全く夜は寝付けなかった。
…昨日、枡屋さんにあった。
それだけで、優しい、大好きな夕霧太夫を裏切ったような気がして胸が締め付けられた。
どう考えても、私なんかが傍にいてはいけないだろう。
それなのに、彼が気になって仕方が無い。そんな自分が嫌だった。
それだけじゃない。枡屋さんのことがわからなくなったのもあった。彼はただの町人?
多分、もう分からないだろうな、って思う。
きっともう会えない。
昨日はたまたま会っただけで、この前もたまたま指名が重なっただけなんだ。
掃除をすませ、部屋でぼぅ、っと下を見てなにかしら考える。
もう忘れよう…。
きっとあの人はいろんな人に色気を振りまいているんだ。
遊び人なんだ。
だけど、そう思えないくらい彼は優しくて……
「……はん」
「はぁ…」
溜息をついてもどうしようもないよね。忘れよう。本当に。
「志春はん‼」
「わっ‼」
真っ直ぐ見あげると、花里ちゃんの顔があった。
「あ…花里ちゃん、いたんだ」
「いたんだ、やあらへんて…。どうしたん?」
「ううん!なんでもないよ!」
夕霧太夫のお客様だ。絶対に昨日のことは誰にも言ってはいけない。
島原では遊女と旦那は夫婦のようなもので、太夫の旦那様は枡屋さん。
浮気をしたらもう立ち入り禁止だ。枡屋さんに迷惑がかかってしまう。
島原は恋を売る。遊女は商品。
嘘でも「会いたかった」「好きだ」を言う。
彼も、太夫に言っていたのだろうか。
…だめだ。太夫と枡屋さんは私なんかよりずっとお似合い…。
どうして、こんなに優しくするんだろう。どうして、私はこんなに…
もっと触れてほしい。抱きしめてほしい。そんな思いが、うるさいほどに頭から離れない。
危険な、甘い雰囲気。
色気漂う長い指。
大人で、上品な振る舞い。
どうして…忘れることができるか。
すると、サッと襖があいた。
そこには秋斉さんがいた。
「志春はん、今からお使いにいってくれまへんか?」
お使い?ここにきて間もない私がいけるとは思えない。絶対に迷う気がした。
「大丈夫や。大門を出て、まっすぐ行って、みっつ目の角を曲がって、ふたつ目の角にある。簡単やろ?京の町は分かりやすい。こばん目になってる」
「大門から出るんですか…」
大門に出るなんて、私みたいな女が出たら捕まると聞いた。
女郎の脱走とされるらしい。
「せっかんなんてしいひん。あんさんは預かりもんや。やからあんさんに頼んでるんやよ」
「…わかりました」
やってみようと思った。
京に慣れるチャンスじゃないか。
それに…じっとしていると枡屋さんのことばかり考えてしまう。
気を紛らわすのには丁度よかった。
「今、京の町は物騒や。勤王志士の過激派が町をうろうろしている。それでか壬生浪士組が警戒に当たっている。気をつけてな」
「浪士組かぁ。わても怖いわ…」
沖田さんも…土方さんも怖いけど嫌いじゃない。だけど、高杉さんを尋問していた。
きっと何か関係があるのではないか。
「どうして勤王志士がいちゃいけないんですか?」
「大和幸行や。ってあんさんに言っても分からんか。あんまり知らんほうがええ」
大和幸行…。そういえば高杉さんと枡屋さんがそんな話をしていた気が…。
…やっぱり枡屋さんはわからない。
すると秋斉さんは何か懐から取り出した。
何か書いた手紙…
「これを呉服屋にもって行って欲しいんや。後で駕籠で輸送してもらうで」
ああ、確かに達筆で読めないけど、箇条書きで商品の名前が書いてあるようにも見える。
「…はい!では、いってきます」
「お気張りやす」
ーーーー…
「………」
私は結局迷っていた。
「えぇっと……ん?ここみっつ目の角だよね?」
それでふたつ目の角…え?ない…。というかここ本当にみっつ目の角?戻る?いや、遠い…。
たどり着いてないだけだよ、きっと。もっと先にあるんじゃ…。
とりあえず、歩き続けていった。
ずっと、ずっと歩いていく。
「暗くなってきた…」
外は夕日で照らされる。
早くいかないと、お座敷に間に合わない。それだとみんなに迷惑がかかってしまう。
どうして、着かないの…。歩いても、歩いても見知らぬ家。
「どこ…ここ」
いつしか山奥にいた。
もう足がいたい。歩き疲れて山を登るのも困難になった。
だが、ここら辺に寺院や神社がたくさんある。
なら、人がいるんじゃないかな…。道案内してもらえば…。
少し、目を凝らして周りを見てみる。流石に、こんな時に誰もいないかな…。
ああ、もう私は何でこうなっちゃうんだろう。このままじゃ島原にかえることも…。
すると、さっ、と人影が現れた。
「ーー‼」
影だけだったから誰かわからなかったけど、とにかく呼び止めようとした。
もう、これしか帰る方法がない。必死の思いで走って、その人を追いかけた。
「あの…っ」
瞬間。なにかフワッとした感じがした。体が倒れて…
鼻緒がきれたんだ。
「きゃ…」
ーーー!
咄嗟に目をつむる。
しかし予想していた体を打ち付けられる痛みはこなかった。
誰かに…抱きかかえられている。
上品な大人の香り…。
すごく強く抱きしめられていた。
どうしてか、この温もりに何か覚えがあって…。
恐る恐る目を開ける。
目の前には綺麗な着物。
そして、男性の胸板だということが分かる。
それがわかった瞬間、一気に体が熱くなった。
「……っ!」
「…無事なようだね」
………え。
この声。
聞き間違えることのない確かな
あの人の声。その声は一瞬で体全体に響き渡った。
さっ、と顔をあげる。
「…枡屋さん」
そこにいたのは、まぎれもない枡屋さんの姿だった。いつもの格好ではなく、身分の高そうな、硬派な格好。
どうしよう…。
どうしよう。どうしよう。
すごく…すごく嬉しい。
どうしようもなく心の中が騒いで、涙が出そうで…。
よかった。本当に…。
私はぱぁっと笑顔になる。
それも束の間、目の前にいる枡屋さんは困ったように眉を下げて、信じられない言葉を吐いた。
「…人違いをされているようだ。私は、枡屋という名ではないよ」
私は言葉を失った。
どうして?こんなに似ているのに。声も同じなのに。
するとひょい、とその人の近くにいた若い人がでてきた。
「何を言っておる!この方は毘沙門堂門跡家臣、古高俊太郎さまですぞ!」
「…俊太郎さま……?」
「…そう。いかにも私が古高俊太郎だ」
嘘なのか。
それとも本当なのか。
俊太郎さまの表情からは全くわからなかった。