イエス様と生きる

イエス様と生きる

神様を褒めたたえることは
人としてとても大事です
死んだ者はそれが出来ません
死んだ人は神様を崇拝出来ない
生きるならば
本当の神様を崇拝することです

●疑問点➡アダムとエバは楽園で何を食べたのか

●考察➡アダムとエバが食べた善悪の知恵の実は謎です、楽園の中央にあったとされる木から取って食べたのです、食べてはいけないと神様が命じた実とは何でしょうか、アダムとエバが食べると自分達は裸(はだか)だと知り、股(また)を隠したのです、そして隠れたのです、さらにその木の実を食べると必ず死ぬ、きっと死ぬとなっています、普通の人はそんな木の実があるかどうか関心は無いと思うのですが、アダムとエバが食べさえしなければ人類の歴史は苦労なしの楽々生活です、何を食べても良かったのですから食欲は満たされてアダムとエバは産めよ増やせよで、毎日毎晩〇✖〇✖して楽しんでいたのです、人の三大欲望って食欲、性欲、睡眠欲らしいです、食べて寝て男女が交わっていれば「幸せ」らしいです、楽園での生活は食べて寝て子作りに違いありません、それなのに善悪を知る木の実を食べたばかりに、現代の自分まで苦労して(額に汗して)労働しなければなりません、労働しても労働しても満足することはありません、何しろ男は一生汗を流す塵の人です、神様を信じてやっと一週間に一度、安息日が与えられています、連休とかある人もいますが、心から安息している人はいません、どこかに行こうとか何かをしようとか考えるだけで安息ではありません、何もしないで神様とゆったり過ごす人はいないのです、神様のいない安息日はせわしく忙しいのです、多くの人は連休しても「良いことはしなかった」ので満足感が得られないのです、むしろ罪悪感が残るのです、ここに問題があるのです、休日でも労働しても罪悪感がある、これが善悪の知恵の実の正体です、どこかに罪悪感を感じるのです、休んでも休んだ気がしない、満足できる時間ではなかった、怠けたような気がする、もっと勉強すれば良かったなどと心に不満が残るのです、だから人は何をやっても満足しません、だって善悪の知恵の実を食べたのですからいつも自分の中に罪悪感があります、さらに他人の罪悪も気にする悪感情があります、どこに逃げても隠れても、消えないのです、安住の地が無いのです、善悪の知恵の実を食べたからそうなったのです、安心感が無くて死ぬのです、アダムとエバが食べた知恵の実は「罪悪感」です、エバはヘビを責めて、アダムはエバを責めたのです、自分は悪い事をしたと分かったので隠れたのですが、反省はしないで他人の責任にして相手を殺す(責める)ようになったのです、だから自分も死ぬのです、責任転換は相手を攻撃しているようで実は自分が死ぬのです、イエス様の十字架も同じ法則が作動します、自分の罪をイエス様に着せるということになりますから自分が死んでしまうのです、動物のいけにえでは自分は死なないのです、動物や他の生きものは人の管理下にありますから殺しても罪にはなりません、他人の飼育している動物を勝手に殺せばそれは不法ですが、代価を払って自分のものにしてからいけにえにするのは自分の管理下になります、イエス様は自分のものではありませんからいけにえにはなりません、イエス様は自分の管理下には無いのです、イエス様の管理下に自分があるのです、それやこれやで人の中には罪悪感があって、何をやっても幸せにはならないようになったのです、すべては空しいとなります、この世は空の空、食べても飲んでも恋愛しても、その時だけ、だから神様は食べるなと命じたのです、自分の中の罪悪感が自分を殺すのです、自分は何をやってもダメだと自分を殺すのです、さらに他人もダメだと責めて攻撃するのです、もう楽園では無くなるのです。

⑦日月神示 月の巻②

おのころの国成り、この国に降りまして天戸(あまと)の御柱(みはしら)見立て給いき、ここにに伊邪那岐命(いざなぎのみこと)伊邪那美命(いざなみのみこと)島生み給いき、初めに水蛭子(ひるこ)淡島(あわしま)生み給いき、この御子、国のうちに隠れ給いければ、次にのりごちて後に生み給える御子、淡道之穂之三別島(あわじのほのさわけしま)、伊予の二名島(いよのふたなしま)、この島、愛媛(えひめ)、飯依比古(ひひよりひこ)、大宜都比売(おおけつひめ)、建依別(たてよりわけ)と言う、次に隠岐の三子島(おきのみつこしま)、天之忍許呂別(あまのおしころわけ)、次に筑紫島(つくししま)、この島、白日別(しらひわけ)、豊日別(とよひわけ)、建日向日豊久土比泥別(たけひむかひとよくづひぬわけ)、建日別(たてひわけ)、次に伊伎島(いきしま)、天比登都柱(あめのひとつはしら)、次に津島(つしま)、天狭手依比売(あめのさてよりひめ)次に佐渡島(さとしま)、次に大倭秋津島(おおやまとあきつしま)、天津御空豊秋津根別(あまつみそらとよあきつねわけ)、次に吉備之児島建日方別(きびのこしまたてひかたわけ)、次に小豆島(あづきしま)、大野手比売(おおぬてひめ)、次に大島大多麻流別(おおしまおほたまるわけ)、次に女島(ひめしま)、天一根(あめひとつね)、次に知詞島(ちかのしま)、天忍男(あめのおしを)、次に両児島(ふたこしま)、天両屋(あめふたや)、二島(にしま)、八島(やしま)、六島(むしま)、合せて十六島生み給いき、次にまたのり給いて、大島、小島を生み給いき、淡路島(あわじしま)、二名島(ふたなしま)、おきの島、筑紫の島(つくしのしま)、壱岐の島(いきのしま)、津島(つしま)、佐渡の島(さどのしま)、大倭島(おおやまとしま)、児島(こじま)、小豆島(あづきしま)、大島(おおしま)、女島(ひめしま)、なかの島、二子島(ふたこしま)の十四島を島生みましき、次に息吹き息吹きて、御子神 生み給いき、大事忍男神(おほことおしをのかみ)、大事忍男神(オホコトオシヲノカミ)、石土毘古神(いしつちひこのかみ)、石土毘古神(イシツチヒコノカミ)、石巣比売神(いしすひめのかみ)、石巣比売神(イシスヒメノカミ)、大戸日別神(おほとひわけのかみ)、大戸日別神(オホトヒワケノカミ)、天之吹男神(あめのふきをのかみ)、天之吹男神(アマノフキヲノカミ)、大屋毘古神(おおやひこのかみ)、大屋毘古神(オオヤヒコノカミ)、風木津別之忍男神(かさけつわけのおしをのかみ)、風木津別之忍男神(カサケツワケノオシヲノカミ)、海神(わたのかみ)、海神(ワタノカミ)、大綿津見神(おほわたつみのかみ)、水戸之神(みなとのかみ)、水戸の神(ミナトノカミ)、速秋津比神(はやあきつひのかみ)、速秋津比売神(はやあきつひめのかみ)、速秋津比売神(ハヤアキツヒメノカミ)、風神(かぜのかみ)、風神(カゼノカミ)、志那都比古神(しなつひこのかみ)、木神(きのかみ)、木神(キノカミ)、久久能智神(くくのちのかみ)、山神(やまのかみ)、山神(ヤマノカミ)、大山津見神(おほやまつみのかみ)、野神(ぬのかみ)、野神(ヌノカミ)、鹿屋野比売神(かやのひめのかみ)、野椎神(ぬつちのかみ)、鳥之石楠船神(とりのいわくすつねのかみ)、天鳥船神(あめのとりふねのかみ)、大宜都比売神(おほけつひめのかみ)、大宜都比売神(オホケツヒメノカミ)、火之夜芸速男神(ひのやきはやをのかみ)、火之煇比古神(ひのかがひこのかみ)生みましき、速秋津日子(はやあきつひこ)、速秋津比売(はやあきつひめ)、二柱の神川海(かわうみ)によりもちわけ、ことわけて生ませる神、沫那芸神(あわなぎのかみ)、沫那美神(あわなみのかみ)、頬那芸神(つらなぎのかみ)、頬那美神(つらなみのかみ)、天之水分神(あめのみくまりのかみ)、国之水分神(くにのみくまりのかみ)、天之久比奢母智神(あめのくひさもちのかみ)、国之久比奢母智神(くにのくひさもちのかみ)、次に、大山津見神(おほやまつみのかみ)、野椎神(ぬつちのかみ)の二柱神、山野(やまぬ)に依りもちわけて、ことあげて生みませる神、天之狭土神(あめのさつちのかみ)、国之狭土神(くにのさつちのかみ)、天之狭霧神(あめのさぎりのかみ)、国之狭霧神(くにのさぎりのかみ)、天之闇戸神(あめのくらとのかみ)、国之闇戸神(くにのくらとのかみ)、大戸惑子神(おほとまどひこのかみ)、大戸惑女神(おほとまどひめのかみ)、大戸惑子神(オホトマドヒコノカミ)、大戸惑女神(オホトマドヒメノカミ)生みましき、伊邪那美神(いざなみのかみ)病(や)み臥(こや)しまして、たぐりになりませる神、金山比古神(かなやまひこのかみ)、金山比売神(かなやまひめのかみ)、屎(くそ)になりませる神、波仁夜須比古神(はにやすひこのかみ)、波仁夜須比売神(はにやすひめのかみ)、尿(ゆまり)に成りませる神、弥都波能売神(みつはのめのかみ)、和久産巣日神(わくむすびのかみ)、この神の御子、豊宇気比売神(とようけひめのかみ)と申す、ここに伊邪那美神(いざなみのかみ)、火の神を生み給いて、火土となり成り給ひて、根の神の中の国に神去り給いき、ここに伊邪那岐神(いざなぎのかみ)泣き給いければ、その涙になりませる神、泣沢女神(なきさわめのかみ)、ここに迦具土神(かぐつちのかみ)を斬り給えば、その血が石にこびりついて、石析神(いわさくのかみ)、根析神(ねさくのかみ)、石筒之男神(いわつつのおのかみ)、雍瓦速日神(みかはやひのかみ)、樋速日神(ひはやひのかみ)、建御雷男神(たけみかつちおのかみ)、建布都神(たけふつのかみ)、豊布都神(とよふつのかみ)、御刀(みはかし)の手上(たかみ)の血、闇於加美神(くらをかみのかみ)、闇御津羽神(くらみつはのかみ)、ここに殺されし迦具土(かぐつち)の御首(みかしら)に成りませる神、正鹿山津見神(まさかやまつみのかみ)、御胸に於藤山津見神(おとやまつみのかみ)、腹(みはら)に奥山津見神(おくやまつみのかみ)、陰(みほと)に闇山津見神(くらやまつみのかみ)、左の御手に志芸山津見神(しきやまつみのかみ)、右の御手に羽山津見神(はやまつみのかみ)、左の御足に原山津見神(はらやまつみのかみ)、右の御足に戸山津美神(とやまつみのかみ)成りましき、ここに斬り給える御刀(みはかし)、天之尾羽張(あめのおはばり)、伊都之尾羽張(いづのおはばり)と言う、ここに妹(いも)恋しまし給いて根の国に追い往(い)で給いきここに伊邪那美の命語らいつらく、あれみましとつくれる国、末だつくりおえねど、時待ちてつくるへに、よいよ待ちてよと宣り給いき、ここに伊邪那岐命、みましつくらはねば吾とつくらめと宣り給いて、帰らむと申しき、ここに伊邪那美命、九(こ)聞き給いて、御頭(みかしら)に大雷(おおいかつち)、オホイカツチ、胸に火の雷(ホのいかつち)、ホノイカツチ、御腹には黒雷(くろいかつち)、黒雷(クロイカツチ)、かくれに折雷(さくいかつち)、サクイカツチ、左の御手に若雷(わきいかつち)、ワキ井カツチ、右の御手に土雷(つちいかつち)、ツチイカツチ、左の御足に鳴雷(なるゐかつち)、ナルイカツチ、右の御足に伏雷(ふしいかつち)、フシ井カツチ、なり給ひき、伊邪那岐の命、是見(こみ)畏みてとく帰り給えば、妹伊邪那美命は、よもつしこめを追わしめき、ここに伊邪那岐命は黒髪かつら取り、また湯津々間櫛(ゆつつまぐし)引きかきて、なげ棄(う)て給いき、伊邪那美命 二(つき)の八くさの雷神(いかつちかみ)に黄泉軍(よもついくさ)副(そ)えて追い給いき、ここに伊邪那岐命十挙剣(とづかのつるぎ)抜きて後手(しりえて)にふきつつ去り、三度黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本に到り給いき、坂本なる桃の実一二三(ひふみ)取りて待ち受け給いしかば、ことごとに逃げ給いき、ここに伊邪那岐命は桃の実に宣り給わく、汝(みまし)吾助けし如、あらゆる青人草の苦瀬(うきせ)に悩むことあれば助けてよと宣り給いて、また葦原の中津国にあらゆる、うつしき青人草の苦瀬(うきせ)に落ちて苦しまん時に助けてよと宣り給いて、おほかむつみの命、オオカムツミノ命と名付け給いき、ここに伊邪那美命は息吹き給いて千引岩(ちびきいわ)を黄泉比良坂に引き塞(そ)えて、その石なかにして合い向い立たせてつつしみ申し給いつらく、うつくしき吾が那勢命(なせのみこと)、時廻り来る時あればこの千引の磐戸(いわと)共にあけなんと宣り給えり、ここに伊邪那岐命しかよけむと宣り給いき、ここに妹(いも)伊邪那美の命、汝(みまし)の国の人草、日にちひと死(まけ)と申し給いき、伊邪那岐命宣り給わく、吾は一日(ひとひ)に千五百(ちいほ)生まなんと申し給いき、一二三四五六七八九十百千卍(ひとふたみよいつむななやここのたりもちよろず)、今度は千人万人力でないと手柄は立てれないのです、世界中が総掛かりで攻めて来るのですから、一度はあり得ないことが起きるのです、大将だからと言って油断は出来ないのです、富士の山が動くまでにはどんな事にも耐えなければならないのです、上は辛いのです、どんなことがあっても死に急がないでください、今の大和魂と神の魂と違う所があるのです、その時その所によって、どの様にでも変化出来るのが神の魂です、馬鹿正直ではいけないのです、今日ある生命に勇む時が来たのです、表面ばかり見ていては何も分かりはしないのです、月の神様を祀ってください、この世の罪穢れを負って夜となく昼となく守って下さる素盞鳴神様を篤く祀ってください、火があって水が動くのです、水があって火が燃えるのです、火と水と申してありましたが、その他に隠れた火と水があるのです、それを一二三(ひふみ)と言うのです、一二三とは一二三と言うことです、言波(ことば)です、言霊(コトダマ)です、祓いです、右渦です、左渦です、スサナルの仕組みです、成り成る言葉です、今の三位一体は三位三体なのです、一(ひ)と現われて二三(ふみ)が隠れているのです、月とスサナルの神様の御恩を忘れないでください、御働きが近づいたのです、宝の山に攻め寄せて来ると申してくどく気を付けておいたではありませんか、神の国にはどんな宝でもあるのです、神の国には昔から宝を埋めておいたのです、外国にも宝を埋めておいてあるのです、この宝は神が許さなければ誰にも自由にはさせないのです、悪が宝を取ろうと思ったとしても、どんなに神の国に渡って来てもどうにもならない様に神が守っているのです、いよいよとなったら誠の神が神の力を出して、宝を取り出して世界のどんな悪神も神の国にはかわないと申す所まで、とことん心から降参する所まで今度は戦するのですから、臣民にはほとんど見当取れないことになって、どんな苦労も耐えなければならないのです、知らせてあった事が日々(にちにち)どしどしと出て来るのです、我よしは捨ててください、この神示を良く読んでください、早合点してはならないのです、取り違いが一番怖いのです、どうしたらお国の為になるか、自分はどうしたら良いかと取り次の役員に聞く人が沢山出て来るのですが、この神示を読めばどうしたら良いか分かるのです、その人相当に受け取れるのです、神示を読んで読んで腹に入れてもう分からないということはないのです、分からなければ神が知らせるのです、迷うのは神示を読まないからです、腹に入れていないからです、人が悪く思えたり悪く見えるのは自分が曇っているからです、元からの神示を腹に入れた人がこれから来る人に良く話してやるのです、この道は始めは辛いのですが楽な道です、骨を折らなくても素直にさえしてその日その日の仕事をしていてください、心配要らない道なのです、手柄を立てようと思わないでください、勝とうと思わないでください、生きるも死ぬも神の心のままです、どこでどんな事をしていても助ける人は助けるのです、神の御用ある臣民は安心して仕事をしていてください、火が降って来ても槍が降って来てもビクともしないのです、心は安心です、くよくよしないでください、神に頼って神を祀って、神に従っていてください、神は救うのです今の臣民を見て褒める様な事は皆奥が知れているのです、これが善であり本当のやり方だと思っている事の九分九厘までは皆悪のやり方です、今の世のやり方見れば分かるでしょう、上の番頭殿は悪い政治をしようと思ってやっているのではないのです、番頭殿を悪く言うのはいけません、良い政治をしようと思ってやっているのです、良いと思う事に精を出しているのですが、善だと思う事が善ではなく皆悪なのですから、神の道が分からないから、身魂が曇っているから、臣民が困る様な政治になるのです、まつる政治をしなければならないのです、分からない事も神の申す通りにすれば自分では分からないことでも良くなって行くのです、悪だと思っていることに善が沢山あるのです、人を裁くのは神を裁くことです、怖いから改心する様な事や、戦がどうなるかと申す様な事では誠の民ではないのです、世の中が愈々のとことんになったので、これから先は大神様まで悪く申す者が出て来るのです、産土様(うぶすなさま)などあるものか、悪神ばかりだと申す者が沢山出て来るのです、この世始まって今までない時ですから、我身我家が可愛い様では神の御用はつとまらないのです、神の御用をして道に従えば我身我家は心配なくなると言う道理なのです、何もかも結構な事になり楽にしてやるのですから心配せずに分からない事も素直に言う事を聞いてください、子に嘘を吐く親はないのです、神界の事を知らない臣民は色々と申して、理屈の悪魔に囚われて申すのですが、今度のいよいよの仕組みは臣民の知った事ではないのです、神界の神々様にも分からない仕組みですから兎や角申さないで神の神示を腹に入れて身魂を磨いて素直に聞いてください、それが一番なのです、この神示は世に出ている人では解けないのです、苦労に苦労した落ちぶれた人で苦労に負けない人で気狂いと言われ阿呆と言われても神の道を素直に聞く臣民でないと解けないのです、解いてよく噛み砕いて世に出ている人に知らせてやってください、苦労を喜ぶ心より楽を喜ぶ心が高いのです、天にもあまてらすすめ大神様、あまてらす大神様がある様に地にもあまてらすすめ大神様、あまてらす大神様あるのです、地にも月読の大神様が隠れて御座るのです、素盞鳴の大神様は罪穢れを祓って隠れて御座るのです、結構な尊い神様の御働きで何不自由なく暮していながらその神様のあることさえ知らない臣民ばかりなのです、それでこの世が治まると思うのですか、神々様にまつって神々様にまつわって神国のまつりごとをしてください、詰らぬ事を申しているといよいよ詰らない事になって来るのです、大きなアジアの国々や島々八十(やそ)の人々と手を握り合い、神国の光り輝く時が来たと皆が喜んで三千年神の御業(みわざ)の時が来たと思える時こそが神国が誠に危ない時なのです、夜半に嵐がどっと吹くのです、どうすることも出来なくて手足を縛られ縄を付けられて神の御子等が連れ去られ、後には老人(としより)不具者(かたわ)のみになるのです、女子供もひと時は神の御子たる人々は悉々暗い臭い部屋に暮さなければならない時が来るのです、宮は潰され御文(みふみ)は皆火にかけられて灰となるのです、この世の終りが近づいたのです、この神示(ふで)を心に入れくださいと申してある事がわかる時がいよいよ間近になったのです、出掛けた船です、褌を締めてください、喜べば喜ぶ事が起きるのです、悔やめば悔やむ事が起きるのです、先の取り越し苦労は要らないのです、心配り(気配り)は必要なのです、神が道をつけて楽に行ける様に嬉し嬉しでどんな戦も切抜ける様にしてあるのに臣民は逃げて眼を塞いで懐手しているから苦しむのです、我よしという悪魔と学が邪魔している事にまだ気づかないのですか、嬉し嬉しで暮らせるのです、日本の臣民は何事も見え透く身魂を授けてあるのです、神の御子なのですから掃除すれば何事もハッキリとうつるのです、早く分からねば口惜しい事が起きるのです、言葉とこの神示と心と行と時の動きとの五つが揃ったら誠の神の御子です、神です、この巻を二つ合わせて日月の巻としてください

 

●疑問点➡自分は本当に救われるのか

●考察➡世界最大の問題と自分の人生の問題はイエス様を信じるかどうかなのですが、まるで関心の無い人もいますし、イエス様は身代わりの「いけにえ」だと信じて救われたと思い込んでいる人もいます、聖書によればイエス様は2000年ほど前にユダヤの指導者にメシアでは無いと否定され、ねたまれ、呪われて殺されました、間違い無く殺されたのですが、パウロと言うパリサイ派の秀才が初期のキリスト教会に現われて指導者になりました、パウロに反対する人もたくさんいましたがパウロの聖書知識を越える人がいなかったので、パウロの知恵に「まるめこまれて」しまったのです、今の時代でもパウロの書いた手紙は難解で何を言っているのか分からない内容なのです、ハッキリしていることはイエス様は「いけにえ」だったと宣べ伝えていることです、旧約聖書の「救い」をそのままイエス様の十字架に当てはめたのです、確かに旧約聖書では「いけにえ」は罪人の代価を払う「あがない」の方法なのですが、イエス様の救いは代価を払わない「あわれみ」による救いなのです、メシアのいない時代には自分で代価を払うことをしたのですが、本当のメシアが登場したので「あわれみによって救われる」という業が完成したのです、新約聖書のイエス様の活動を理解すれば無償で罪を許して癒していたことが分かります、旧約聖書の時代では罪の代価を払っていたのですから、大きく救いの方法が違うのは理解出来ます、イエス様の救いは無償のあわれみの救いであると理解出来ればパウロの教えは間違いであることが分かります、イエス様は十字架に架からなくても人の罪を許すことが出来るのです、十字架に架けたということはイエス様を否定し呪ったことなのです、イエス様の十字架は自分の罪の身代わりだと信じて最後の審判まで行けばどうなるか、イエス様の言葉を聞けば分かることです、キリスト教会のパウロの教えが正しいと信じて生きれるのは最後の審判までです、審判までは自分は正しい信仰をしていると自信満々の様子は理解出来ますが、イエス様の裁きではウソ(偽証)は通用しません、イエス様殺しは殺しと罪を認めて「おわび」をするのが聖書のポイントなのです、聖書とは自分の罪を認めて改心してイエス様の言葉に従うことなのです、最後の審判まで自分の罪を認めること、最後の審判までイエス様の言葉に従えないのが「人」なのです、どうして最後の審判があるのか、それは最後の審判まで人は反抗するからです、最初のアダムエバから最後の審判まで人は神様の言うことを聞かないということが聖書に書かれているのです、神様の言うことを聞かない罪人を救うのがイエス様(メシア)なのです、自分はイエス様の言うことを聞いていますと言う人は救われないということになります、イエス様の言葉を聞いても従えないと理解することが聖書の理解です、自分はイエス様に従っていると思い込んでいるのが「高慢」です、聖書の構造は神様の言葉を聞いても、次に悪魔が来て誘惑される、次に自分の生活で信仰が薄くなるのです、ですから自分は悪魔にだまされて、生活に追われてイエス様信仰が「ダメ」だと言う人を救うのです。

 

 

⑥日月神示 日の巻(日月の巻)

富士は晴れたり日本晴れ、日の巻を書いて知らせます、この世に自分の物は何一つ無いのです、早く自分からお返しした者から楽になるのです、今度の大洗濯は三つの大洗濯が一度になっているのですから見当が取れないのです、神の国の洗濯と外国の洗濯と世界をひっくるめた洗濯とが一度になっているのですから、そのつもりで少しでも神の御用を務めてください、これからがいよいよの正念場なのです、今はまだまだ一の幕で順番(せんぐり)に出て来るのです、我(が)を出したら分からなくなるのです、てんし様を拝んでください、てんし様を祀ってください、臣民が無理と思う事でも無理でない事が沢山あるのです、神はいよいよの仕組みにかかったと申してあるでしょう、壊すのではないのです、練り直すのです、世界を摺鉢(すりばち)に入れて捏(こ)ね廻して練り直すのです、日本の中に騒動が起きるのです、神の臣民は気をつけてください、日本も神とケモノに別れているのですから、嫌でも応でも騒動となるのです、騒動は小さくしたいのですが、「三千年三千世界乱れたる、罪やけがれを身において、この世の裏に隠(か)れしまま、この世構いし大神の、みこと畏みこの度の、岩戸開きの御用する、身魂はいずれも生き代わり死に代わりして練りに練り、鍛えに鍛えし神国の、誠の身魂天駈けり、国駈けります元の種、昔の元のおん種ぞ、今落ちぶれているとても、やがては神の御民とし、天地(あめつち)駈けり神国の、救いの神と現われる、時近づきぬ御民等よ、今一苦労二苦労、とことん苦しき事あるなれど、堪え忍びてぞ次の世の、誠神代の礎と、磨きてくれよ神身魂、いやさかつきに栄えなむ、みたまさちはえましまさむ」この神示は声を立てて読んでください、臣民ばかりに聞かせるのではないのです、守護神殿や神々様にも聞かせるのです、声を出して読んでさえいれば良くなるのです、だからと言って仕事を休んではいけません、仕事は行でありますから務め務めた上にも精を出してください、仕事に精を出す事が誠の行であるのです、滝に打たれて断食する様な行は幽界(がいこく)の行です、神の国のお土を踏んで、神国の光を呼吸して、神国から生れる食べ物をいただいて、神国の御仕事している臣民に行は必要ないのです、この事をよく心得えてください、戦が終わっても後の紛糾はなかなかに終わらないのです、人民はいよいよ苦しくなるのです、三四五(みよいづ)の仕組みが出来上がらないで、一二三(ひふみ)の御用はやめられないのです、この神示を読んで三四五の世の仕組みを良く腹の中に入れておいて、上(かみ)の人に知らせてやってください、三四五とはてんし様の稜威(みいづ)が出ることです、神の国には神も人も無いのです、忠も孝もないのです、神は人です、山です、川です、海です、野です、草です、木です、動物です、為すことが皆忠となり孝と流れるのです、死も無く生も無いのです、神心があるだけなのです、やがて降って来る雨霰(あめあられ)に役員は気をつけてください、神の用意は出来ているのです、何事からでも早く始めてください、神の心に叶うものはどしどしと埒(らち)が明くのです、アメツチノトキ、アメミナカヌシノミコト、アノアニナリマイキ、タカアマハラニミコトトナリタマイキ、今の経済は悪の経済と申しているでしょう、今の経済はものを殺すのです、神の国の経済はものを生む経済です、今の政治はものを毀(こわ)す政治です、神の政治は与える政治と申してあるでしょう、配給は配給、統制は統制なのです、一度は何もかも天地に引上げと申してありますが、次の世の種だけは地に埋めておかねばならないのです、それで神がくどく申しているのです、種は落ちぶれておられる方(かた)で守られているのです、上下に引っ繰り返ると申してある事が近づいて来たのです、種は百姓に与えてあるのです、種を蒔くのは百姓です、ツギ、タカミムスビ、ツギ、カミムスビノミコトトナリタマイキ、コノミハシラ スニナリマシテ スミキリタマイキ、「岩戸ひらく道、神々苦むなり、弥ひらき苦む道ぞ、苦しみてなりなり、なりゑむ道ぞ、神諸々なり、世は勇むなり、新しき道、ことごとくなる世、神諸々(もろもろ)四方(よも)にひらく、なる世の道、ことごとくの道、みいづぞ」次に、ウマシアシカビヒコヂノカミ、ミコトトナリナリテアレイデタマイキ、瓜(うり)の蔓(つる)に茄子(なす)ならせてはいけません、茄子には茄子と申してあるでしょう、味噌も糞も一つにしてはいけないのです、皆がそれぞれに息をする道があるでしょう、野を見て森を見て神の経済を良く見てください、神の政治を良く見て、誠の政治を行ってください、すべてに調和(まつろう)する事だと申してあるでしょう、上に立つ番頭さんは目を開いて下さい、間に合わない事になっても神は知らないです、神は急いでいるのです、役員も気を配ってください、何事も持ちつ持たれつです、神ばかりでは完成しないですし人ばかりでも完成しない仕組みです、善一筋の世と申しても今の臣民の言っている様な善ばかりの世ではないのです、悪(あく)でない悪とあなないしているのです、この御道はあなないの道です、上ばかりが良い道でも、下ばかりが良い道でもないのです、まつりとはまつわる事でまつり合わせる事なのです、まつり合わすとは草は草として、木は木として、それぞれのまつり合わせです、草も木も同じまつり合わせではないのです、次に、アメノトコタチノミコト、次、クニノトコタチノミコト、次、トヨクモヌノミコトトナリナリテ、アレイデタマイ、ミコトスミキリタマヒキ、辛酉(かのととり)の日と年はこわい日で、よき日と申してあるでしょう、九月八日は結構な日ですがこわい日だと申して知らせてあった事少しは分かりましたか、何事も神示の通りになって、順番(せんぐり)に出て来るのです、遅し早しはあるのです、この度は一の幕です、日本の臣民はこれで戦争が終わる様に申していますが、戦はこれからです、九、十月八日、十八日は幾らでもあるのです、三月三日、五月五日は結構な日です、恐ろしい日です、今は型なのです、改心すれば型は小(ち)さくて済んでしまうのですが、今のままでは掃除が大きくなるのです、猫に気を付けてください、犬が来るのです、臣民の掃除が遅れると掃除が段々大きくなるのです、神が表に出て御働きなされていることが今度は良く分かったでしょう、⦿と〇との戦でもあると申してあるでしょう、戦のマネなのです、神がいよいよの時が来てびっくり箱が開いたら、臣民はポカンとなるのです、手も足も動かすことは出来ないのです、たとえ(方便)ではないのです、くどく気を付けておくのです、これからがいよいよの戦となるのです、鉄砲の戦ばかりではないのです、その日その日の戦が烈しくなるのです、褌を締めてください、学も神力です、学も神です、学が人間の智恵と思っていると飛んでもない事になるのです、肝腎の真中が無くなっていると申してあるでしょう、真中が動いてはならないのです、神国の政治は魂のおまつりです、苦しい御用が喜んで出来る様になったら、神の仕組みが分かりはじめるのです、何事も喜んでやってください、臣民の頭では見当取れない無茶な世になる時が来たのです、それを闇の世と申すのです、神は⦿、臣民は〇、外国は〇、神の国は・と申してあるでしょう、神国から見れば外はすべて外国、外国から見れば神国は真中です、人の真中には神がいるのです、悪神の仕組みはこの方には分かっているので一度に潰す事は簡単なのですが、それでは天の大神様に申し訳ないのです、悪を殺してしまうのではなく、悪を改心させて、五六七(みろく)のうれしうれしの世にするのが神の願いですから、この道理を忘れないでください、今の臣民はいくら立派な口をきいても、文字を並べても、誠がないから力が無いのです、黙っていても力のある人がいよいよ世に出る時が近づいたのです、力は神から流れて来るのです、ミタマが磨けた人から神がうつって今度の二度とない世界の、世直しの手柄を立てさせるのです、ミタマ磨きが何より大切です、次に三ハシラ、五ハシラ、七ハシラ、コトアマツカミ、次ウヒジニ、次イモスヒジニ、次ツヌグヒ、次イモイクグヒ、次オホトノジ、次イモオホトノべ、次オモタル、次イモアヤカシコネ、ミコトト、アレナリ、イキイキテ、イキタマヒキ、次イザナギノカミ、イザナミノカミ、アレイデマシマシキ、足許に気を付けてください、悪は善の仮面をかぶって来るのです、入れない所に悪が化けて入って神の国をワヤにしているのです、人の心も同様です、百人千人万人の人が善いと申しても悪い事があるのです、一人の人だけが言っても神の心に添う事があるのです、てんし様を拝んでください、てんし様を拝めば御光が出るのです、何もかもそこから生れるのです、お土を拝んでください、お土から何もかも生れるのです、人を拝んでください、上に立つ人を拝んでください、草木も神と申してあるでしょう、江戸に攻め寄せて来ると申してあるでしょう、富士を目指して攻めて来ると知らせてあることが近づいたのです、今までの事はすべて型であったのです、江戸の仕組みもお山の仕組みも甲斐の仕組みも皆型です、鳴門と渦海の仕組みも型を出してください、尾張の仕組みも早く型を出してください、型が済んだらいよいよ末代続く誠の世直しの御用にかからせるのです、雨が降るのです、人間心で急がないことです、我が出てしまうと失敗(しくじる)しますから、我と分からない我があるから、今度は失敗(しくじる)することは出来ないので、ここだと言う時には神が力をつけますから急がないでください、身魂磨きが第一なのです、陰の御用と表の御用とありますがどちらも結構な御用です、身魂相当の御用が一番良いのです、今に分かって来ますから慌てないでください、今までの神示を良く読んでくれたら分かるのです、それで腹で読め腹で読めとくどく申しているのです、食べ物に気つけてください、世の元からの仕組みですから臣民に手柄を立てさせて、上下が揃った光の世にするのですから、臣民には見当が取れないですから、早く掃除してくださいと申しているのです、国中到る所に花火を仕掛けしてあるのです、人間の心の中にも花火が仕掛けてあるのです、何時その花火が破裂するか分からないでしょう、掃除すれば何もかも見通しなのです、花火が破裂する時が近づいて来たのです、動くことが出来ない様になるのです、蝋燭(ろうそく)の火が明るいと思っていますが、五六七(みろく)の世の明るさは分からないでしょう、目が覚めたらその日の生命をお預りした事を神に感謝し、その生命を神の御心(みこころ)のままに弥栄(いやさか)に仕えまつる事に祈ってください、神はその日その時に何すべきかに就いて教えるのです、明日の事に心を使わないで、心を配ってください、取り越し苦労はしないでください、心配りはしなければなりません、何もかも神に任せてください、神の生命、神の肉体となりきってください、何もかも捨て切ることです、天地は皆神のものです、天地は皆己のものです、取り違いしないでください、いくら戦していても天国です、天国とは神国です、神国の民となれば戦も有難いのです、息の生命はいつも光り輝いているのです、神にまつろいしてください、あめつち皆にまつろってください、ここの道理は良く分かったでしょう、何も言う事は無いのです、神を称える辞(コト)が光透(コト)です、あめつち称える言(コト)が光透(コト)です、草木の心になれと申してあるでしょう、神風もあるのです、地獄の風もあるのです、迷わないでください、神の申すコトはコトであるのです、コトに生きてください、コトにまつろいしてください、慌てて動かないでください、時節が何もかも返報(へんぽう)返しするのです、時の神様は有難いと申してあるでしょう、神は臣民に求めていないのです、何時も与えるばかりなのです、神の政治、神国の政治とは与える政治なのです、今のやり方では愈々苦しくなるばかりです、早く気付かないと気の毒が起きて来るのです、金はいらないのです、やり方を教えてやりたいのですが、それでは臣民の手柄が無くなりますからこの神示を良く読んでください、良い事も現われると帳消しとなる事は知らせてあるでしょう、人に知れない様に良い事はするのです、この事を深く良く考えて行ってください、昔からのメグリ(借銭)ですから、ちょっとやそっとのメグリではないのですから、どこへ逃げてもどうしてもするだけの事はしなければならないのです、どこにいても救う臣民は救ってやるのです、真中が動いてはなりません、知らん顔している事も起るのです、ココニアマツカミ、モロモロノミコトモチテ、イザナギノミコトイザナミノミコトニ、コレノタダヨヘルクニ、ツクリカタメナセトノリゴチテ、アメノヌホコヲタマヒテ、コトヨサシタマイキ、神の国にも善も悪もあるのです、この神示を見せても良い人と悪い人とあるのです、神示は見せないでください、誠の神の臣民だと分かったらこの神示を写してやってください、神示は出ませんと申してください、時節を見るのです、型は出してくれたのですからもう一(はじめ)の仕組みは結構なのです、この神示は表に出さないでください、天明は陰の御用だと申してあるでしょう、神示は仕舞っておいてください、一二三として聞かせてやってください、この方の仕組みは日に日に変るのですから、臣民は分からなくなると申してあるでしょう、日に日に烈しく変って来るのです、神の子には神示を伝えてください、神は急いでいるのです、渦海(うづうみ)の御用は結構です、次に、イザナミノミコト、イザナミノミコトニ、アマノヌホトヲタマヒテ、トモニ、タダヨエル、コトクニツクリカタメナセトコトヨサシタマヒキ、日に日に烈しくなると申してあるでしょう、水をいただきにあげなければなりません、お土を掘らなければなりません、言波を特に磨いてください、コトに気をつけてくださいとくどく申してあるでしょう、してはならないし、しなければならないのです、神事(かみごと)に生きてください、今のやり方や考え方が間違っているのです、洗濯しなさい掃除しなさいと申しているのはこれまでのやり方考え方をスッカリ改める事です、一度死んだ(まかった)と思ってください、掃除して何もかも綺麗にすれば神の光がスクリと光り輝くのです、ゴモクは捨ててください、人の心ほど怖いものはないのです、奥山に紅葉(もみじ)があるうちに掃除してくださいと申すこと忘れないでください、北に気を付けてください、神の詞の仕組みを良く腹に入れておいてください、今度のさらつの世の元となるのです、神の用意は何もかも済んでいると申してあるでしょう、臣民の洗濯を早くしてください、さらつの世の用意を早くしてください、今度の世には四十九の御役と御仕事あるのです、四十九の身魂と申してあるでしょう、神の申したことが次々と出て来ているでしょう、早くこの神示を腹に入れてください、早く知らせてください、今までの神示が役員の腹に入るまでは暫くこの神示は出ないのです、大切な時には知らせるのですが、そのつもりでいてください、ヌの種を大切にしてください、毒を吐き出してください、人と先ず和して人を拝んでください、拍手を打って人と調和(まつろえ)してください、神示を読んで聞かせてください、声を出して天地に響く様に宣ってください、火(ひ)と水(み)、ひふみとなるのです、火が近づいたのです、水が近づいたのです、厭(いや)でも応でも走らなければならないのです、ひっくり返るのです、世が唸るのです、神示を良く読めば縁ある人が集まって来て、神の御用する者が出来て来るのです、仕組み通りに進めるのです、神は待っていられないのです、お宮も壊され、臣民も無くなるのです、上の人が臭い飯を食う時が来るのです、味方同士が殺し合う時が一度はあるのです、大きな声で物を言えない時が来ると申してあるのです、これからがいよいよなのですから、その覚悟をしていてください、一二三が正念場です、臣民の思っている様な事ではないのです、この神示を良く腹に入れておいてください、散り散りばらばらになるのです、一人一人で何でも出来る様にしておいてください、臣民は一升桝には一升しか入らないと思っていますが、豆を一升入れて粟(あわ)を入れる事も出来るのです、その上に水ならばまだ入るのです、神ならばその上にさらに幾らでも入るのです、人は神がうつったなら思わない事が出来るのです、今度は千人力を与えるのです、江戸の世の仕組みは世の終わりです、天を拝んで、土を拝んで、まつり合わせてください、秋の空がグレンとなるのです、冬も春も夏も気をつけてください、ココニ、イザナギノミコト、イザナミノミコトハ、ヌホコ、ヌホト、クミクミテ、クニウミセナトノリタマヒキ、イザナギノミコト イザナミノミコト、イキアハシタマヒテ、アウアウトノラセタマヒテ、クニ、ウミタマヒキ、コトの初めに気を付けてください、夜が明けたら生命(いのち)を神から頂いたのです、太陽(ひ)のあるうちはことごとく太陽の御用をしてください、月のあるうちはことごとく月の神の御用をしてください、それが誠の臣民です、生活の心配をしないでください、今の臣民にはすぐに出来ないことですが、初めは六分国のため、四分自分のため、次は七分国のため、三分自分の為、次は八分国のため、二分自分のためと言う様にしてください、これはまだ自分あるのです、自分が無くならなければならないのです、神人一つになるのです、ハジメヒツキノクニウミタマヒキ、ヒノクニウミタマヒキ、ツキノクニウミタマヒキ、ツギニクニウミタマヒキ、神に厄介を掛けない様にしなければなりません、神が助けるからと申して臣民は懐手していてはならないのです、力の限り尽くさなければならないのです、ヒツキと⦿とは違うのです、臣民一日に二度食べるのです、朝は日の神様に供えてから頂き、夜は月の神様に捧げてから頂いてください、それが誠の益人です、㋰、㋒、ウ、うにアエオイウです、昔の世の元です、㋐、㋳、㋻、ヤ、ワあるのです、世の元です、サタナハマからあるのです、一柱、二柱、三柱、五柱、七柱、八柱、九柱、十柱と申してあるでしょう、五十九の神、七十五柱これで分かりましたか、㋰は・です、・には裏表上下があるのです、冬の先が春とばかりは限らないのです、用意してください、冬に桜が咲くのです、神の国は生きているのです、国土を拝んでください、神の肉体なのです、神のタマなのです、道は真っ直ぐとばかり思わないでください、曲って真っ直ぐなのです、人の道は無理に真っ直ぐにしたがるのですが、曲っているのが神の道です、曲って真っ直ぐなのです、人の道も同じです、足許から鳥が立つのです、いよいよが近づいたのです、世の元と申すものは泥の海であったのです、その泥から神が色々のものを一二三で、息吹きで生んだのです、人の知恵では分からない事です、眼は丸いから丸く見えるのです、この道理は分かりますか、一度はドロドロにこね廻さなければならないのです、臣民はどんなに説明しても近欲で、先が見えないから自分の欲ばかり申しているのですが、神は持ち切れない程の物を与えているのです、いくら貧乏だと言っても犬猫とは桁が違うのです、それで何不足申しているのですか、まだまだ天地へ取り上げるのです、日々取り上げている事が分からないのですか、神が大難を小難にして神々様御活動になっていることを目に見せても分からないのですか、天地がでんぐり返るのです、やがては富士晴れるのです、富士は晴れたり日本晴れ、元の神の世にかえるのです、日の巻は終って月の巻に移るのです、いよいよ一二三が多くなりますから、今まで出していた神示を良く腹に入れておいてください、知らせなければならないし、知らせたのでは仕組みは成就しないですから、早く洗濯して鏡に映る様にしてください、今の世は地獄だと分かっているでしょう、今のやり方は悪いと分かっているでしょう、神をまつれと申しているのです、外国には外国の神があると申してあるでしょう、戦争を進めて外国に行った時は、先づその国の神を祀らなければならないのです、まつるとはまつろう事と申してあるでしょう、鉄砲や知恵では悪くするばかりです、先づ神を祀れとくどく気をつけているのは日本ばかりではないのです、この方の申すことを小さく受け取ったのでは見当取れないのです、三千世界の事なのです、日本ばかりが可愛いのではないのです、世界の臣民は皆我が子です、わけへだては無いのです、この神示読んで聞かせてください、読めば読むほど明るくなるのです、富士晴れるのです、神の心が晴れるのです、とても楽しい世界です、岩戸開けたり日本晴れ、富士が光るのです、この巻は役員が読むものです、世の元と申すものは火であり水であるのです、雲が出てクニとなったのです、出雲(いずも)とはこの地(くに)の事です、スサナルの神はこの世の大神様です、はじめは渦であり、動いて月となり地となったのです、アはヒツキクニの神様、ヨは月の神様、クニの神様はスサナルの神様です、この事を始めに心に入れれば掃除は難しくないのです、グレンとは上下ひっくり返る事と申してあるでしょう、言ってはならない事であり、言わなければならない事です、一日一日(ひとひひとひ)ミコトの世になるのです、神の事を言うことがミコトです、物を言わないでください、ミコト言うだけです、ミコトは神です、道です、アです、世が変るのです、何もかもはげしく引き上げるのです、戦も引き上げです、自分の役に不足申さないでください、光を食べてください、息です、素盞鳴尊(スサナルノミコト)を祀ってください、急ぐのです、海原(うなばら)とはこの国です

 

●疑問点➡聖書(神様)は預言者を通じて語りかける

●考察➡アダムとエバが楽園を追われてから神様と人の交流は薄くなりました、神様はすべての人に語りかけるわけではなく、預言者を通じて語りかけるという特徴があります、ノアの時代を引用すれば神様はノアに洪水が起きることを告げる、ノアは多くの人に警告するという構造です、多くの人はノアの言葉を信じない、ノアの言葉は神様の言葉なのですがノアの言葉は人には信じてもらえないという構造です、神様がすべての人に語りかけるという構造にはなっていません、神様に選ばれた人が特別に預言するという構造です、人は預言者を信じないという構造が続きます、イエス様もある意味では預言者です、モーゼの時代に「あの預言者」と言われたのはイエス様のことです、真実を告げるあの預言者が預言者として信じてもらえない、ここに複雑さがあります、人は神様の言うことも預言者の言うことも聞かないという特徴があります、悪魔の言うこと(誘惑)は聞いてしまう傾向があります、悪魔の誘惑は「おいしそうにみえる」とありますので、人は甘い話には乗りやすいという特徴がありあす、薬や健康食品はこれを食べたり飲んだりすると健康になりますよと誘われますので、飛びついてしまうのです、苦労すれば結果が出ますと言われると気持ちが引けてしまいます、預言者の言葉を信じないで苦労の連続がユダヤの民の特徴なのですが、あの預言者であるイエス様の言葉も信じないのが聖書の大きな問題となっています、イエス様を信じたら問題は解決するのですが、イエス様を信じないと言う問題が最後まで残っています、神様は強制的に信じさせることをしません、信じるのはその人が決めることです、決めるのはその人です、人は奴隷ではない(神様に似ている)ので自分で決めることは出来ます、自分で決めて自分で苦労したりするのです、神様の道は本来は真っ直ぐなのですが、人は回り道をしてやっと到達したりします、ユダヤの民がエジプトを出てカナンの地に行くのに40年もかかったのは、素直に神様の言うこと、モーゼの言うことを聞かなかったからだとなっています、苦労しても聞かないと言う性質は今も変わらないので、人の歴史は苦労の連続だとなっています、人生は苦労となっているのは聖書も仏教も同じです、聖書は男は額(ひたい)に汗を流して生活する苦しみ、女は産みの苦しみと男に従う苦しみが与えられました、自分には苦しみが無いという人は逆に人ではないのです、この世は苦しみの世界になったのです、今は楽園ではありません、苦しみがあるのが当たり前です、ただし預言者の言葉を聞いて信じるならば苦しみからは解放されます、なにしろあの預言者がイエス様ですから、イエス様の言葉を最後まで信じて苦しみから解放されるようになっているのです、今の時代は解放された時代ではなく信仰の時代ですから、信仰が試されているのです、途中でイエス様から離れないように言われている時代です、イエス様はブドウの木で信者は枝葉です、ブドウの木から離れたら枯れてしまうとう預言です、枯れた人は捨てられるのです、神様は捨てるというのが聖書の構造です、今のところ全員を救うと言う仕組みは見つかっていません、死ぬという救いはあります、死んで何もかも終わってしまえば苦しみはありません、聖書の構造は神様に従わない者は永遠の火で焼かれるのです、許されることはありません、死ぬより苦しいのです、聖霊を汚す者は許されないのです、聖霊はイエス様をメシア(救い主)と信じるのが命ですから、イエス様は救えないと言う人は聖霊を汚しているのです、イエス様は十字架で罪人の罪を身代わりに背負ったというのは救いではありません、身代わりになったのと救いとは違うのです、身代わりに死んでくれたなんてさらに非道の信仰なのです、金魚すくいが救いです、自分が水の中に入って死んだら救いになりません、イエス様は救い上げることが出来ると信じることです、普通の人は金魚すくいも出来ません、イエス様は弟子に「人を救える漁師にしてあげよう」と言われました、救える人が水に入って死んで、救われた人が罪を許されて生きて、助けた人が復活したとなっているのですが、救える方を殺したのが事実なので救われないのです、真実は救い主をメシアでは無いと殺したのです。