日本男児伝 東郷平八郎 | 中杉 弘の徒然日記

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【日本史】勝った戦争から学べ!日本海海戦でロシア海軍に一方的勝利をおさめた連合艦隊/皇国の興廃この一戦にあり

 

 

日本男児伝 東郷平八郎

 

 今日は、皆さんもご存じ、バルチック艦隊を破った明治の英雄、東郷平八郎元帥の話です。

 東郷 平八郎(とうごう へいはちろう)元帥は、大日本帝国海軍軍人です。最終階級は、元帥海軍大将です。

 1848年、薩摩国鹿児島城下の加治屋町二本松馬場に、薩摩藩士の東郷実友と、堀与三左衛門の三女である益子の四男として生まれました。幼名は仲五郎、14歳の時、元服して平八郎実良と名乗りました。

1862年、薩摩藩士として薩英戦争に従軍し初陣しました。

1868年、戊辰戦争では春日丸に乗り組み、新潟、箱館まで転戦して、阿波沖海戦、箱館戦争、宮古湾海戦で戦いました。

体型は小柄ですが写真でも分かるように美男子であり、壮年期においては料亭「小松」で芸者に随分もてたとされています。

 1894年、日清戦争では、「浪速(なにわ)」の艦長として、高陞号事件(こうしょうごうじけん)に対処します。

 1904年、日露戦争では、連合艦隊司令長官として指揮を執り、日本海海戦での完勝により、海外でも絶賛されて、「東洋のネルソン(The Nelson of the East)」と呼ばれたのです。

 東郷平八郎元帥は、明治時代の大日本帝国海軍の指揮官として、日清、日露戦争の勝利に大きく貢献し、日本の国際的地位を「五大国」の一員とするまでに引き上げた人物です。

日露戦争においては、連合艦隊を率いて日本海海戦で当時世界屈指の戦力を誇った、ロシア帝国海軍バルチック艦隊を一方的に破って、世界の注目を集め、その名を広く知られることとなりました。

当時、日本の同盟国であったイギリスのジャーナリストらは、東郷を「東洋のネルソン」と、同国の国民的英雄に比して称えています。東郷元帥は、大胆な丁字戦法(ていじせんぽう)により、日本を勝利に導いた世界的な名提督です。

東郷と同藩出身者であり同じく日露戦争における英雄である、満州軍総司令官の大山巌と並び、「陸の大山 海の東郷」と称され国民の尊敬を集めたのです。

よく知られる逸話では、東郷は当初、鉄道技師になることを希望していたのです。イギリスに官費留学する際、最初は大久保利通に「留学をさせてください」と頼み込んだが、返事はもらえなかったのです。

後で東郷は大久保が自分に対して「平八郎はおしゃべりだから駄目だ」とする感想を他者に漏らしたことを伝え聞いて、自省してその後は寡黙に努めたそうです。

それが長じて、後年は「沈黙の提督」との評価を得るまでになったのです。東郷平八郎は、大久保の次に西郷隆盛に頼み込んだところ、「任せなさい」と快諾、ほどなく東郷のイギリス留学が決定したという風説があります。

日露開戦前の緊迫時期の明治36年(1903年)10月、海軍大臣の山本権兵衛に呼び戻され、日高壮之丞(ひだかそうのじょう)に代わり、常備艦隊司令長官に任命されたのです。

同年12月に連合艦隊が編成されることになると、第一艦隊兼連合艦隊司令長官に任命されたのです。

海軍大臣の山本権兵衛は、日高壮之丞(ひだかそうのじょう)に対して、「お前は連合艦隊司令長官を辞めろ」と言うと、「おいどんの他に誰が艦長になるのだ?」と怒ったのです。「司令長官は東郷どんだ!」と言うと、「う~ん、東郷どんでは仕方なかと」と言ったのです。そのくらい運のよい男です。

明治天皇に理由を聞かれた山本は「東郷は運のいい男ですから」と答えたと言われています。

明治37年(1904年)2月10日からの日露戦争では、戦艦三笠に座乗して、ロシア海軍太平洋艦隊の基地である旅順港を攻撃して、黄海海戦をはじめとする海軍の作戦全般を指揮したのです。

旅順封鎖作戦時の機雷により、戦艦初瀬、八島を失っても狼狽せずに、両艦の艦長を労い、海軍内の動揺を収めたのです。6月6日には大将に昇進しています。

そして明治38年(1905年)5月27日、ヨーロッパから極東へ向けて回航してきた、ロジェストヴェンスキー提督率いるロシアのバルチック艦隊を迎撃したのです。

この日本海海戦に際し、「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し」との有名な一報を大本営に打電したのです。

東郷元帥は艦隊に対し、「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ!」とZ旗を掲げて、全軍の士気を鼓舞したのです。

そして、東郷は敵前で大回頭を行う丁字戦法(ていじせんぽう)をやってのけ、バルチック艦隊を撃滅して勝利したのです。丁字戦法(ていじせんぽう)は、「東郷ターン(Togo Turn)」と呼ばれるようになったのです。

この海戦における勝利は、東郷元帥の名とともに、ロシアのバルチック艦隊の壊滅的敗北が世界中に伝えられ、当時ロシアの圧力に苦しんでいた、オスマン帝国においても自国の勝利のように喜ばれ、東郷は世界的な英雄となったのです。

その年に同国で生まれた多くの子供たちは、「トーゴー」と名づけられ、また「トーゴー通り」と名付けられた通りもあったのです。

東郷元帥は昔から、実に運のよい男です。東郷さんの銅像は三笠公園にあります。記念艦「三笠」へ行くと、その当時の東郷元帥の部屋、士官室がそのまま残っています。ビックリしたことは、東郷元帥は小さい人だったのです。

 靴のサイズは女性くらいのサイズです。ベッドも小さいのです。戦艦三笠は、一度見に行くとよいでしょう。ロシアのバルチック艦隊から砲撃された部屋など、そのまま残っています。

 東郷元帥の艦長室もそのまま残っていますが、小さな部屋です。小さな人だったのですが、偉大な人だったのです。どうして偉大なのかというと、バルチック艦隊との戦闘中に、最上艦橋に立って指揮を続けたのです。

 激しい砲弾が飛んでくる中、東郷元帥は身じろぎもせず、仁王立ちして指揮を取っていたのです。バルチック艦隊との戦闘が終り、大日本帝海軍が勝利すると、最上艦橋から降りたのです。東郷元帥の足元には灰が積もり、靴の足跡だけには灰が積もっていなかったのです。東郷元帥は、最も運のよい日本男児です。現在は、原宿の東郷神社に祀られています。

 

 

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