聖書を理解する 10号 | イエス様と生きる

イエス様と生きる

神様を褒めたたえることは
人としてとても大事です
死んだ者はそれが出来ません
死んだ人は神様を崇拝出来ない
生きるならば
本当の神様を崇拝することです

●疑問点➡聖書(神様)は預言者を通じて語りかける

●考察➡アダムとエバが楽園を追われてから神様と人の交流は薄くなりました、神様はすべての人に語りかけるわけではなく、預言者を通じて語りかけるという特徴があります、ノアの時代を引用すれば神様はノアに洪水が起きることを告げる、ノアは多くの人に警告するという構造です、多くの人はノアの言葉を信じない、ノアの言葉は神様の言葉なのですがノアの言葉は人には信じてもらえないという構造です、神様がすべての人に語りかけるという構造にはなっていません、神様に選ばれた人が特別に預言するという構造です、人は預言者を信じないという構造が続きます、イエス様もある意味では預言者です、モーゼの時代に「あの預言者」と言われたのはイエス様のことです、真実を告げるあの預言者が預言者として信じてもらえない、ここに複雑さがあります、人は神様の言うことも預言者の言うことも聞かないという特徴があります、悪魔の言うこと(誘惑)は聞いてしまう傾向があります、悪魔の誘惑は「おいしそうにみえる」とありますので、人は甘い話には乗りやすいという特徴がありあす、薬や健康食品はこれを食べたり飲んだりすると健康になりますよと誘われますので、飛びついてしまうのです、苦労すれば結果が出ますと言われると気持ちが引けてしまいます、預言者の言葉を信じないで苦労の連続がユダヤの民の特徴なのですが、あの預言者であるイエス様の言葉も信じないのが聖書の大きな問題となっています、イエス様を信じたら問題は解決するのですが、イエス様を信じないと言う問題が最後まで残っています、神様は強制的に信じさせることをしません、信じるのはその人が決めることです、決めるのはその人です、人は奴隷ではない(神様に似ている)ので自分で決めることは出来ます、自分で決めて自分で苦労したりするのです、神様の道は本来は真っ直ぐなのですが、人は回り道をしてやっと到達したりします、ユダヤの民がエジプトを出てカナンの地に行くのに40年もかかったのは、素直に神様の言うこと、モーゼの言うことを聞かなかったからだとなっています、苦労しても聞かないと言う性質は今も変わらないので、人の歴史は苦労の連続だとなっています、人生は苦労となっているのは聖書も仏教も同じです、聖書は男は額(ひたい)に汗を流して生活する苦しみ、女は産みの苦しみと男に従う苦しみが与えられました、自分には苦しみが無いという人は逆に人ではないのです、この世は苦しみの世界になったのです、今は楽園ではありません、苦しみがあるのが当たり前です、ただし預言者の言葉を聞いて信じるならば苦しみからは解放されます、なにしろあの預言者がイエス様ですから、イエス様の言葉を最後まで信じて苦しみから解放されるようになっているのです、今の時代は解放された時代ではなく信仰の時代ですから、信仰が試されているのです、途中でイエス様から離れないように言われている時代です、イエス様はブドウの木で信者は枝葉です、ブドウの木から離れたら枯れてしまうとう預言です、枯れた人は捨てられるのです、神様は捨てるというのが聖書の構造です、今のところ全員を救うと言う仕組みは見つかっていません、死ぬという救いはあります、死んで何もかも終わってしまえば苦しみはありません、聖書の構造は神様に従わない者は永遠の火で焼かれるのです、許されることはありません、死ぬより苦しいのです、聖霊を汚す者は許されないのです、聖霊はイエス様をメシア(救い主)と信じるのが命ですから、イエス様は救えないと言う人は聖霊を汚しているのです、イエス様は十字架で罪人の罪を身代わりに背負ったというのは救いではありません、身代わりになったのと救いとは違うのです、身代わりに死んでくれたなんてさらに非道の信仰なのです、金魚すくいが救いです、自分が水の中に入って死んだら救いになりません、イエス様は救い上げることが出来ると信じることです、普通の人は金魚すくいも出来ません、イエス様は弟子に「人を救える漁師にしてあげよう」と言われました、救える人が水に入って死んで、救われた人が罪を許されて生きて、助けた人が復活したとなっているのですが、救える方を殺したのが事実なので救われないのです、真実は救い主をメシアでは無いと殺したのです。