幼少期.8 【お母さん】 | 舞踊家 菊地尚子のブログ

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つれづれつらつら。

子供の頃から私は母のことが、
ものすごく大好きでした。

ガサツで、だらしない母なので、
部屋の照明のヒモをありえない力でひっぱってブチ切るは、味噌汁の空焚きなんてしょっちゅうでなぜ一度も火事にならなかったのか、不思議なほどでした。
(大いに濃ゆく血を引き継いでしまった私はそのままガサツでだらしない訳です。。。)


そんな母は、普段イライラしてるなぁと思うこともなく、シンプルに言えばとてもおおらかでした。

もちろん、3兄弟のケンカなどになれば大声で怒ってましたが、基本機嫌が悪いなどということは、まずありませんでした。

私は小学生の頃、おねしょ魔だったのですが、夜な夜な自分の布団をビチョビチョにしては、母の布団に潜り込んでいました。

おねしょを怒られたこともなく、そもそも「お母さんも大人になっても失敗しちゃうことがあるぐらいだからね。」と、自分のおねしょエピソードを話してくれる感じでした。


2番目の兄が0点取ってきても、母も子供の頃に経験済みだったようで笑っていたので、
私は「そうか、お母さんはバカだったんだな。」と思い、夏休みの宿題の作文に
「うちのお母さんはバカです。」と書いたら、先生から赤ペンで「尚子さんのお母さんはバカではありません。」など訂正され戻ってきたりしました。


そんな母の存在は、私の物の捉え方にとても影響していたようで、
コンクールに出るにあたっても、
「1人であんな立派な舞台を一人占めできてノビノビ踊れるね。知らない人にも踊りを見てもらえるなんてラッキーね!」的なことや、
落ちて凹んでいても、「落ちたとしても、絶対に上手くなったわー、それは間違いないよ」的なコメントをしてくるので、
本当にその通りだなぁと思い、あまりコンクールだからといって身構えたり緊張せずにトライできていました。

そして私の踊りを見て、いつも手放しに喜んでいました。それは幼少期に限らず今でもずーっとです。
「お母さんには踊れないわぁ」といった感じでした。
私の最大の応援団長といったところでしょうか。笑


海外から有名なバレエ団の公演が来てるとなれば、年に1~2度母とデートのように見に行きました。その時間が私にとっては特別な時間のように感じていました。

なので大概の有名どころのバレエ団は幼少期に見ることができました。
なにせチケットが高いので、最初は遠くの席で豆粒の様なバレリーナを見ていましたが、オペラグラスなるものがあると分かり、次回からはオペラグラスを買ってもっていったり、時には奮発したのかS席だったりし興奮しました。


毎月のお月謝の上に電車代。
それに加えコンクールに出るとなると、先生への振付料に、その当時は音楽の先生に音も作ってもらい、衣装の先生にデザインもしてもらいと、20万近いお金が毎回かかっていたので、(おっと、今705ではその4分の1程度でコンクールに出てもらっています。)
母はいつも内職をしていました。

兄達が中学入る頃は塾代もかかったのか、お弁当屋さんの配達の仕事も始めようとした所、田舎の祖母に危ないからと止められたようで、
祖母も「そんなにお金がかかるなら、バレエを止めさせなさい、コンクールも落ちたりで才能ないのだから。」と母に言ってきたそうですが、
「好きなようだから続けさせたい」といい、説得してくれたようでした。
大人になってから聞いた話です。

そんな私の最大の応援団長を、
思春期に入るととんでもない裏切り方を私はしてしまうのですが、
それはまた後日。

そんな母は、自分の長年の趣味もしっかりあり、ママさんコーラスなのですが、凝り性なので時に有名な先生に個人レッスンなどしてもらったりしているようです。
今年70歳になる母の発表会が今週末にあるので、今度はこちらが応援にいくつもりでいます。