自分のblogもほったらかし気味で
おまけに人様のblogも読んでいなかった今日この頃。

ある話を聞いて
ありゃ、そうだったのか、知らなかったわ...
と思った今日。

「今月はもうなんも考えない」
って休め休めできたけども
視野を狭めて閉じ籠るのとそれは全然違う事だ。

顔を上げて見渡そう。私に見える世界を。




今日は立川で月に1度のカウンセラーズトレーニングの会だった。
また様々なものを受け取って持ち帰ってきた。

今の自分が何処にいるのか、
どんな状態なのかを確認出来る場でもある。

帰る道々にもいろんな事を考える。

「自分を大切にするとはどういう事なのか?」
は、ずっと考えている。私の大きな課題だ。




大切にしたいと思う人を大切にしたい。
でも自分を大切に出来る私でなければ
それはきっと出来ないのだろうと思う。

大切な人がピンチの時、
もしも頼ってくれたなら
しっかりと頼れる私でありたい。

いつかのワークの架け橋やゆりかごのように。

大切な人を支えられるのは幸福な事だと思う。

侵入する事と大事に思う事を間違えないように
自分をしっかり生きて、心の足腰鍛えて柔らかくいたい。



「いい人(いい子)でいよう」とする自分が一番厄介だ、
と感じているこの頃。

親や周りの大人達にとって“都合の”いい子が「いい子」だ、とされて、
それを植え付けられて育ってきてるから、なかなか抜けない。
すっかり大人になって随分経っているのにも係わらず、
周りの人を相手に、未だに
「相手にとって“都合の”いい人であろう」とする。

相手の望むようにはなれないのだ、
という答を出しても、罪悪感を感じるのは、
子供の頃に植え付けられ(未だに言われ続け)て、
自分の中で育ててきてしまった
「思い通りにならない子は悪い子だ」
からきている。

だから、人の顔色を窺う、雰囲気や空気、相手の気持ちを読む、
という癖がついてその技を磨いてきたし、
出来るだけ相手やその場の望む私であるように、
という努力を無意識にしていた。

そして疲弊して怒りを溜めていたのだ。

私の「古い人生脚本」。
自分の人生を生きるのではなく
「誰か(主に親)の思う(望む)通りに生きなければならないが、
それは私にはどうしても出来ない。
出来ない私は悪い子で、存在価値の無い人間である」
というもの。

それは実に依存的で無力感でいっぱいで
自分の中をカラカラにするものだ。
空っぽのカラカラ。
渇ききっているカラカラ。

カラカラなのが耐えられないので、
誰かで埋めようとしていた。

それが、これまでの私だった。

今は新しい脚本を手に入れて、
古い脚本から移行しようとしている真っ最中だ。

「相手の都合や望みに合わせようとしなくていい」し
「嫌なものは嫌だ」し
「嫌なものは拒否しても無視してもいいのだ」
という自分へのOKを出せるようになりたいし

...私は私にOKと言いたいのだ。


それを出来るようにする為にはどうしていくか?
どうしていきたいか?
という事を懸命に模索している最中だ。
いろいろな方法をやってみて、
自分だけの答えに辿り着きたい。

幸いなことに、先人である先生や大先輩方が
それぞれに自分らしい素晴らしいやり方を
見せてくれたり、
素敵なシェアを頂けたりする、
という恵まれた場が私には開かれている。

(今日も大きなヒントを頂いた。
技は磨いてきたのだから、
あとは自分がそれを使おうと思った時に
自分が望んだときに使える技にすればいい。)


私の生き方、やり方ってどんなだろう?
どうすればそれを知っている私を見つけられるのだろう?
どうすればその声を聴けるだろう?

まだまだまだまだ課題はたくさんなのだけど...
コツコツ取り組んでみよう。





と、思っている矢先に
自分的ワーク、キタ-...


つくづくと今日先生に頂いた言葉
「相手にわからせようとしている」
というのを痛感した。

ううう...これよ。
この、私の根本にある、
「私の気持ちをわかりやがれ!!!!!」
と地団駄を踏みたくなるような怒りの色をした甘えん坊な悲しみ。


まずはこのボロボロになってる私に
とことん付き合ってみようか...




...って、どうやって...

すごいエネルギーなんだもの...

付き合うの疲れそう...



今の私に出来るだけ。


よし。