テキサスブロンコ~テリー・ファンク追悼~ | 団塊Jrのプロレスファン列伝

テキサスブロンコ~テリー・ファンク追悼~

どうも、流星仮面二世です。
 
さて、遅くなってしまいましたが8月23日にテリー・ファンクが亡くなってしまいました。ということで今回はその追悼ですね。テリーの思い出を振り返っていこうと思います。
 
テリー・ファンク。もはや語るまでもありませんよね。1970年代後半から1980年代前半まで、日本でこれほど人気があった外国人レスラーはいなかったと思います。ファイトスタイル、ファンの姿。関することは、どれを取ってもプロレス史に残る燦然(さんぜん)たるものでした。
 
しかし、実は小学校の頃のボクのテリーに対する印象は、けしてよいものではありませんでした。
 
そう、ボクが見てた頃のテリーというのはハンセン、ブロディに毎回メタメタにされている時期でした。その試合内容は、とにかくやられっぱなし。攻撃している時間よりやられている時間の方が長くて、しかも相手の攻撃ひとつひとつに対して大きなアクションを取り、試合後に相手が去ったあとにはリング上で騒ぎだすような・・・そんなことが多く目につく頃だったのです。なので「ハンセン、ブロディは強い。やっぱりすげぇや!!それに比べてテリーはなんなんだ!?あれで本当にNWAのチャンピオンだったのかよ!?」と、こんな感じで・・・テリーには、どうしようもない苦手意識があったのです。
 
それと会場のファンです。ファンは、そんなテリーにも常に大声援を送ります。テレビから伝わってくる必死なファンの叫びや、チアガール姿の女性ファンの懸命な姿。当時のボクには「なぜ、こんなにまで応援するんだろう?」と・・・そのファンにさえ理解できない点がありました。
 
やがてテリーが引退し、復帰してしばらくした頃。中学3年の終わり頃に77年のオープン・タッグ選手権のザ・ファンクスvsブッチャー、シークの試合を映像で観る機会に恵まれました。

それはプロレスの本や漫画のプロレス・スーパースター列伝で何度も目にしてきた伝説の試合。人間の腕を「フォークで刺す」という前代未聞の反則を繰り出したアブドーラ・ザ・ブッチャーと、それに耐え抜いたテリー・ファンクのプロレス史上の屈指の名勝負です。

とはいうものの・・・そのときも、どこか小学生の頃のテリーへの印象が拭えていなかったボクは、それこそ「見ておこうかな」くらいの気持ちでしかありませんでした。
 
しかし、いざ映像を見始まると、本では絶対に知ることのできなかった数々の衝撃に襲われました。その最たるはブッチャーのフォーク攻撃のスゴさです。一撃ごとに「グサッ」「ズブッ」という波動がこちらまで伝わってきては体に響き、胸に何かが込み上げるような異様な感覚に陥っては気分を悪くすらしました。そしてブッチャーだけでなく、実際にはザ・シークも凶器を使ってテリーの腕を何度も突き刺す攻撃をしていたことを知り、その衝撃はさらに大きくなっていったのです。
 
「なんだよー!!ジョー樋口は何やってんだよ!!」
 
人間の腕が刺されるという、これまで見たこともない光景。そしてブラウン管から伝わってくる異様な空気と甲高い悲鳴に、完全に感情移入していたボクは思わず声を上げてしまっていたのでした。

でも、そんな事態にも耐え抜き、テリーは反撃します。ブッチャーのフォーク攻撃に対し、血まみれで左のパンチを返していったのです。

「よぉーしテリー!!いけー!!」

そして、ピークはその直後に訪れました。パンチでブッチャーに反撃後、なんとかドリーへタッチはしたものの、ダメージが大きかったテリーはそのまま場外で悶絶。ドリーが孤軍奮闘しますが、やがてふたりががりの凶器攻撃をされ万事休すの事態に追い込まれてしまった、そのときでした。

場外で苦しんでいたテリーが刺された右腕と左の拳にテーピングを施して復帰。サードロープをくぐり、握りこぶしを作るとブッチャー、シークを見つめながらゆっくりと、一歩一歩を踏みしめるかのように近づいていき、そして怒りのパンチを見舞ったのです。
 
「テリーがいった、テリーがいった、テリーが、左のパンチー!!」
 
このテリーの攻撃が機転となり、まもなくレフリーに手を出してしまったシークが反則を取られドリーの腕が上げられます。ファンクスが凶器攻撃に耐えに耐え、執念の勝利を勝ち取ったのでした。
 
すべてを見終わったあと、ボクは「テリーがいった、テリーがいった、テリーが、左のパンチー!!」のシーンを巻き戻し、何度も見ました。
 
「テリー、なんてカッコいいんだ・・・!!」
 
当時から今に至るまで長くプロレスを見ていますが、これまでにレスラーの手足の取り方や技に入る動きや技そのものなど、そういった動きを何度も巻き戻して見たというのは数多くありました。でも、そういったものでない1シーンを、これほどまでに見返したのはテリーのこれ以外にありません。技術や技じゃない。ただただカッコいい。なんてカッコいいんだ!!と・・・こうして伝説の試合は強烈に脳裏に刻まれるのでした。
 
あれから・・・時を経て思います。

自分にとって伝説のあのシーン。そう、普通であればタッグ・パートナーが相手にふたりがかりで、しかも凶器でやられているという状況を見たなら・・・負傷していようとも、レスラーはその性(サガ)ゆえに条件反射で素早くリングインし、走りよりってカットするはずです。しかしテリーはそうせず、ゆっくりとリングインし、ゆっくりと相手に接近。パンチを見舞ったのです。それは、なぜだったのでしょうか?
 
伝えしものが「怒り」だったからです。
 
フォークで腕をやられ、ドリーをやられ・・・その、ここまでのすべての怒りをテリーはリングにゆっくり入るということで表し、ボルテージを導火線にするべくためにタメにタメたのです。表情、動き・・・そのテリーの姿に、一歩ごとに怒りと反撃への希望が増大していくのがファンには見え、心情が伝わったのです。そしてそのファンに伝わりし怒りは、相手の真っ正面に到達したときにピークに達し、同時にファンの心も爆発寸前となったのです。こうして振りかざしたパンチの一撃で、ついに大爆発。レスラーとファンがひとつになった瞬間と・・・なったのです。
 
もし5、6年早く生まれていて、この試合を見ていたなら・・・まちがいなくボクはテリーのファンになっていたと思います。なぜ日本でテリー人気が大爆発したのかもわかったし、なぜハンセン、ブロディにやられっぱなしでもファンがあれほどまで必死にテリーを応援していたのか?その気持ちもわることができました。テリー、なんてすごいレスラーなんだろう・・・本当に偉大なレスラーでした。

素晴らしい時代をありがとうございました。

 

テリー・ファンク グラフティ


テリーといえばテキサス州アマリロが真っ先に思いつくが、実はテリーは1944年6月30日、アメリカのインディアナ州ハモンド出身。アマリロには3歳の頃に移り住んだようだ。画像は8歳の頃のテリー。手に持った大量の鴨を自慢げに見せる表情がかわいらしい


こちらは中学生時代のテリー。父シニアからレスリングの手ほどきも受けていたが、この頃は野球に熱中していたという。スポーツが大好きな少年だった


大学時代のアメフト姿のテリー。やんちゃな顔つきだが、その腕前はオール・テキサスのラインマンに選出されるほど。試合の度に新聞記事を飾ることも多くテキサスでの知名度は大変高かったという。スタン・ハンセンの自伝によれば当時テリーに非常に似ていたハンセンが街で間違えられサインを求められることが多々あったそうだ


1965年12月28日、テリーは21歳のときにスプートニク・モンローを相手にプロレスのデビュー戦を行ったとある。画像はデビューして間もない頃。驚くべきはこの首の太さ・・・ただ者ではなかったことがよくわかる


1970年3月、NWAウェスタンステーツ・ヘビー級王座に輝く。父シニアが初代王者であり自身初となったこのシングルタイトルにテリーは大変な思い入れがあったそうだ。初栄冠から1975年4月まで通算12回王座に就いた


ホームのアマリロでは兄ドリーと共に父シニアとタッグで出陣することも多かったという。また1972年12月18日にはニューヨークのMSGにも親子で登場。ビクター・リベラ、エル・オリンピコ組を撃破している


日本へは1970年6月に初来日。当時NWA世界ヘビー級王者だった兄ドリーと共に来日した。「ドリーのポリスマンとして日本へ行ってこい」というシニアの密命を受けての来日でもあった


その来日での日本で最初の試合は7月27日。大田区体育館で兄ドリーと組み猪木、吉村組との対戦だった。この来日第1戦を2-1の勝利で飾ると翌7月28日は横浜文化体育館でアントニオ猪木とのシングル対決が実現。8月2日には馬場、猪木vsファンクスが行われるが残念ながらいずれも敗れている


2度目の来日となった1971年。この年の12月7日、札幌中島スポーツセンターにて馬場、猪木のBI砲を破りインターナショナル・タッグ王座を獲得。末期の日本プロレスでBI砲の最後の対戦相手となった


日本プロレス崩壊後、1972年10月からは全日本プロレスの旗揚げシリーズに参加。以降、常連外国人選手にしてブッカーも勤め長きに渡り全日本プロレスに大きく貢献した。画像は旗揚げレセプションでのテリー。らしい着こなしである


1973年2月10日にジョニー・バレンタインを破りNWA世界王座の登竜門と呼ばれるミズーリ州ヘビー級王座を獲得。まさに「ミズーリを制するものは世界を制す」の言葉どおり、これが世界への第一歩となった


そして1975年12月10日。フロリダ州マイアミビーチ・コンベンション・ホールでジャック・ブリスコをスモールパッケージ・ホールドに取り、ついにNWA世界ヘビー級王座を獲得。プロレス史上、初の兄弟での世界王者となった


王者になりNWA世界ヘビー級王座を肩に下げるテリー。テリーのNWAベルトは地球儀の部分がへこみサイドの黒いレリーフがゴールド、つまりプレートと同色となっていた。いかにもテリー・ファンクというベルトだった


NWA王者時代はジャック・ブリスコ、パット・オコーナー、ダスティ・ローデス、ディック・スレーター、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ロッキー・ジョンソン、アンドレ・ザ・ジャイアント、ディック・ザ・ブルーザー、ジン・キニスキー、フリッツ・フォン・エリック、ジャンボ鶴田ら、そうそうたるメンバーを相手に防衛を続け1977年2月6日、カナダのメイプルリーフ・ガーデンでハーリー・レイスに敗れるまで1年2ヶ月君臨した。画像は1976年6月25日、テキサス州のヒューストン・コロシアムでのロッキー・ジョンソンとの防衛戦。試合は激闘の末、2-1でテリーが勝利している。同日、日本では猪木・アリ戦(日本時間26日)が行われ、NWA、AWA、WWWFは全米各地でビッグマッチを開催。格闘技オリンピックと呼ばれた日であった

 

1976年3月3日、カリフォルニア州ロサンゼルスでプロボクシングヘビー級4位のハワード・スミスとエキシビションマッチを行う。当時の記事によれば、はじめはお互い話ながらパンチや組みの形などを取り、少ししてから実戦的な動きに入っていたという。このスパーでテリーは相手のパンチを掻い潜ってタックルでテイクダウンをとるなど素晴らしい動きを見せている。近年、動画も出てきており、ボクサー相手に巧みに戦うテリーに格闘家としての評価も上がっているという。テリーのNWA王者時代の貴重なシーンだ

1977年12月2日、後楽園ホールで行われたオープンタッグ選手権の開幕戦にて、メインの公式戦の馬場、鶴田vsブッチャー、シーク戦の試合後、執拗にブッチャーに凶器攻撃されていた鶴田を救出すべく登場。ブッチャー、シークに襲いかかったが返り討ちに合い、これにより抗争が勃発する

そして迎えた1977年12月15日。オープンタッグ選手権の優勝戦でアブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・シーク組と対戦。フォーク攻撃に絶え反撃する姿に人気が大爆発。空前絶後のテリーブームが幕を開けることとなった

1981年4月30日、松戸市運動公園体育館では最初で最後の兄弟対決が実現。試合はドリーとインターナショナル選手権王者決定トーナメント決勝を争うはずだったブロディが負傷欠場となったため新王者となったドリーの防衛戦として行われることになり、その相手をリング上で抽選。テリーが引き当て実現となったというものだった。試合は白熱の展開となったが54分ちょうど、エビ固めでドリーに軍配が上がった

1981年12月13日、蔵前国技館で行われた'81世界最強タッグ決定リーグ戦の最終戦での対戦相手であったブルーザー・ブロディ、ジミー・スヌーカ組のセコンドとして突然に姿を現したスタン・ハンセンに試合中ウエスタン・ラリアートを見舞われ場外KOされる。ここから遺恨が勃発し引退まで抗争を繰り広げることとなった

日本ではブッチャー、シーク、ハンセン、ブロディらと激しい抗争を展開してきたテリーだったが、海外では長きに渡りヒールでならしたレスラーだったためラフファイトや反則攻撃はもちろんのこと実はデスマッチも得意であった。画像はチェーン・デスマッチでマイク・グラハムを締め上げるテリー。他にもブルロープ・デスマッチや金網デスマッチもこなした

1983年8月4日。引退の27日前となるこの日、東京の後楽園プールでテリーのサイン会が行われた。日本で最後の夏。引退間近、もう見られなくなるテリーを一目見ようと殺到したこの人だかり・・・テリー人気がどれほどのものだったのかがわかる
(※後楽園プールは、かつてあった後楽園競輪場の施設を改造した大型のプールだったそうです。場所は現在の東京ドームのある場所にあったそうです。情報提供:マスクド・スーパースターズ Mさん、Sさん)

1983年8月31日、蔵前国技館でスタン・ハンセン、テリー・ゴディ組を相手に引退試合を行う。最後まで決死に戦うテリーに日本中が感極まった

試合後「フォーエバー!!フォーエバー!!フォーエバー!!フォーエバー!!サヨナラ!!グッパイ、アイラビュー・・・(とボクは記憶しています)」というテリーの声が日本中の涙を誘った

翌1984年2月、蔵前国技館で行われたニック・ボックウィンクルvsジャンボ鶴田のAWA世界ヘビー級選手権に特別レフリーとして来日。久々に日本のファンの前に元気な姿を見せ名(迷?)レフリーぶりを発揮した

1984年8月、スーパーパワーシリーズにドリーのマネージャーとして来日。開幕戦からセコンドとしてリングサイドに現れたが、ドリーがハンセン、ブロディに攻められるとリングインし身を挺してかばう姿を見せた。しかし8月26日、田園コロシアムで行われたハンセン、ブロディvs馬場、ドリーのPWF世界タッグ選手権でハンセン、ブロディの合体パイルドライバーの前にピンチに立ったドリーを助けるためついに手を出しリング内で乱闘を起こしてしまう

試合後のテリー、ドリー、馬場さん。テリーはこれを機に現役復帰を宣言することとなった

日本での宣言により1984年10月に海外で復帰。日本へは同年の'84世界最強タッグ決定リーグ戦の開幕戦となる11月22日、松戸市運動公園体育館から参戦となった。試合は公式戦としてタイガー・ジェット・シン、マイク・ショー組と対戦し勝利している。1985年10月からはゴールデンタイムへ復帰した全日本プロレス中継にも登場。ザ・ロードウォリアーズや長州力との対戦が実現したが、このときは人気、評価は別れるところとなった

1985年6月からはヒールとしてWWFへ登場。7月13日には1972年12月以来、約13年ぶりにMSGへ登場しラニー・ポッフォを18分56秒、スリーパーホールドで葬った。以降ヒールとしてハルク・ホーガンやジャンクヤード・ドッグと抗争を展開していった

1986年4月7日にはレッスルマニア2のロサンゼルス大会にザ・ファンクスとして出場。ティト・サンタナ、ジャンクヤード・ドッグ組と対戦しヒールらしく名誉の反則負けとなった。しかしファンと記念撮影に応じるファンクスは、よく知るあの顔である

1990年頃からは海外、日本とインディー団体を転戦。1993年にECW。日本ではFMW、IWAジャパンと渡り歩き、ここで1970年代の海外でのヒール・テリーのラフファイトが復活。これがハードコア・レスリングの先駆けとなり、のちにハードコア・レジェンドとして高い評価を受けることとなる。画像は1995年4月2日、東京ドームで行われた夢の架け橋でのテリー。入場時、スピニング・トーホールドの流れる中、大テリーコールを受け花道を歩いてくるテリーの姿が印象的だった

1995年5月3日、夢の架け橋の翌月には新日本プロレスに初参戦。福岡ドームで越中詩郎と組み、蝶野正洋、冬木弘道と対戦。6年後の2001年10月8日の東京ドームではザ・ファンクスとして登場。藤波辰爾、ボブ・バックランド組と対戦。夢の対決を行った

2015年11月15日、両国国技館行われた天龍源一郎の引退試合に姿を見せたテリー。これが日本での最後の姿となった

☆テリー・ファンク必殺技図鑑

スピニング・トーホールド

父ドリー・ファンク・シニアから息子たちへと受け継がれたザ・ファンクスの伝家の宝刀。プロレスは左を攻めるのが鉄則だが本家ファンクスのスピニング・トーホールドは右足へ決めるのが流儀。ドリーもこの形で決める

ローリング・クレイドル

テリーがオクラホマ・ヘイライドを改良し完成させた技。スタンドで左足を掛けそのままグラウンドへ移行。回転し遠心力で股裂きを決める。ギブアップを奪うことはもちろん、フォールも取れる必殺技だ。現在も使われることがあり、またファンの中にはこの技を茶化す人もいるが、そんな人には回転する度に加速していく全盛期のテリーのローリング・クレイドルをぜひ見てほしい。きっと考えが変わるはずだ

エルボー攻撃

エルボーバット、エルボースタンプ、エルボードロップなど、一連のエルボー攻撃を得意としたテリー。全身で放つそれは戦いの随所で大きな効力を発揮した。マードック、スレーター、デビアス、ハンセンなども同じ流れを組む、アマリロ・ファンク一家の伝統的なスタイルでもある

パンチ攻撃

サウスポースタイルのテリーが右ジャブから左のストレートへと繰り出すパンチ。テキサス・ジャブ、テキサス・ナックルパートとも呼ばれる。テリーがいつ頃から使い始めたのかは不明だが、攻勢時でも劣勢時でもジャブ1発ごとに会場のボルテージが上がるテリーの魅力あふれる技である

テキサス・クローバー・ホールド

スピニング・トーホールドが決まらなくなったことにより開発されたというファンクス最後のオリジナル・ホールド。現在でも多くのレスラーに使用されている歴史と伝統のある技である

たくさんの思い出をありがとう。さようならテキサス・ブロンコ