50歳、最後の闘魂 ~後編~ | 団塊Jrのプロレスファン列伝

50歳、最後の闘魂 ~後編~

後編です。

 

献花を終え両国を出、いよいよ帰路を迎えることとなりました。

 

でも、その前にレガさんとどうしても会わせたい人がいたので、わずかな時間ではありましたがセッティングをさせてもらいました。

 

その人とは、このブログでも何度かお話してます、あのM.Tマシーンズの父親にして幼馴染みで親友の流星仮面2号こと岡田慎一郎(岡田慎一郎公式サイト)です。

 

 

バベルの塔は崩れない

 

2号はプロレスの大ファン。そんなこともありレガさんのことは以前からよく話していました。

 

「レガさん、知ってるよ~。ブログすごいよねぇ。いやぁ~ゼヒお会いしたいねぇ」

 

会うとよくこんな会話をしていた2号も同い年。同じ時代のプロレスを見てきた仲間です。でも、自分にとってはそれだけではありません。2号がいなければ小学校、中学校時代に真のプロレス話をできる相手がいませんでしたから、それこそ猪木同様に「もし出会わなかったら、はたしておれはプロレスを好きになっていただろうか」という世界観にまで発展するほど。まさに生きるプロレス原体験。自分に絶大な影響を与えた人物なのです。


まさしく、ボクらは"燃える闘魂"を共有し大きくなっていった仲だったのだ

 

そんな幼馴染みの2号とレガさんが対面するシーンを見たい。共に話したい。レガさんは飛行機の時間があるので限られてしまいますが、この機会にわずかでも、顔合わせだけでもできないだろうか?そう思い連絡をしてみると

 

「ゼヒゼヒ!!ちょうど東京で仕事なんだ。早く切り上げて行くよ」

 

と、うれしい返事が返ってきました。

 

一方のレガさんも、ゼヒ!!とのことでしたが、日本の介護関係のトップの人に、ワタシなんかが・・・と、躊躇な面も。いえいえ~そこは同級生。何より2号のプロレス、格闘技の知識たるや。何をどんな角度から話してもカウンターできますし、とにかく詳しいのでいいやり取りができるはずです。

 

ということで猪木のお別れの会のあと、独断さんとレガさんが初めてお会いしたときと同じく水道橋で待ち合わせることになりました。

 

それにしても東京ドームシティ、変わったなぁ・・・昨年末はウルトラマンEXPO、年明けは新日本の1.4と来たけど、そのときもわずか数日前にあったお店がなくなったりしてた。そして今日、改めて見ればデニーズもなくなって、その並びのローソンもついになくなっちゃって・・・店が一件もなくなってしまって、さみしくなってしまった。

 

しかし東京ドームに行ってみると、ここも異変が。あの中尾彬も絶賛のオイスターソース焼きそばがうまかった中華料理の嘉賓(かひん)はなくなり、そしてレガさん、独断さんと初めて顔合わせし、最初に行ったお店の銀蔵もなくなっていたのです(おれたちの8.8 ~平成最後に開花した昭和の夢~)

 

これはまいったな・・・と、ドームの周囲を徘徊。やがて逆の方へ回り「タコベル」というタコスのお店の前に。お店の外にもテーブルがあるこのお店。この日は天気がよく暖かかったので店内でなく、この外の席に陣取りましょうということになりました。

 

間もなくして2号から駅に到着したという連絡が。こうしていよいよ対面となりました。

 

「あー、はじめまして!!」

 

という声と共に広がる不思議な空間。本当にふたりが会ってるんだな~。うれしい気持ちももちろんありましたが、不思議でたまりませんでした。

 

その後、とりあえず何か食べましょうということでこのタコベルのタコスを注文します。

 

できるまで少々時間があるので

 

「おれが取ってくるからゼヒ。お話しててくださいよ~」

 

と、ボクはひとり店で待ちました。そんな待ち時間。ふと外に目をやると・・・


これは・・・


ついさっきまで周囲にたくさん人がいたのに、そのときはふたりだけしかいませんでした。まるで異世界に入り込んでしまったような・・・そんなシーンを見ているかのようでした。

 

やがてタコスを片手に乾杯。3人で話すこととなりました。

 

はじめましてなのに、やっぱりプロレスファン同士だなぁ。滑らかに、次から次へと話が出たかと思えば、まったく途切れない。その内容たるやライトな話かと思えばコアな内容の応酬にもなったり、反則スレスレな内容になったり飛び道具もあったり。でもすべて噛み合っているのです。まさに出会いのストロングスタイル、トークの猪木・ロビンソン戦と言ってもいいくらいの"攻防"が展開されました。

 

それにしても・・・レガさんと2号がしゃべっている。このふたりが同じ場所にいて、こうして話していることは本当に不思議なんだけど、でもなぜか違和感がまったくない。ふたりは本当に初めて会ったんだろうか?実はおれの知らないところですでに何度か会ってたんでは?というくらい自然。それも不思議でした。

 

そして、ふと思いました。レガさんを見ていると何かを思い出しそうになる。というのは度々書いているんだけど、その答えのひとつが、この2号なんじゃないのだろうか?と・・・

 

なんだろな?なんか似ているんだよな・・・いや、しゃべり方とか考え方、性格とかじゃなくて、なんというんだろう?自分との間合い?リズムというか、テンポというか・・・レガさんと2号は、そこが似ている気がしたのです。

 

だから、おれも2号もレガさんも、ほっといたらおそらくずっーと話し続けられるんじゃないかな?ふたりの話す様子を見て、そんなことを感じていました。

 

そして・・・楽しい時間はあっという間に過ぎてしまいました。今日はあまり時間がなかったけど、今度はゆっくり。腰を据えて話しましょう。それに、おれたちも落ち着いたら北海道に、レガさんに会いに行こうぜ!!と言葉を交わし、この日はお別れとなりました。

 

本当は早めに空港に行きゆっくりする予定でしたが、あまりの楽しさに引っ張りすぎてしまい、申し訳ないことに飛行機への搭乗の時間がギリギリとなってしまいました。ということで空港内の途中でお別れをしたのですが、心配にもなり、こっそりあとから追いかけ搭乗口まで見届けさせてもらいました。

 

搭乗口前でひとりチェックを受けるレガさん。やっぱりもう少し早く来るべきだったなぁ・・・見て込み上げてきたのは自分のダメさ加減でした。今回は最初から最後までダメなところばかり出ててしまった。レガさんに迷惑ばかりかけてしまったな・・・申し訳なかった。もう失敗が起きないよう、メンタルを元に戻す努力をしていこう。

 

そして空港までの車の中でレガさんと話した「今日がプロレスファンとしての一区切り」という言葉。おそらく昭和のプロレスファンの多くが同じことを感じたはずです。もちろん自分もそうです。でもプロレスだけじゃなく、この2日間は自分にとっては人生の分岐点にもなった日でした。

 

「今日を境に流星さんもよい方向へ向かいますよ!!」

 

レガさんが言ってくれたその言葉が本当にうれしかったです。そうだ・・・人生、プロレス。いろいろ・・・やり直しだ。そう思いました。

 

翌日、洗濯から上がったTシャツを畳もうと手に取りました。

 

猪木のTシャツかぁ・・・

 

これは、そうだったな。買ったのは中学3年のときだったな。あれから35年か。長かったなぁ。いろんなシーンで着たなぁ。でも、もう二度とこのTシャツを着ることはないんだろうな。そしてアントニオ猪木を見ることも、もうないんだ。できないんだなぁ・・・

 

このブログで猪木の追悼をしたとき、ボクは
 
「家族でプロレス好きだった生家のおかげで、ボクは乳飲み子の頃からワールドプロレスリングのかかった部屋にいました。しかし猪木がいなかったら、まずこのプロレスの放送が存在しなかったはず・・・プロレスを知る機会がなかったということになります。いや、仮にプロレスを知る機会があったとして、はたして幼少の自分が猪木のいないプロレスに興味を持てたかどうか・・・
 
それどころか、猪木がいなければ日本のプロレスは日本プロレスの馬場さんの時代までで終息してしまっていたかもしれません。だからプロレス自体がない世界になっていたかもしれません。総合格闘技もアメリカンプロレスも、アナウンサーの実況も歌や音楽もキャラクター商品も食文化も、そして国政も。いろいろなものが今とちがう、別の世界になっていたのかもしれません。出会える人にも出会えず、生まれるものも生まれず・・・今、この時点で別の世界で、自分が自分でなかったかもしれないのです。」
 
と書きました。
 
そう・・・出会える人にも出会えず、生まれるものも生まれず。今、この時点で別の世界で、自分が自分でなかったかもしれない。そう猪木がいなければ、この2023年3月7日までに何人の人に出会えなかっただろうか?人生がどれほど、つまらなかったことだろうか?
 

猪木がいたからプロレスファンになれた。多くの人と出会うことができ、話すことができた。素晴らしい時間を人生を送ることができた。みんな、アントニオ猪木のおかげだ・・・感謝しかありません。

 

さようなら青春の闘魂。猪木さん、ありがとう!!長い間、夢を思い出を、本当に、本当にありがとうございました!!

 

 

最後まで読んでいただき本当にありがとうございました。

 

レガさんのブログもゼヒ、ご覧くださいね。

 

“燃える闘魂”アントニオ猪木に「ありがとう」を言えた旅~前編~


“燃える闘魂”アントニオ猪木に「ありがとう」を言えた旅~後編~