーになると思いますよ。素晴らしかったです。
 
第2試合 6人タッグマッチ
杉浦貴、モハメド ヨネ、齋藤彰俊vs藤村加偉、小澤大嗣、大和田侑
杉浦 (8分44秒 フロントネックロック) 小澤

これは藤村、小澤、大和田が若手でベテランの壁に挑む形の試合となりました。若手勢はトリプルドロップキックなど繰り出して必死に戦っていて、その姿に会場が後押しをして、いい感じでしたね~。一生懸命さが伝わってきてよかったです。ただ「これがノアの若手だ!!」というのを感じることができる場面がなかったところは、ちょっと残念だったかなと思いました。今後そういうところが発揮できるよう、これからのノアの若手の個々の成長に期待しております。
 
第3試合 シングルマッチ
宮脇純太vs大岩陵平
大岩 (4分50秒 ジャーマン・スープレックスス・ホールド) 宮脇

これはですね、大岩ですね。そうなんですよ、ボクはつい先日ですよ。この6月11日に茨城県神栖市のかみす防災アリーナに新日本を観に行ってオレックと組んでやってた大岩を見たんですよ(愛をとりもどせ)で、それからわずか3ヶ月しか経っていないんですよ。経っていないのに、この変貌ぶりです。コスチュームや髪型がまったくちがうものになっていましたが、それはさておき、驚いたのは大岩の体です。大きくなってましたね~。もちろんただ太ったわけではなく筋肉で大きくなっていました。上半身も下半身もぜんぜんちがって見えました。それに試合運びも変わりましたね。よくなっていました。大岩はこの日は攻撃先行。まさに"プロレス"で相手を圧倒しての勝利でした。本当に別人見ているようで驚かされました。フィニッシュがジャーマン・スープレックス・ホールドだったのは、うれしかったですね~。今日は来てよかったと思いました。
 
第4試合 8人タッグマッチ
サクソン・ハックスリー、ティモシー・サッチャー、鈴木秀樹、谷口周平vs藤田和之、征矢学 マサ北宮、稲葉大樹
征矢 (9分15秒 片エビ固め) 谷口

これはですね、申し訳ないですけどガッカリしてしまいました。せっかくここまで試合内容でファンを引きつけるいい試合が展開されていたのに、この試合は開始早々から、それぞれのレスラーが至るところで場外乱闘という流れから始まったんですね。しかも長い時間の場外乱闘です。それこそ、かたやリングサイド、かたや観客席。南側の席の上の方まで来たりロビーまで行っちゃったりするレスラーもいました。ふたりだけリング内に戻ってやってましたが、こんな観客の意識を散らした状態を作っておいて、誰がリング内を見るんですか?栄養ドリンクを飲むパフォーマンスも理解に苦しく、肝心の試合も間延び感が拭えませんでした。第3試合までいい内容で、試合テンポも会場の空気も観客のテンションもいいまま来ていたのに、ここでその流れも途絶えてしまいました。残念だなと思いました。
 
第5試合 6人タッグマッチ
清宮海斗、HAYATA、Eita vs小川良成、ダガ、スタリオン・ロジャース
清宮 (13分04秒 足4の字固め) ロジャース

G1にも参戦し一皮剥けた清宮・・・と思ったのですが、試合はわるくなかったんですが、ちょっとフィニッシュまでの伏線が弱かった気がしました。足4の字固め、わかるんですよ。でも、今日の大会背景を考えたなら、はてしてそれは今日使うべきフィニッシュだったのでしょうか?幼馴染みに聞いたところ大岩のことをノアへ誘ったのは清宮なんだそうですが、今日のような試合を続けているようだといろいろな面で大岩に抜かされてしまうのではないかなと・・・そんなことを感じました。もっと内容で魅了して、あ~清宮、いいなぁ~!!と思えるような存在になってほしいです。将来をしょって立つ選手なんですからね。がんばれー!!
 
第6試合 タッグマッチ
イホ・デ・ドクトル・ワグナーJr.、 ランス・アノアイvsサイコ・クラウン、拳王
クラウン (14分09秒 反則勝ち) ワグナーJr.

これは残念の一言に尽きる試合でした。まずイホ・デ・ドクトル・ワグナーJr.というレスラーですが・・・あれなんですよ、プロレスが「まっ平ら」なんですよ。スタンドでは立ち尽くしているときが多くグランドではどこかバタバタしていて・・・こう、リング内にいるとき無駄に持て余しっぱなしだったんですね。かと思えば突然に相手のマスクを破いたり剥ぎにかかったり。でも、もちろん荒々しいルードでもないんです。このレスラーのプロレス、スタイルやカラーは、ちょっと理解できませんでした。
 
で、そこにきて、サイコ・クラウンというレスラーです。このレスラーはピエロを用いたマスクマンのようなのですが、入場から試合終了まで、あまりに観客席へ向かってのアピールが多く、見ていてキツくなりました。試合の流れ見てアピールやるとか、そういうのまったく関係ないんですよ。ただ相手と向かい合ってるだけでもやるんです。ことあるごとにじゃないですね。ことがなくても観客席向いてワァー!っとこう、何回もやるんです。試合運びもワグナーJr.と同じように平たい感じで、プロレスのスタイル、カラーはわかり得ないものがありました。
 
そんなふたりは抗争中のようで、タッグでは軸となり戦うシーンが多々あったのですが、お互いがそういう感じなので間延び感が非常に強く、観ていて気分が悪くなるばかりでした。いつからメキシカンはこんなになってしまったのかな・・・名のある一家の名をもったレスラーだっただけに本当に残念でした。
 
第7試合 10人タッグマッチ
ジェイク・リー、ジャック・モリス、アンソニー・グリーン、YO-HEY、タダスケvs潮崎豪、中嶋勝彦、アダム・ブルックス、小峠篤司、Hi69
ジェイク (13分16秒 変型羽根折り固め) Hi69

これは言うまでもないですよね。もったいないですよ。今回は地方巡業じゃなくて記念の大会なんですよ。ビッグマッチなんですよ。配信、中継もされているんです。なのにセミファイナルが10人タッグなんですよ。ちょっと信じられませんでしたね~。
 
これじゃ個々の選手のいいところなんかまったく見えない。伝わらないですよ。選手だって能力を出せないです。試合では潮崎とジェイクが意識してやり合ってたようですが、案の定わかりづらかったです。もし抗争してるんでしたらこのふたりに絞って普通のタッグマッチにして当てて、次の大会に繋げていくとか・・・そういう流れ作るべきじゃないんですかねぇ?仮にそういうものがなかったとしても、とにかくカードの組み方、まちがってると思います。これだけレスラーがいるのに、本当にもったいない。残念でした。
 
第8試合 メインイベント・スペシャルシングルマッチ
丸藤正道vsウィル・オスプレイ
オスプレイ(23分03秒 片エビ固め)丸藤

これは素晴らしい戦いでした。まずオスプレイが入場。これで場内の空気が一変。ガラッと変わりました。華ですねぇ・・・華があるんですよ。もう入場からプロレスラーとしてのレベルがちがうんだなと感じました。そして丸藤も大歓声の中、入場してきて向かい合って。やっぱり華なんですよ。これですべてが変わりました。ああ~プロレスが始まるんだな~という気持ちが心からわき上がってワクワクしました。

試合が始まると技と間、すべてが見事に交差しては一時も目を離せないプロレスが展開されました。ボクは丸藤のビッグマッチ観たのは2016年10月のオカダとのIWGP戦以来なのですが、もちろんあれから7年経ってますし年齢も重ねたので丸藤の動きにも多少の変化はあります。でも、今の丸藤としてオスプレイと同調し、まるでチェスゲームのような展開を見せていくんです。そのひとつひとつの攻防のなんという見事さ・・・心の底から「おもしろかった」と久々に思えた試合でした。いろいろ言いません。これはゼヒ見てほしいです。2023年の年間ベストバウトだと思います。本当にいい戦いでした。
 
ということで総評です。まず、すごいと感じたのは観客、ファンの感度。選手に対する反応です。後楽園ホールということもあるかもしれませんが、それでも感度が非常にいいのが印象的でした。ファンが全試合通して、レスラーの小さな動きや細かな技にまで反応しては声を出し、それが大きな声援となっていい空気を作っていました。ここまでの一体感は他団体にはないかなと思います。選手もファンも、ものすごい気持ちが入る雰囲気。これは本当にいいと思いました。
 
一方、残念だったのは試合のカードの組まれ方です。今回のメイン以外のカードですが、まず見ていただきたいです。
 
第1試合 6人タッグマッチ
第2試合 6人タッグマッチ
第3試合 シングルマッチ
第4試合 8人タッグマッチ
第5試合 6人タッグマッチ
第6試合 タッグマッチ
第7試合 10人タッグマッチ
 
どうですかこれ?シングルマッチがメイン以外では1試合しかないんですよ。あとの6試合はすべてタッグなんです。しかも6人タッグが3試合あり、あとは8人、10人のタッグマッチなんです。これはちょっとちがうんじゃないかなと思いましたねぇ・・・
 
たとえば第1試合のようにタッグだからおもしろいものや、第2試合のようにベテランが若手の壁となっているからおもしろい・・・というふうに、こうテーマが見えるものはいいんですよ。でも今回はテーマが見えづらいものが多かったのはもちろん、いわゆるタッグ屋や、タッグの名手がやるようなタッグマッチもタッグ選手権試合もありません。そして抗争の構図などがはっきりと読み取れるようなものもありませんでした。おそらく所属選手を余すところなく参加させるため無理無理タッグマッチに押し込んだのではないかという、そういった感が否めませんでした。それも大事なのかもしれませんけど・・・でも、これじゃ多勢に無勢すぎてレスラー自身が魅力を発揮できませんし、見ている人にもわかりずらいだけです。地方でなく中継が付く記念大会なんですよ。なのに、なぜこんなカードの組み方をしたのでしょうか・・・理解に苦しい次第でした。
 
そして最後にプロレスの質です。先にも書いたようにいい選手がいいプロレスをしているのを観ることができました。しかし一方で、何をやってるんだ!?とモヤモヤとするプロレスも観ることとなりました。申し訳ないのですが、はっきり言わせてもらうと「おもしろい試合とつまらない試合の落差がありすぎ。あまりに極端だった」ということです。今回25周年を行った丸藤は44歳。オスプレイは新日本の選手です。それがメインで最高におもしろく素晴らしかったのです。だとしたら、今、この団体に必要なものはなんなのでしょうか?今後はどんなプロレスが求められるのでしょうか?レスラーはどういうプロレスをしていけばいいのでしょうか?そこを考えていくことが将来、重要になってくると思います。ノアの今後の展開、新たな展開を楽しみに、期待しています。
 
さて、こうしてプロレス観戦のあとは「TGIフライデーズ 東京ドームシティ店」で打ち上げとなりました。オンラインではない直接顔を合わせてのプロレス話はやっぱり最高でした。この日の観戦話や過去の観戦話。それに会場の歴史話は自分よりも前の時代のプロレスをリアルタイムで見てきたMさんSさんに聞けたのが最高でした。自分の中で謎であった「後楽園プール」の話や後楽園球場の話。蔵前国技館や大宮スケートセンターの話など・・・でも一番すごかったのは後楽園ホールで第11回ワールド大リーグ戦の開幕戦を観に行きゴリラ・モンスーン、メディコ2号、3号を生で見たというSさんの話でした。モンスーンは見てみたかった・・・うらやましいお話でした。
 
今回は店の使用時間もあり短い時間でしたが、次回は観戦はもちろん、観戦抜きで飲み会だけでもいいですなぁ。ゼヒともよろしくお願いいたします。楽しい1日、楽しい観戦でした。また行きましょう!!ありがとうございました。

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