日本人の進路さんより
http://ameblo.jp/kororin5556/entry-11277514755.html






大森勝久評論集より
http://1st.geocities.jp/anpo1945/nakanishiterumasa.html


「中西輝政」論文の本当の執筆者はロシアKGB(SVR)である





~中略~





●国家反逆の大東亜戦争を「栄光の戦争」「日本の最良のとき」と言う「中西論文」


 先の『正論』の「中西論文」は、「日米戦争は、こうしたマクロ・ヒストリーの視点からは、やはり「宿命の出来事」だったと言うしかないのである」(12月号、153頁下段)とし、「栄光の戦争」(1月号、159頁上段)だったとする。「あの苦闘の中での自己犠牲の発揮、そして人々の絆と連帯感の高まりを日本人が見せた昭和十八年からの二年間こそ、私は間違いなく「日本の最良のとき(ファイネスト・アワーズ)」だったと思う」(1月号、166頁上段)と書いている。


 これは、大東亜戦争(1937年から1945年)を最大限に美化して、反米民族派を生み出し強化していくことを狙う、KGB(SVR)と中西氏による思想工作、情報戦である。ロシアの日本侵略・占領のためには、日米同盟関係を解体していくことが不可欠である。そのためには、左と右の反米勢力を拡大していくことが絶対に必要だ。左の反米勢力とは、いわゆる左翼だ。右のそれは、「反米民族派」のことであり、「右の左翼」でもある。「中西論文」は、反米民族派の創出・強化をめざしている。「反米」が思想の核となれば、日露同盟へと向うことになるのだ。


 大東亜戦争とは、いかなる戦争であったのか。大東亜戦争(日支戦争と太平洋戦争)とは、左と右の左翼が推し進めた革命戦争であったのである。これが真実である。すなわち「連合国の東京裁判」は、真実の把握に全く失敗した。大東亜戦争は、アジアから自由主義の英米仏蘭を追放して社会主義化(共産主義化)すること(これを左右の左翼は「アジア解放」と称した)と、この戦争を利用して日本国自身を社会主義国(共産主義国)に改造していくこと(すなわち反日。それを「高度国防国家」と言った)を、目標にした革命戦争であったのだ。更に「左の左翼」は、太平洋戦争で「日本」を敗戦必至の状況に追い込んで、「終戦時工作」と称してスターリンのソ連と共謀して、ソ連軍を呼び込んで、ソ連による日本侵略占領とソ連領土化と共産化を、目標にしたのである。ちょうど東欧のポーランドのようにである。そうなれば、日本は文字どうりの亡国だ。


 そんな大東亜戦争が、「栄光の戦争」で、「日本の最良のとき」であるはずがないのは自明だ。大東亜戦争とは、まさに国家反逆の戦争であったのだ。ソ連の国益に奉仕した反日戦争であった。だからKGB(SVR)・中西氏は、「栄光の戦争」等々と最大限に評価する。それは、再び日米対立を創り出して、日米同盟を破壊して、ロシアと中国が日本を侵略し、領土化することを狙うからである。





●大東亜戦争を推進した「左の左翼」と「右の左翼」ー主導したのは「左の左翼」


  「左の左翼」とは、スターリン、毛沢東とつながる共産主義勢力であり、当時は主として、ソ連軍参謀本部情報総局(GRU)の指示を受けていた。ゾルゲや尾崎秀実もGRUに所属していた思想工作員であり、スパイであった。KGBの全身である国家保安人民委員部(NKGB)の指示を受ける共産主義者もいた。彼らは国際共産主義者である。


 「右の左翼」は、自らを「革新派(革新将校とか革新官僚とか)」と称した民族共産主義者で、「天皇制社会主義(共産主義)」「国家社会主義(共産主義)」を目指した。永田鉄山は後に「統制派」を結成してリーダーになるが、永田が陸軍省軍務課長時代の1931年に書いた「皇政維新法案大網」は、次のような内容である。天皇主権によって、一切の政党を禁止し、既成の言論機関を閉止し、全国に戒厳令を布告し、憲法を停止し、両院を解散し、資本の私有を禁止し無償で国有化する、というものであった(竹山道雄氏『昭和の精神史』83頁参照)。永田が死んだ後は、東条英機がリーダーを継いだ。


 今日の「反米民族派」は、「統制派」や「皇道派」のことを「保守派」と言ったり、「右翼」と言っているが、明確な誤りだ。彼らは、彼ら自身が「革新派」と自称したように、保守派ではなく、明確な左翼、しかも極左である。彼ら「右の左翼」は、立憲君主である日本の天皇を否定して、全く別種の「天皇」にして、「天皇制」社会主義(共産主義)を目指したのである。右の左翼は戦後は、自分たちが左翼(革新派)であることを隠して、若い新しい仲間を作っていった。多くの人が、この嘘プロパガンダに騙されてしまっている。洗脳である。洗脳はいたるところにあるのだ。KGB(SVR)・中西氏は当然、統制派や皇道派が右の左翼であることを知っているが、知らないふりをして読者を騙し、洗脳しているのである。


 左と右の左翼の間には、共通点と対立点があった。反「法の支配」、反自由主義、反資本主義、反議会政治、反「正しい個人主義」では、共通であった。つまり社会主義(共産主義)・全体主義では、共通していた。だから反米英、反蒋介石国民党政府では共通していた。しかしながら、ソ連や中共に対する立場では対立した。革新勢力は「反ソ・反共」を唱えたが、それはソ連とその指導を受ける共産主義勢力は、日本を侵略し、天皇制打倒を目指していたからである。革新勢力が唱えた「反共」は、祖国と天皇制をめぐっての対立からであり、それ以外では、既にみたごとく、革新勢力自身も(民族)共産主義であったのだ。独裁である。


 革新勢力が政府(軍部)の主勢力であるし、革新勢力は「アジア解放」を目指したが、英米仏蘭だけでなく、ソ連と中共も追放の対象にしていた。だから左の左翼の共産主義勢力は、革新勢力に正体を偽装して、革新勢力の政策を(部分的に)利用しながら、自らの独自の目標の実現のために闘っていったのであった。大東亜戦争を主導したのは、スターリンと密通していた近衛文麿を筆頭とする左の左翼であった。


 近衛文麿らは、スターリン・毛沢東と共謀して日支戦争を起こし、和平を阻止して長期戦化していった。これによって、反蒋介石国民党政府によって壊滅寸前に追い詰められていた中共を救出し、また反蒋介石国民党政府を弱体化して、支那を中共のものにしようとした。日支戦争は関東軍の「北進」を阻止するから、それによってソ連を防衛することになる。近衛たちは「南進」して、米英蘭仏との敵対路線をとり、太平洋戦争を引き起こしていった。これによって、彼らをアジアから追放してアジアを共産化(ソ連圏)していく。さらに「天皇制」社会主義国(共産主義国)の「日本」を、太平洋戦争で敗戦必至の状況に追い詰め、再び近衛が首相になって、「終戦時工作」をソ連と共謀して行い、ソ連軍を呼び込んで、ソ連軍による日本侵略占領、ソ連領土化と共産化を実現しようとしたのであった。最後の目標だけは、実現されなかったが、他は実現された。


 『正論』12月号、1月号の前記「中西論文」は、既に公けになっているゾルゲや尾崎秀実や、このグループの一員である西園寺公一らを批判するが、最大の大物・近衛文麿の正体を隠したのである。戦後、ソ連と共産主義者は一貫して近衛文麿の正体を隠蔽してきたが、この「中西論文」(SVR)もしかりである。


 さらに「中西論文」は、親英米派の幣原外相を激しく攻撃している(1月号、167頁下段)。日本がもし、国際法を守り、自由主義の親英米の外交を貫ぬけば、大東亜戦争は起らなかったのだ。だから左翼の中西氏とSVRは、親英米派の幣原外相を憎んで攻撃するのである。





~中略~





●日本は「ハル・ノート」を突きつけられてやむをえず「自存自衛の戦争」をしていったは、大嘘である


 既に述べたように、「天皇制」社会主義国家の「日本」は、対米英蘭の革命戦争(太平洋戦争)をはるか前から決意していた。「ハル・ノート」(1941年11月27日、日本時間)は関係がない。しかし反米民族派などの嘘プロパガンダによって、日本は「ハル・ノート」によって、やむをえず「自存自衛」のために太平洋戦争を始めていったのだと考えている人が多い。洗脳である。「中西論文」も、この嘘プロパガンダをしている(『正論』論文)。


 「ハル・ノート」は、支那(満州は含まず)と仏領インドシナからの撤退と、日独伊3国同盟の実質的廃棄を要求しているだけである。そうすれば、凍結した日本資産を解除し、石油などの輸出も再開するとしている。容易に受け入れることができるものだ。日本が「ハル・ノート」を拒絶したのは、日本が左右の左翼によって侵略支配されて、「天皇制」社会主義国という「左翼反日国家」に革命されてしまっていたからだ。自由主義国家・資本主義国家である敵国の米国の要求だから、拒絶しただけである。


 それは、鈴木首相が「構成員会議」で意見の一致をみたとして、「ソ連に貢ぐものとして挙げ
た領土」を見れば明らかだろう。さらに近衛文麿は「特使」として、「白紙」状態でモスクワへ行って、スターリンと交渉することになっていた。近衛が、種村大佐が『今後の対「ソ」施策に対する意見』で述べていた、南華太、台湾、琉球、北千島、朝鮮、もちろん満州、内蒙古、支那、仏領インドシナ、蘭領インドシナなど全てをソ連に貢ぐつもりでいたことは明白である。


 つまり社会主義国「日本」は、相手が社会主義国のソ連であれば、「ハル・ノート」よりも何千倍も苛酷な条件で、日本の占領地や領土を進んで与えようと考えていたのである。まさに戦前の社会主義国家「日本」は、左右の左翼が侵略支配した反日国家であったのだ。


 
2012年4月30日脱

大森勝久







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