おおかみこどもの雨と雪 | リュウセイグン

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長文多し。

「家族」とはなんだろう

そして

『家族物』とはなんだろう



細田守監督の最新作『おおかみこどもの雨と雪』を観て参りました。

結論から言うと



とても好きな作品



と言って良いと思います。

人物や風景の繊細な描写といい、それぞれのキャラクター性といい好感が持てました。


田舎の描写が気になる人もいるかと思いますが、実際田舎の人なんてのは妙に排他的な一方で、気安くなってしまうと親切なので、あの描写はそれほど間違っていないと思います。
シングルマザーだから変な噂もされるんでしょうけど、結構頑張ってるんだなぁと思われれば手伝ってくれる。良くも悪くもそんなもの。


個人的に好きなシークエンスは、幼い頃はおてんばな雪(野性)と内向的な雨(人間性)だったのが、雪の日から入学辺りの過程でどんどん入れ替わっていくところ。


学校に対する姿勢が、そのまま彼女らの狼に対する姿勢だと端的に表現した教室のシーンは本当に上手かったと思います。


そして暖色系の服を着ていた雪が、人間にシフトするごとに寒色系の服になっていくというのも暗喩的でした。パンフなどではモデルとしてアリスの衣装などを挙げていますが、本作では開放的な人間=暖色・内向的、自分を隠す人間=寒色というような表現をされているように思いました。

例えば花は殆どオレンジというかピンク色(車も赤)、お父さんは白と青、雨も青→白・青で殆ど同じです。
近所のオバチャンも赤系統。

雪は野性を出していた幼少期が赤~ピンクで、人間を意識するごとに青地に白→青となっていく。
草太は登場シーンから真っ赤な服を着ていて、殆どそれで通しますが、和解する際、雪に対して本心を隠蔽する時だけ緑がかった服を着ています。

彼女達の決断が分かれる、というのも子供を二人配置した設定によく合っています。
二人とも人間に落とし込んでしまっては、二人いる意味はあまり無い。
この設定でなければ出来ないことをやっているという意味でも、良かったと思います。

僕は以前『サマーウォーズ』 に対してかなり批判的な文章を書いたと思いますが、ここまでで分かる通り、『サマーウォーズ』よりも遙かに好感を持って最後の方まで観れた作品でした。










が、










正直に申し上げます。
終盤、スタッフロールが流れる段階に置いて僕は奇妙な感覚に襲われました。
観ていて厭な部分というのは殆ど無かったのに、なにかモヤモヤしてしまう
そんな感覚です。

ドラマとして綺麗すぎる、非現実的すぎるから?

惜しいような気もするけど違います。
僕はドラマは一種の理想論としても機能すると思っているので、何らかのドラマを体現する為には現実的に起こりえる制約をある程度無視するのはそこまで気になりません。
あるとすればある時には描くけれど、ある時には描かない、というような作り手側のダブルスタンダードが見え隠れするような事態です。

じゃあ、何が気になるのか。
スタッフロールを観ながら考えていて、気付きました。




この家族、まるで影響し合ってない





そんな筈は……と思って考えてみても、なかなかコレというシーンが出てきません。
もちろん、全く関わり合っていない訳ではないのです。

例えば母親は無意識的に雨を守ろう(束縛しよう)としていますし、雨はその母親に遠吠えで応えます。
また雨と雪は互いの意見を巡って噛み合いのケンカをします。



しかし



それが彼女らの人生の判断に於いて、どれくらいの影響があったというのでしょうか。

遡って考えてみましょう。
おおかみこどもの変化が訪れたのは積雪シーンの終盤、雨がヤマセミを襲うところです。
ここまでは彼ら家族は、性格こそ異なれどほぼ一体として描かれています。

ナレーションでも変化の旨が告げられますが、ヤマセミを捉える雨は野性に目覚めたのです。
そして次は雪が学校へ通うところ。
彼女は次第に周囲と自分の際に気付き、自分の野性を封印しようとし始めます。

ここで姉弟の野性は入れ替わる訳ですが、ここで彼女らに影響を与えているのは

雨に対する「自然」




雪に対する「学校の女の子」

です。
花は雪の野性封印を手伝いますが、決定は雪自身がしており、それを追認する形を取っています。

そして次に雨と「先生」について考えます。
花は雨を自然と触れ合わせますが、センターにいるシンリンオオカミは雨にもなんら応えません。
雨は自分で「先生」を見付けて師事し、野性をとぎすませます
花は「先生」にお礼をしますが、やはり追認です。


雪と草太との関わりも、草太が雪に過干渉をすることで雪の野性が喚起され、草太を傷付けてしまう。
流石に花は呼び出されますが、この直後に雪が花を詰ります。


おまじないが効かなかった


と。
本来、狼化を禁じていたのは花の方です。
従って、ここはむしろ花が雪を責めてもおかしくないシーン。
しかし雪が花に対して「封印が効かない」ことを怒り、花以上に野性、狼の部分を拒絶している様を描きます。ここでも花は「お父さんに聞けば良かった」と後悔するものの、子供の行為に対して何か特別な言及はしません

姉弟のケンカシーンもありました。
しかし思い返してみれば分かるように、


このケンカもまた姉弟に影響を及ぼしていない


それどころか、クライマックスに当たる嵐のシーンで、姉と弟は物理的接触すらしないままに物語は終わってしまうのです。


これは母である花も殆ど同じで、最後の最後まで姉弟と物理的接触をせず、雨に救われたかと思った直後、そのまま別れのシーンとなります。


一応解説しておくと、花は母性として雨を束縛しようとするシーンもあります。

「山に入っちゃダメ」というのと崖から転落して「私が守らなきゃ」というようなことを口にするシーンですね。

またそれに対する回答がお父さんの「雨はもう大人だ」と朝焼け遠吠えになるわけです。
ただ、これもよく考えると花の意向は雨の足を止めることは殆どないのです(雨戸を閉めるところで背中を見詰めるところが躊躇いに該当するくらいか)

そして花はここで何を問題にして何によって解放されたかと言えば「雨を独り立ちさせることの不安(裏返せば親離れの不安)」を問題にして「生き生きとした姿の雨」を見て解放されている。
恐らく、ここは雨個人の問題に帰属していると思うのです。何故なら雨の社会的な役割である「山の主の後継」という役割自体が描かれていないし、父親の助言も雨個人の話しに収束しているからです。
この雨の持つ社会性の描写の希薄さも、本作の家族としての影響を薄くしている一因だと思います。
あと、雨との離別も結局は追認と言えるでしょう。




前述の通り、姉弟がそれぞれの決断をしたことは設定を生かしたドラマという点でも意味のあることです。
しかし僕が不思議に思うのは


家族物なのに家族が影響し合っていない


という状況なのです。
もちろん現実にはそういう家族もいるでしょう。
しかしこれは家族をテーマに扱った物語です。



僕が思うに、これは家族物のようでいて共に暮らす三人の個人の物語です。
だから対立はすれど影響はない。彼女らの自我は根本的に独立したものだから。



この映画との対比だと

『メリダとおそろしの森』

『猿の惑星 創世記』

『八日目の蝉』

辺りが分かり易いのではないかと考えます。

同時期に公開された『メリダとおそろしの森』は、母子関係とアニマルトランスという要素で共通します。
メリダと母親である妃は、互いに自由と王女の立場で反目し合っていましたが妃の変貌により互いを理解した上で融和出来るような結論を出しています



人間社会の異物として「人間の家庭で育った賢い猿」を描いた『猿の惑星創世記』では、主人公の猿シーザーが人間社会から排斥されながらも家族だった人間に対する気持ちが捨てきれない様を描写し、最後は擬似的な親と「理解しながらも別れて生きる」選択をします。



浮気相手の女性に攫われた子供のその後を描いた『八日目の蝉』優しい育ての親たる浮気相手の女性と、誘拐によって家庭が崩壊し子供に対する思いが暴走する産み母親の影響を、主人公が呪いのように刷り込まれながら生きている様を描いています。


ちなみに『八日目の蝉』は角田光代の小説原作ですが、
脚本は『おおかみこどもの雨と雪』と同じ奥寺佐渡子です。


これらの作品は家族関係に問題を抱えながらも、家族が互いに影響し合って存在せざるを得ないことを描いています。


個人的には家族物というのは家族の影響や相互理解(或いは不理解)を描いてこそではないか、と思うのです。


翻っておおかみこどもを観るに、終盤では姉弟の対立、また雨を拘束しようとする母親の姿は描写されますが、それは殆ど彼女ら自身を束縛も影響もしていない
彼女達も成長はしていますが、それは

花→村落社会
雪→学校の女の子や草太
雨→先生


という外部の社会性との影響によるものであって、花たち家族自体の影響というのが非常に弱い。
つまりこれは如何に優れた作品だとしても、あくまで家族という名の下で暮らす個人の映画であり、家族を描いた作品にはあまり見えないのです。


僕の言うような話とは少し違う意味で言っていると思いますが、監督自身は公式ホームページのインタビュー でも

中心はお母さんになっていく女性の話だと思うのですが、娘、息子はそれぞれ独立した人物として尊重して描きたいと思っていたので、3人が主人公ともいえると思います】

と語っています


そういう意味では(僕の個人的な好悪は兎も角)部外者の立場から家族を見た『サマーウォーズ』の方が家族関係をまだ描けていたのではないでしょうか。

僕が思うに、細田守監督は根本的に


超個人主義者


なんじゃないかと思うのです。
如何に家族の重大さを把握しようとしても、根っこの部分で個人主義的な感性が強い為に、家族物のようでどこか寸断された物語を構築してしまうのでは……と考えます。


先に触れたサマウォでも、ラストの葬式シーンが一番引っ掛かりましたしね。
あの家のお婆ちゃんが偉いさんに電話を掛けて話し合えるというのと、家族で好きかってしたくても厳粛な葬儀で客人を迎え入れることは裏表の関係のはずだったのに、それをしなかった。


細田監督は家族や共同体が持つ拘束力や、必然的な影響力というのに、あまり重きを置いていないのではないでしょうか。そういう部分が、今回は核家族を主題にしたことで、顕著になってしまった感があります。


アニメーション映画としての出来映えと監督の手腕はこの上なく確かだと思う一方で、この方は今後も家族物を撮るべきなのだろうか……と悩んでしまう作品でした。




※ なんかサマウォ感想見返したら、結局共通するかもしれないような指摘が……や、でも今回は成長と成長過程は描かれていると思います。その成長を与えるのが家族ではない、というだけで。