プロキュストは誰だ?③ | メメントCの世界

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プロキュストは誰だ?③

 本日は大雪、っていうと北国の人に怒られますが、静岡県出身の私には、10センチ以上は大雪です。通り道を、お母さんたちと通学前に雪掻き。コツがいるので、下手くそは余計な体力を使います。子供だけが喜んでいます。雪が降りだす二日前位には、耳が痛くてしょうがない。鼓膜が滅茶苦茶痛いんですよ。キーン、キーンと、雪の女王の橇の音が聞こえて、鎮痛剤飲みまくります。

 20年前の横浜一帯はカンパ、いえ寒波が襲い、30センチ以上の豪雪(私には)が降っておりました。会社や劇場に行くのに、よく遅刻しまくっていたのが思い出されます。雪が積もった日曜など誰もいない会社のでっかい稽古場に行って、グランドピアノを好きなだけ弾きまくるのが孤独な楽しみでした。当時はセコムもなく、ええ時代や~~でした。稽古場というのは、どんだけ叫ぼうが歌おうが自由です。普通の人はそんなことしませんよね。でも、爽快ですよ。そんな稽古場が無いと精神が不安定になった私の二十代、今では良き青春です。

 思い起こせば29年前位の埼玉、豪雪で山のてっぺんにある学生寮に戻るのに、雪山をはいつくばって登りました。雪の夜道は何だか明るいんですね。武蔵野音大入間校舎の女子寮に麓から行くには、雪道だと30分かかるので門限21時が守れません。そして山道をザックザックと行く途中には、真っ暗ホールや、真夜中に喋るという噂のバッハの銅像があり、ホラーでした。雪山(私にとって)は非日常で怪異に満ちていたのです。

 雪が降ったので思わず走馬灯が回ってしまいました。
前回の続き、快調に誤字とブログを書き飛ばしています。今日の稽古場は音楽も入るので楽しみです。

 キリシタンを畏れた幕府、その理由は「イエスの愛の平等」です。
身分制度で社会秩序を保っていた日本の社会には、これまた脅威でした。
ヨーロッパ・カトリックでは、王権神授説(王様の権利は神からもらったからエライんだよ!)という言い訳を作っていたので、王様は身分制度を維持していましたが、そんな神様が日本に来られたのではたまりません。島原の乱でキリシタンの武装闘争がおきて慌てた政府は、オランダ以外のヨーロッパ勢力を駆逐します。オランダ人は大砲を売っても布教をしませんでしたからね。
 「海鳴りの底から」堀田善衞を読むと、そういうオランダのドライな武器商人の様子がうかがえます。マーティン・スコセッシの「沈黙」の公開が待たれますね。

おっと、ブッダの愛は平等か??
日本仏教のプロテスタント勢力にあたるのは、当時、一向宗と呼ばれた浄土真宗にあたります。「仏は皆、御救い下さる」はずで、農民も被差別民も救うはずなんです。ですから、浄土真宗は当時、農民や下層民を中心に広まり、しばしば時の勢力と対立しました。私も分かっておりませんでしたが、日本の仏教は宗派で全く別物で同じ仏教といってもホントに!違うのですよ。
葬式やってくれりゃあいい、というのが現在の一般の最も多く望む声ですが、「生きる縁」は身分差別社会には大変大事だったんですねえ。仏教そのものも、カースト制度を引きずってます。ですからその身分差別や女性差別というのは、仏道で往生したけりゃ逃げられないのです。
 それで何でも序列があって、お天子は天台宗、公家は真言宗、公方【徳川】は浄土宗、大名は禅宗(曹洞宗、臨済宗など)、乞食は日蓮宗や農民、門徒(一向宗)はそれ以下、と陰口を叩かれました。今は天皇の親戚が東西の浄土真宗に居ますからどうなんでしょうね。

 儒教も身分制度を支えます。ご公儀と呼ばれる幕府が親で、民百姓は武士を敬い、その身分秩序に見合った暮らし、生産活動で幕府を支えるのが善き生き方です。そして境界の外に区別された、警察権力のうちの捕縛や形の執行にあたる人々、皮革産業に携わる人、僧侶、藍染、博労、墓守り、庭師、医者、芸人、棺桶作り、その他などなどを百姓や町民とは違う、頭(かしら)や弾左衛門と呼ばれるほぼ世襲の統治機構を作って管理しました。
 乞食は非人として非人頭の支配下にあり、ハンセン氏病になって路上に打ち捨てられてしまった人も、非人として区別されました。そういう人は街道を通ることも禁じられ、山の中のけもの道を歩いていたと、宮本常一の本にもあります。一体、誰がそんな風に貶められた人を救ってくれたのか?

 法然の絵には、よく非人の姿が描かれています。「もののけ姫」に出て来る人々、包帯のようなもので顔を隠しています。そして、ハンセン氏病の人々を施療院などで治療しようとしたのが、カトリック・イエズス会派の宣教師でした。江戸時代、キリシタンになったハンセン氏病の人を、切ると汚れるといって、フィリピンに船で流してしまった記録があります。
 栄養状態も悪く、貧窮のどん族にあった農民や下層民は、容易くウイルスに感染してしまうのです。飢饉が繰り返されれば、もちろん餓死者以上の病人が出たはずです。天然痘などの疫病もまた死病でした。治す方法がない未知なる恐怖に立ち向かうには、やはり宗教が必要です。科学の夜明けはまだ遠いのです。
 

「人はみな平等」だなどという思想は、外からしか入って来ない日本でしたから、社会の安定には身分差別が有効で機能していたわけです。ただ、個人の能力に応じない、理不尽なこの身分差別は社会が成熟すれば、すぐに綻び始めます。
 だから江戸時代に「皆平等!」なんて言い出したら「このキリシタンめ!!」と磔にされたんです。今でもそうかもしれませんが。現代でも、この身分制度、封建制度は十分機能していますね。地方はもちろん、あちこちの殿様や二代目、三代目の所業を新聞で見るにつけ、「ああ、封建の世は近い」と思わずにいられません。

 下剋上の世で、豊臣秀吉という能力の高い農民が天下を取るのは必然であり、滅びたのもまた理だったなあと思うのです。百姓では征夷大将軍には成れない。関白止まり。誰が一体、百姓身分の秀吉に忠義を尽くすでしょうか?

蛇足ですが。続く