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ポツダム宣言(1945年7月)


昭和20年(1945)7月17日よりアメリカ、イギリス、ソ連の首脳(トルーマン、チャーチル、スターリンがドイツ・ベルリン郊外にあるポツダムに集い、7月26日、日本に降伏を勧める宣言を発表した。

この「ポツダム宣言」を日本が受諾すれば降伏、受諾しないならば戦闘続行ということとなった。

この宣言はアメリカ、イギリス、支那の3ヶ国の共同声明として発表された。ソ連は日本と日ソ中立条約を結び、まだ対日戦に参戦してなかったので共同声明からは外されていた。

  日ソ中立条約

実際にこの宣言に署名したのはトルーマンだけで、チャーチルは本国での選挙敗退で帰国し、支那(アメリカが支援していた重慶政府)の蒋介石はポツダムに来てさえもいなかった。要するにアメリカが自分で作って自分で署名したというだけの話である。この点も反日歴史家は明らかにしようとしない。

ポツダム宣言の概略は以下の通り。



第1条 アメリカ、イギリス、支那は協議して戦争を終える機会を日本に与えることで合意した。

第2条 アメリカ、イギリス、支那の3国は日本に最後的打撃を加える態勢を整えた。

第3条 我々の軍事力は日本の本土を壊滅することができるレベルになっている。

第4条 日本は決定すべき時期が来た。

第5条 我々の条件は以下の通りで、それ以外の条件はない。遅延は認めない。

第6条 軍国主義、世界征服をしようとした者は永久に除去する。

第7条 日本の戦争遂行能力がなくなるまで日本の諸地点を占領する。

第8条 「カイロ宣言」は履行され、日本国の主権は本州、北海道、九州、四国、そして我々が決定する島に限定される。

第9条 日本軍は武装を解除された後、各自の家庭に復帰し、平和的な生活を営む機会を与えられる。

第10条 我々は日本人を奴隷にしたり滅亡させようとする意図はないが、我々の国の捕虜を虐待した者を含む戦争犯罪人に対しては厳重に処罰する。日本国政府は民主主義を推進しなければならない。言論、宗教及び思想の自由、基本的人権の尊重を確立しなければならない。

第11条 日本は、経済、産業を維持することを許されるが、再軍備の産業は除く。原料の入手は許可され、将来、世界貿易への参加も許される。

第12条 前記の目的が達成され、日本国民が平和的傾向を有し、責任ある政府が樹立されたときには、連合国の占領軍は直ちに日本より撤収する。

第13条 我々は日本政府が直ちに日本国軍隊の無条件降伏を宣言し、日本政府がそれを保障することを要求する。そうでなければ日本はすぐに壊滅されるだけである。



昭和20年2月から硫黄島の戦闘があり、4月からは沖縄戦の決戦が行われた。

この両方の戦闘がアメリカ側にとって予想をはるかに超える多くの死傷者をアメリカ軍にもたらした。

たまたま4月12日にフランクリン・ルーズベルトが死に、副大統領から自動的に大統領に昇格したトルーマンは軍部の意見を聴取して対日作戦を考えた。

そして、5月には11月を期して日本上陸作戦を敢行するという命令がアメリカ軍に出された。

沖縄戦の一般住民の日本軍への協力を知ったトルーマンは、日本本土上陸により多数の死傷者が出るという予測を立て、そうなったらアメリカの世論だ黙っていない、自己の政権の基盤が危うくなると考えた。

ルーズベルトは日本を国として、政府として無条件降伏させたいと考えていたが、トルーマンは、知日派の元駐日大使グルーに命じて、日本側があまり名誉を傷つけられたと思わずに受諾できるような終戦の条件を考案するよう命じた。

そこで有能な補佐官をつけてもらい、グルー元大使が作り上げたものが「ポツダム宣言」の原案である。

このあと、アメリカの特使が、スターリンに会いに行き、このことを説明した。

スターリンは「ルーズベルトが言っていたように日本を国として、政府として無条件降伏させたい。しかし、日本本土決戦をすると大変な数の犠牲者を出すなら、仕方ない。しかし、いったん有条件降伏(条件付降伏)という形であれ、日本に降伏を受諾させたら、徹底して日本の非武装化をやろう。わわわれの思うとおりに日本を改造して、結果として日本が国として無条件降伏をしたのと同じ結果を実現できるだろう」と言った。

草案では「天皇制の維持」を保証する文章があった。これは国務次官であったグルー(駐日大使を長く務めた知日派)が考え出した案で、天皇の地位を保証すれば日本は講和に応じることを知っており、ドイツ降伏後の昭和20年5月末から何度もトルーマンにそれを進言していた。

陸軍長官のスチムソンや他の政府高官たちも同じ認識を持ち、トルーマンに働きかけていた。

しかし、トルーマンは草案にあった天皇の地位保全に関する部分をわざわざ削除した。

日本がポツダム宣言を受諾できないようにするためである。

トルーマンは原爆投下前に日本に降伏させたくなかったのである。

ポツダム宣言発表のおよそ2ヵ月後に広島、長崎に原爆が投下され、ソ連は日ソ中立条約を一方的に侵犯し、満州に進攻した。


  広島、長崎原爆投下
  日ソ中立条約破棄

その後、日本はポツダム宣言を受諾することになる。

  ポツダム宣言受諾

上記の通り、ポツダム宣言の第5条には「我々の条件は以下の通り」として種々の降伏条件が記されている。

つまり、ポツダム宣言の受諾とは、そこに盛り込まれた条件を日本が受け取った、という意味である。

これは有条件降伏であるという意味であって、決して無条件降伏などではない。

ところが、日本は無条件降伏したと誤解している者が多い。

それはポツダム宣言の第13条に書かれている内容が誤って解釈されているからである(誤って解釈させようとしている悪質な輩がいるのも大きな原因)。

ここで述べられている「無条件降伏」とは「全日本国軍隊の無条件降伏」であり、それを「日本国政府が宣言する」ことが要求されている。

日本国政府の無条件降伏が要求されているわけではない。

日本軍に無条件降伏させることを、日本政府に要求しているのである。


つまり、支那大陸、東南アジアなどで、支那軍とかイギリス軍とか、アメリカ軍を相手に、それぞれの指揮官の下で戦っている日本の軍隊は、おのおのが一々相手側と直接交渉して、ああだこうだといいながら条件を決めて武装解除を受けたり、復員したりするのではなしに、黙って武装解除を受けろ、ということである。

したがって、軍隊は無条件で降伏する、しかし、国家としては有条件で終戦したというのが国際法上の正しい解釈である。

さらにポツダム宣言の第9条には「日本軍は武装を解除された後、各自の家庭に復帰し、平和的な生活を営む機会を与えられる」と、日本軍が完全に武装解除することは、条件として確かに掲げられている。

現在、国際法学者の間では、戦争をして勝っているほうと負けているほうとが降伏についての取り決めをする場合に、お互いに何らかのお約束をしあった場合には、決して無条件降伏なるものはあり得ない、というのが通説である。

ポツダム宣言を読めばわかるが、個々の戦争犯罪人に対して、なにか裁判を行うとか、もしくは処刑をするというようなことを示唆するものは、どこにも発見することができない。

日本はポツダム宣言を受諾したのであり、そこに書かれた条件は連合国側も束縛するものとなっているはずだ、と後の東京裁判で清瀬弁護人が主張している。

ソ連のシベリア抑留という蛮行は紛れもなくポツダム宣言第9条に違反している。

  東京裁判
  シベリア抑留


いずれにしても、戦勝国がたとえどんな宣言を発しようとも、宣言は宣言であって、条約でもなければ、法的拘束力をもつ法律でも規律でもない。

カイロ宣言も同じことである。

ポツダム宣言が日本側において受諾され、調印されて初めて法的拘束力が生じる。

このポツダム宣言が国際法的効果を持ったのは昭和20年9月2日で調印した休戦協定によってである。


  休戦協定調印

アメリカはこの有条件降伏を無条件降伏にすり替えようとした。

  無条件降伏へのすり替え

第6条には「軍国主義、世界征服をしようとした者は永久に除去する」とある。

日本国民を騙して世界征服をしようという気を起させた権力、勢力は永久に除去されるべし、という意味である。

しかし、世界征服という考え方は日本のポリシーにはなかった。

これがあったとされるゆえんは、田中儀一内閣の時の「田中上奏文」である。


それを見て、フランクリン・ルーズベルトは日本を滅ぼさなければならないと決心したと言われている。

第7条には「日本の戦争遂行能力がなくなるまで日本の諸地点を占領する」とある。

これは、日本の戦争をする力を排除するために、国内領域のいくつかの地点を占領するということである。

しかし、戦後は日本全土が占領された。

これも明らかな条約違反だった。

第8条には「『カイロ宣言』は履行される」とある。

その中で「宣言」は日本の侵略を止めるために行うものであって、自分たちの利益のために何かを要求することはない、領土拡張については一切考えないと言っている。

そして大正3年(1914)年の第一次世界大戦開始以後に、日本が取ったり、占領したりした一切の島は取り上げると書いてある。

つまり第一次世界大戦後委任統治領として日本に与えられた南洋諸島(マーシャル、カロリン、マリアナ、パラオなどの諸島)である。

また、満洲、台湾、澎湖島という、日本が清国からとった地域を中華民国に返すと言っている。

ということは、「カイロ宣言」によれば、北方領土は返還の対象にならない。

ポツダム宣言では、わざわざカイロ宣言を履行すると書いてある。

さかのぼれば、昭和16年(1941)8月の大西洋会談で、






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