wikipediaより





日本国に居住する大韓民国国民の法的地位及び待遇に関する日本国と大韓民国との間の協定
日韓法的地位協定に基づく協議の結果に関する覚書



日韓法的地位協定に基づく協議の結果に関する覚書とは、日韓法的地位協定を引き継いだ在日コリアン3世以降の地位確認、および指紋押捺問題に関する日本と韓国の間の協定。
1991年署名。

在日韓国人の法的地位について定めた日韓両国政府間の協定(日本での法令区分としては条約)である。
略称は日韓法的地位協定(にっかんほうてきちいきょうてい)。





概要

朝鮮半島出身者のうち1945年8月15日以前から引き続き日本に居住している韓国籍保持者(及び協定発効後5年以内に日本で出生した直系卑属)に対し出入国管理令(後の入管法)に基づく一般の永住許可とは別の永住許可(協定永住)を与える制度を主たる内容としている。

対象者は、協定発効後5年以内に申請すれば、この協定永住の許可が与えられた(法令による自動付与ではなく申請が要件とされた)。

また5年経過後も、既に協定永住を得た者の子(孫以降は含まない)に限り出生後60日以内に申請すれば、同じく協定永住の許可が与えられた。

この協定永住を保持する者に対しては、麻薬犯罪や内乱に関する罪など重大な犯罪を犯さない限り退去強制の対象とならないなど、他の在留外国人に比べ優遇措置が適用された。

また協定では、日本で出生した直系卑属の大韓民国国民の日本国における居住について、大韓民国政府の要請があれば協定の効力発生日から25年経過するまで協議を行なうとされた[1]。

1965年6月22日 署名
1966年1月17日 発効





特別永住者制度への移行

協定発効後5年経過以降の新たな協定永住の許可が既得者の子の世代に限られ、孫以降の世代(協定3世等)は入管法に基づく通常の永住許可しか受けられないなど世代間での不均衡な事態が1980年代後半に顕在化した(以前から不備は懸念されていたがこの時期になって実例が散見されるようになった)ため、日韓政府間で新たに協議が行われ、日本の法務省内でも制度の拡充について検討が行われた。

孫以降の世代に関する協定の不備の解消のため、さらには、類似の境遇にありながら制度面で差が生じていたいわゆる朝鮮籍、台湾籍の永住者等の処遇の改善を含めた抜本的な永住制度を構築するため、1991年11月1日に対象を韓国籍者に限定しない「特別永住者」制度が施行された。

協定永住及びそれら類似の永住者の在留の資格は法令の一斉適用によりこの「特別永住者」に一本化され、協定永住の制度はその役割を終えた。






特別永住者



特別永住者とは、平成3年(1991年)11月1日に施行された日本の法律「日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法」により定められた在留の資格のこと、または当該資格を有する者をいう。

厳密に言えば「資格」であって「権利」ではないのだが、社会通念上両者が混同されているので、この資格は特別永住権とも呼称されている。

米国戦艦ミズーリ艦上での日本の降伏文書調印日(昭和20年(1945年)9月2日)以前から引き続き日本内地に居住している平和条約国籍離脱者(朝鮮人(韓国人)及び台湾人)とその子孫を対象としているが、実際には朝鮮、韓国系の特別永住者には戦後の密航者も多く含まれる(特別永住者の実際参照)。

第二次世界大戦後、日本の領土下にあった朝鮮は連合国に分割占領され後に韓国・北朝鮮として独立し、同じく日本の領土下にあった台湾は中華民国に併合された。

それによって、これまで日本領土下のもと日本国民とされたこれらの人々の国籍についてどうするかが問題になったが、日本では単純に日本国籍を喪失する政策がとられた。

日本政府はこのうち、日本に在住している(戦前まで日本国民の一員として日本で生計を立てていた)これらの地域出身者に対する救済措置として、「かつて日本国籍を有していた外国人」を特別永住者、それ以外の外国人を一般永住者と区別した。

旧植民地出身者の扱いについては、ドイツは選択制としたが世界的には重国籍が一般的である。

平成23年(2011年)末時点での特別永住者の実数は、前年より1万23人減少し38万9083人[1]である。

国籍別では「韓国・朝鮮」が99%とほとんどを占める。

大阪・兵庫・京都の近畿3府県に約45%が集中する。





概略

一般永住者とは異なる枠の特別永住者が発生した経緯を概説する。

1945年、奴隷状態にある朝鮮人を解放し朝鮮を独立させるとするカイロ宣言、および、この履行を迫ったポツダム宣言の受諾による日本敗戦と第二次世界大戦の終結により、在日旧植民地出身者が、法律上なお日本国籍を保持しながら、実質的に外国人となったことに端を発する[2]。

1945年(昭和20年)末からGHQ指令による非日本人の送還が始まり、12月には清瀬一郎らの主張により、旧植民地出身者(朝鮮・台湾・樺太人。ただし樺太のアイヌは除く)を戸籍から外し、その上で戸籍法の適用を受けない者の参政権を「当分ノ内停止」する内容の、衆議院議員選挙法改正案を可決した[3]。

1946年3月までに日本政府の手配で140万人以上の朝鮮人が帰還している(うち、徴用で来日したものは245人が残留)[4]。

1947年には最後のポツダム勅令である外国人登録令第十一條により「台湾人のうち内務大臣の定める者及び朝鮮人は、この勅令の適用については、当分の間、これを外国人とみなす」とされた。

1948年、韓国、北朝鮮はそれぞれ1948年に連合国軍政から独立した。

1948年4月3日に済州島四・三事件が起こり[5]、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁支配下にある南朝鮮(現在の大韓民国)政府が、島民の動きに南朝鮮労働党が関与しているとして、島民全人口の20%にあたる6万人を虐殺、島内の70%が焼き尽くされた[6]。

この事件に続いて同年10月19日、麗水・順天事件が起こり反乱軍のみならず8000人の民間住民が虐殺された。

これらの虐殺事件の際にも済州島や全羅南道から多くの韓国人が日本に密入国した[7][8]した(1955年までに1万2500人[7])。

これらの事件について韓国政府は長い間タブー視し、事件の全容が明らかになったのは、民主化後の1990年代以降である。

1950年6月から1953年7月にかけては、朝鮮戦争が勃発し、半島全土が荒れ地となる。

1952年、サンフランシスコ講和条約発効により日本が国家主権を回復すると、同時に日本領土の最終画定に伴う朝鮮の独立を承認した。

これにともない、旧植民地出身者は名実共に日本国籍を失った。

当時、韓国朝鮮人の側からも、併合により強要された日本国籍の保持に興味は無く、これらの日本国籍喪失措置に異議を唱えなかった[9]。

しかし、朝鮮戦争で半島全土が焦土となっていた韓国政府は受け入れる社会体制が整備されていなかったため、在日韓国・朝鮮人の送還を拒否した[7][10]。

1959年の朝日新聞によれば、特別永住者となったものは日本政府や連合国の手配を拒んで自ら残留したものと犯罪者だけである[4]。

また、朝鮮戦争にともない、日本でも北朝鮮政府支持者と南朝鮮政府支持者との紛争が多発した(北朝鮮への帰還事業を韓国政府や在日大韓民国民団が妨害)。

1965年、日韓基本条約締結に伴い締結された在日韓国人の法的地位(協定永住)について定めた日韓両国政府間の協定(日韓法的地位協定)では、国外退去に該当する事由が他の外国人と比べて大幅に緩和された協定永住資格は2代目までに限り、3代目以降については25年後に再協議することとした[9]。

1977年からは在日本大韓民国民団(民団)主導で「差別撤廃・権益擁護運動」が開始され、在日韓国人の参政権獲得運動も始まった。

当時、民団は「日本語を使い、日本の風習に従う社会同化は義務」としていた[11]。

1991年、入管特例法により3代目以降にも同様の永住許可を行いつつ、同時に韓国人のみが対象となっていた協定永住が朝鮮籍、台湾籍の永住者も合わせて特別永住許可として一本化された。

また、この時の「九一年日韓外相覚書」には「地方自治体選挙権については、大韓民国政府より要望が表明された」と明記された[9]。





特例

特別永住者はかつて日本国籍の保有者であったというその歴史的経緯から、他の外国人(特に通常の永住者)と比べ、次のような特例処置を受ける。

①退去強制

特別永住者は、退去強制となる条件が他の外国人よりも限定される(特例法第9条)。
具体的条件は次のとおり。

内乱罪(付和随行を除く)、内乱予備罪、内乱陰謀罪、内乱等幇助罪で禁錮刑以上に処せられた。(執行猶予が付いた場合は除く)

外患誘致罪、外患援助罪、それら未遂罪、予備罪、陰謀罪で禁錮刑以上に処せられた。(執行猶予が付いた場合は除く)

外国国章損壊罪、私戦予備罪、私戦陰謀罪、中立命令違反罪で禁錮刑以上に処せられた。

外国の元首、外交使節又はその公館に対しての犯罪で禁錮刑以上が処せられ、かつ法務大臣が(外務大臣と協議の上)日本の外交上の重大な利益が損なわれたと認定した。

無期又は7年を超える懲役又は禁錮に処せられ、かつ法務大臣が日本の重大な利益が損ねられたと認定した。

特別永住者以外の外国人の退去強制手続が出入国管理及び難民認定法第24条に規定される退去強制事由(20項目以上)に基づくのに対し、特別永住者には同条は適用されず上記のような日本国の治安・利益にかかわる重大な事件を起こさない限り退去強制となることがない。

なお、実際に7年以上の懲役又は禁固刑に処せられた特別永住者は存在するが、法務大臣が日本の重大な利益が損ねられたと認定したことが無いため退去強制は行われたことはない。

これをもってこの条項は死文化しているとの批判がある。

無期懲役判決を受けながら自ら韓国に永住帰国するなどとして仮釈放された金嬉老は韓国に帰還したため特別永住許可は失効しているが、2010年には再入国を求めていた[15]。

②再入国許可

2007年11月20日以降、外国人は日本入国(再入国を含む)の際に、顔画像と両手人差し指の指紋照合(提出)を義務付けられるが、特別永住者は免除される。

一方、韓国では2010年7月からすべての外国人の指紋や顔の生体情報採取を行いデータベース化する方針である[16][17](指紋押捺拒否運動)。

また、その審査に当たっては通常の外国人には、上陸拒否事由に該当する場合は再入国許可が得られても上陸拒否されるが、特別永住者の場合は有効な旅券を有しているか否かのみが審査され、上陸拒否事由に該当したとしても再入国することができる。

また、通常の外国人の場合再入国の有効期限の上限が3年であるのに対し、特別永住者の上限は4年であり、再入国の許可を受けて出国した者について、当該許可の有効期間内に再入国することができない相当の理由があると認めるときは、その者の申請に基づき、1年を超えず、かつ、当該許可が効力を生じた日から5年を超えない範囲内(通常の外国人の場合は4年を超えない範囲)で有効期間の延長を認めることができる。

③登録証明書携帯義務の制裁の特例

通常の外国人の場合、登録証明書を携帯しない場合、刑事罰として20万円以下の罰金に処せられる可能性があるが、特別永住者の場合は行政罰としての10万円以下の過料に処せられる可能性があるにとどまり、携帯義務違反を理由に現行犯逮捕や強制捜査の対象にはならないこととなる(提示義務違反は刑事罰の対象になる)。

④雇用対策法に基づく届出義務適用除外

2007年10月1日から事業主は、雇用対策法に基づき外国人を雇用した場合及び離職した場合、公共職業安定所に対し届出義務があるが、特別永住者については外交・公用の在留資格を有する者とともに届出義務が課せられない。

また、国または地方公共団体が外国人を雇用した場合も公共職業安定所にその旨通知する必要があるが、同様に特別永住者についてはその適用がない。





資格の喪失

特別永住者であっても、あらかじめ再入国許可を受けることなく日本から出国(いわゆる単純出国)したり、再入国許可の有効期限が消滅した後も日本国に入国しない場合は特別永住者資格を喪失する。

喪失した場合は再び特別永住者資格を取得することはできない。

これは、日本に継続して在留していることが特別永住者の要件であるところ、再入国許可を受けないまま出国した場合はその時点で、再入国の有効期間を過ぎてもなお日本に入国しない場合は出国した時点に遡って、いずれも特別永住者資格を喪失し、「継続して在留した」との要件を満たさなくなるためである。

なお、再入国許可を得て出国しその有効期間内に再入国した場合は継続して日本に在留しているものとして扱われる(これは在留の資格に関する解釈便宜上に限った観念であって、時効の停止・税法の適用など他の法令の解釈には影響しない)。

特異な事例としては、一時的出国に際して再入国許可を申請したが、外国人登録原票への指紋押捺拒否等により同申請が不許可となり、にもかかわらず日本から出国したため協定永住資格を喪失、再来時に当時の在留資格4-1-16-3(定住者に相当)を付与されたあと、行政訴訟等で制度の改善運動を行い、その結果、事後立法により特別永住者資格とするとの「みなし規定」で資格が復活した例がある(入管特例法附則第6条の2)。



平成23年(2011年)末現在の特別永住者の数[18]は、法施行当時の平成3年(69.3万人)と比べ44%減の38.9万人。

日本国に住む外国人全体(207.8万人)の中で18.7%を占める。

減少の原因として、帰化や少子高齢化などが考えられる。

特別永住者の国籍のうち、韓国・朝鮮は99%、中国[台湾]などその他は1%程度である。

平成19年(2007年)末に初めて一般永住者の数を下回った[19]。

特別永住者は韓国・朝鮮が99%を占めるのに対し、一般永住者は中国[台湾],ブラジル,フィリピン,韓国・朝鮮の上位4国で3分の2を占める。

大阪府豊中市の人口(390,338人)とほぼ同じ。



特別永住者は三大都市圏の10都府県に集中しているのが特徴で、近畿圏(大阪・兵庫・京都の3府県)に45%、首都圏(東京・神奈川・埼玉・千葉の4都県)に22%、中京圏(愛知・三重・岐阜の3県)に11%が居住している。

合わせると実に78%、3分の2超がこれらの地域に集中している。
この人口構成比を元に、今後外国人地方参政権を与えることになれば、これら大都市圏の首長選挙などで当落に影響する可能性が高く、憲法上の疑義を指摘する意見がある。





特別永住者の実際

上記のように、法律は特別永住者資格は「戦前から“日本に居住している”かつて日本国民だった旧植民地の人々」であることを前提要件としたが、朝鮮人及び台湾人は日本国籍を失うのはサンフランシスコ講和条約が発効した1952年4月28日である。

それ故、戦後の入国者であっても、1952年4月28日までの入国者を違法な入国と断定することはできず、実際には戦後、済州島四・三事件や朝鮮戦争の戦火から逃れるために、生活の糧を求めて出稼ぎのために、荒廃した朝鮮半島より学問の進んだ日本の学校で学ぶために、数多くの韓国・朝鮮人が日本へ密航し[21]日本国内の混乱に乗じて特別永住資格を得た[22]とされる。

たとえば、元在日韓国人のマルハン韓昌祐会長は、戦後出稼ぎのために密航し、戦後の混乱に紛れて特別永住資格を得たと証言しており[23]、特別永住資格者(在日韓国人3世)の俳優チョウ・ソンハは、「韓国の済州島出身の祖父は、戦後、大学で学ぶために日本に来た在日1世でした」と語っている[24]。

また、1950年6月28日の産業経済新聞(当時 産経新聞の旧称)朝刊では「終戦後、我国に不法入国した朝鮮人の総延人員は約20万から40万と推定され、在日朝鮮人推定80万人の中の半分をしめているといわれる」と伝えており、一方西岡力は70万人(2000年現在)の在日韓国・朝鮮人のうち26パーセントにあたる18万人が戦後に日本に渡って特別永住資格を得た者であると述べている[22]。

当時の総理大臣である吉田茂も「在日朝鮮人に対する措置」文書(1949年)において、在日朝鮮人の半数は不法入国で、大多数の朝鮮人は日本経済の復興に全く貢献せず、多くは法の常習的違反者で、共産主義者など政治犯罪を犯す傾向が強く、常時7000名以上が獄中にいるという状態であることを伝えている。








特別永住者の国籍 [編集]

特別永住者の国籍には以下のような特徴がある。
元々、平和条約国籍離脱者が韓国・朝鮮人、台湾人のみであったため、「平和条約国籍離脱者」及び「平和条約国籍離脱者の子孫」である特別永住者にも、その3つの国籍が非常に多い。両親の国籍が日本以外の別々の国である場合、成人した子供が韓国・朝鮮、台湾以外の方の国籍を選択することがある。そのことにかかわらず、両親の一方が特別永住者であった場合、特別永住許可を申請できる。



特別永住者の参政権問題 [編集]

詳細は「日本における外国人参政権」を参照

朝鮮半島や台湾から戦前に移住してきた人々やその子孫で現在も日本国籍を取得していない、いわゆる「特別永住者」の人口は、2010年12月末時点で399,106人(韓国・朝鮮人395,234人、台湾人2,668人、その他1,204人)である[30]。

また特別永住者とは別に「永住者」の在留資格を持つ在日外国人の人口は、2010年12月末時点で565,089人である[30]。

日本における永住外国人参政権問題については、参政権を与えるべきか、一般永住者と特別永住者両方に与えるべきかなどが争点になっている。また、特別永住者たる資格要件(戦前から日本に居住していた外国人)を満たさない不正資格者(密入国者)の問題もある。また外国人参政権は憲法違反であるため改憲が必要となり、安全保障上支障があるとも指摘される[31]。

また民団をはじめ在日韓国人の運動によって、韓国政府も日本政府に公式に参政権付与を要求している。これを受けて民主党は参政権付与を公約とした。これに対して憲法学の長尾一紘は、韓国人は韓国の憲法によって韓国への忠誠が要求されていること、二重参政権の問題、韓国人の半数が対馬は韓国領土と考えていることなどから、参政権が付与された場合、対馬が日韓の外交問題(領有権問題)となることが予期され、日本の安全保障上重大な問題であること、また、民団は韓国政府によって運営されているため、民主党の同団体への外国人参政権付与の公約は、外国政府への公約となっており民主党の進める外国人参政権法案は国家意識を欠如させた危険なものであるとして痛烈に批判した[31]。

また参政権付与の根拠として菅直人首相も挙げた最高裁判決傍論を作成した元最高裁判事園部逸夫も、民主党の法案に対して、「ありえない」と批判。「移住して10年、20年住んだからといって即、選挙権を与えるということはまったく考えてなかった。判決とは怖いもので、独り歩きではないが勝手に人に動かされる。」と自身の行動を反省しながら、述べている[32]。



それ以後の特例措置 [編集]

日本国籍を喪失した旧植民地人は、参政権をはじめ国民年金や国民健康保険などの日本で生活する社会的権利が与えられなかった。彼らにとって、日本国民として日本人とほぼ同等であった戦前とは逆に、戦後は他の外国人と同様の扱いとなった。その後、徐々に旧植民地出身の外国人には特例がなされるようになった。1960年代の後半から国民健康保険制度が、1980年代には国民年金制度が適用されるようになった。

1991年に、出入国管理及び難民認定法(入管法)の特例として施行された法律で、戦前から定住する旧植民地人(いわゆる平和条約国籍離脱者)とその子孫は特別永住者となった。これらの人々には、日本国民と同等の社会的権利の多くが認められるようになったが、参政権については国政選挙、地方選挙に関わらず認められていない。






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