↓地図(お寺のパンフ)
公共交通機関で行くのなら、
近鉄奈良線「富雄」駅から奈良交通バスに乗り換え、「霊山寺前」バス停に行くのがよいようですが、
私たちは、往路はGoogleマップ先生のお導きにしたがって、近鉄「学園前」駅からバスに乗り「千代ヶ丘」バス停で降り、住宅地を下りて富雄川を渡り霊山寺に行きました(復路は富雄駅を使いました)
千代ヶ丘バス停高台の新興住宅地の中にあったため、
高台から下り、古い家並みを抜けて霊山寺に向かいます
↓途中の古い家並み
富雄川に向かい視界が開けたところに
小さな祠があって
中にお地蔵さん
初めての道にワクワクしながら歩いていたら
霊山寺の文字が見えて来ました
富雄川にかかる赤い橋を渡り
お寺の受付で拝観料を払います
霊山寺境内へ
「霊山寺」の正式名称は
登美山 鼻高 霊山寺(とみやま びこう りょうぜんじ)
後日、大阪に義実家のある友人にこのお寺に行った話をしたところ、やはり「お風呂のあるお寺」として認識していました
しかし関東人の私たちは寺の名前と仏像があることは知っていても、風呂があることは知らず、ずいぶんと認識に違いがあるものだと思いました
この日は二泊三日の最終日
せっかくなのでお風呂にも入りたかったところですが、
家に猫ちゃんを残してきたという友人が家に帰る時間を気にしているのもあって、お風呂は諦めました
私たちの目的は、文化財の特別公開です
↓入口に設置された「祈りの回廊」
お寺の境内に入ります
↓参道…よく手入れがされています
↓参道脇に八体仏霊場なる新しそうな仏像が並ぶ
↓なんと!
近鉄奈良駅前の広場にいらっしゃる行基菩薩にそっくりな行基菩薩像
まるで知らない土地で近所のおじいちゃんに会ったような懐かしさ…
行基菩薩が祀られているのは、このお寺の古い歴史が関係があるためだと思います
では、ここからお寺の古い歴史を辿ってみますね
霊山寺の歴史
お寺の歴史について、いただいたパンフレット・解説本、それから現地で購入したガイド本から探ってみたいと思います
↓お寺のパンフ
解説本
有料のガイド本(1000円也)
・霊山寺のある富雄の地は、古事記では「登美の地」、日本書記では「鳥見」と呼ばれ、敏達天皇(572~585)の頃には小野家の領有地だったっそうです
(古事記と日本書紀をパラパラ見てみましたが、「登美」「鳥見」を見つけることが出来ませんでした…どこに書いてあるのでしょう??)
・遣隋使で有名な小野妹子の息子右大臣小野富人が天智10年(671)に右大臣になりました
しかし、天武元年(672)壬申の乱に関与したことで、弘文元年(672)に右大臣を辞し、登美山桧森に閑居、薬草を栽培して諸人の病を治したそうです
・富人は、天武12年(684)4月5日から21日間、熊野本宮に参篭し、満願の日に薬師如来を感得しました
そこで、登美山に薬草湯屋を建て、塼仏三尊像を祀り(実際のものとも思われる塼仏の画像を下にに載せますね)、諸人の病を治したというのです
(これで、現在のお寺のお風呂の由来がわかりました)
富人は鼻高仙人と呼ばれ、人々から尊崇されたそうです
・(少し古いですが)2009年発行の『奈良まほろばソムリエ検定の公式ガイドブック』によれば、霊山寺は養老2年(718)に、行基が創立した登美院が前身であり、寺域から奈良時代の瓦が出土すると書かれています(お寺からいただいた資料には、養老2年の行基に関する記載はありません)
・孝謙天皇の病のきっかけに関することでは次の2通りの別の話が、お寺でいただいたパンフと説明本にそれぞれ書かれています
①神亀5年(728)流星が宮中に落下した
➁天平6年(734)4月6日大地震が起こった
この①②のどちらか或いは両方を原因にして、孝謙天皇が「征中(せいちゅう)病」(胸騒ぎがする病気)になり、臥してしまったそうです
・すると聖武天皇(孝謙天皇のお父さん)の夢に鼻高仙人(=小野富人)が現れ、「わが山の薬師を祈り給へば速やかに御平癒あり」と言ったそうです
そこで、行基が代参祈願をし、孝謙天皇の病気は快癒したそうです
・同年=天平6年、聖武天皇は行基に対し、湯屋の薬師如来を祀るための大堂の建立を勅命されました(上に書いた養老2年の登美院を改装したのかもしれませんね)
・天平8年(736)には、菩提僊那(752年の東大寺大仏開眼会の導師)が来日し、登美山の地相が釈迦の聖地霊鷲山に似ているため、寺の名を「霊山寺」とするよう奏上したそうです
同年、聖武天皇から「登美山鼻高霊山寺」の名をもらい、落慶しました
・天平宝字4年(752)には菩提僊那が亡くなり、遺言により霊山寺に葬られたそうです
お寺の情報や、鎌倉以降の歴史については
↓
霊山寺HP
本堂の仏像たち
↓黄金殿・白金殿
↓本堂へ昇る石段
本堂(国宝)
鎌倉時代の建物で、外陣・内陣・脇陣からなり、折上小組格天井を持ちます
ここからは、特別公開期間中に見た仏像について書いていきます
三尊塼仏(重文、縦23.6、横19.3、厚4.0㎝)
小野富人が薬草湯屋に塼仏三尊を祀ったという縁起について上に書きましたが、
実際に同形の塼仏三尊が2枚も残っているそうです
お寺の冊子等によれば、
この塼仏三尊は初唐期の表現方法をとり、白鳳時代に移入された形式のものだそうですが…
なんか見覚えがないですか?
そうです
なんということでしょう!
↓こちらの、明日香村川原寺裏山遺跡から出土した塼仏とそっくり!!瓜二つ!!
(『飛鳥への招待』中央公論新社、142頁)
そして、この塼仏三尊は、実は川原寺だけでなく、橘寺や壺阪寺から出土した塼仏にもそっくり!
橘寺出土方形塼仏
壺阪寺出土方形塼仏
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/456267
これ、どういうこと?
パッと見た感じ、みんな同笵(同じ鋳型から造られたという意味)に見えてしまいますし、少なくともデザインは酷似してませんか?
こういった塼仏の用途はお寺の壁面に貼られていたと考えられるようですが
↓例えば、こんなイメージかしら?
壺阪寺大石堂(永代供養堂)…昨年4月に私が撮った画像です
こちらの壁面は鳳凰のデザインの同じ形のタイル(何と表現するのが適切かわからないけど)が張り巡らされています
まあ、例としては規模が大きすぎるかもしれないけど…
・次です
春日厨子と薬師三尊像
(上の厨子の中央)薬師如来坐像(重文、62㎝)
明治時代までは20年に一度開扉される秘仏だったそうで、光背・台座も当初のもの
全体的に保存状態が良いようです
顔面に残る金箔は後補なのかと思いましたが、秘仏であったことを考えると当初のままなのかも知れません(わかりません)
カヤの一木造で、像内に治暦2年(1066)十二月十四日の年紀が遺るそうです
ということは、定朝が制作した天喜元年(1053)の平等院鳳凰堂阿弥陀如来像や、定朝の没年天喜5年(1057)よりも後の制作ということになります
お寺の説明書には「彫りの浅い目鼻立ち、三日月状をしてた目瞼が切れ上がり、古風な奈良仏師の作風」が見られるとあり、また「丸いのある整った体躯、細かな螺髪の形、腕組の伸びのある安定感などには、仏師定朝の作風がみられ」とあり、奈良仏師と定朝風の混在した作風であることが書かれています
個人的な感想でが、(京都を中心に流行した)定朝様とは少し趣が異なり、むしろ定朝より前の雰囲気があるように思います
そこが「古風な奈良仏師の作風」ということなんだろうと思います
日光菩薩立像(下の写真の向かって右、重文、87.7㎝)、月光菩薩立像(同向かって左、重文、86.8㎝)
薬師三尊の脇侍の2体で、ともに厨子内に安置の秘仏
しかしこちら2体は、中尊薬師がカヤの一木造であるのに対し、ヒノキの一木割矧だそうです
また、光背は、3体共にヒノキ製の板光背だそうです
(だとすると、中尊のカヤ製の薬師如来の本体だけ違う用材になる…)
板光背は奈良を中心とした平板で彩色のある板状の光背をいいます
この板光背について、お寺の説明(やそれをコピーしたと思われる複数の方のブログ)によれば、
「脇侍光背の左右下端に各三体ずつ配した十二神将が描いてあり、十二神将の絵画作例として最も古例に属するもの」と書かれています
私はこの説明を頼りに、日光月光の板光背の画像の「左右下端」と思われる部分を探しているのですが、該当する十二神将の絵をどうしても見つけることができません
一体どこにそのような絵が隠されているのでしょうか?
ご存じの方、ご教示ください
次は
十二神将立像(重文、76㎝、弘安年間(1280前後))
本尊薬師如来立像の護法神です
木像彩色、ヒノキ寄木造
弘安年間の制作とすると、平安後期(1066年銘記)制作の本尊薬師如来像より2世紀も後に造られたということになりますね
はい、次
阿弥陀如来坐像(重文、83㎝、12世紀)
もとは、阿弥陀堂の本尊だったそうです
カツラ材の割矧ぎ造
来迎印を結んでいます
阿弥陀の印相は、転法輪印→定印→来迎印と流行が移ります
来迎印を結んだこの像は、表情に覇気がなく、平安末期かと思われます
唇に赤い色が残り、もともとは優しい表情(やる気なくても)だったと思います
ところで、この阿弥陀像と次に取り上げる大日如来像、どちらも本体に対して台座が小さくない?気のせい?
大日如来坐像(重文、112㎝)
ようやく、1メートルを超える像が出てきました
この大日如来像は木像漆箔で、もと大日堂の本尊と伝えられるそうです
智拳印を結んでいるので金剛界の大日如来です
上の阿弥陀のところにも書きましたが、本体に対して台座が小さくないですか?
しかもこちらは、若干ずり落ちそうな気もする
お像自体は優美で、引き締まった表情をしておられるように見えます
銅製の胸飾りがオシャレで(欠けてるのが残念)、画像ではよくわからないけど緑色のガラス玉が据えられているそうです
額には水晶の白毫が付けられているように見えます(後補かな?)
次
十一面観音立像(重文、82㎝)
おっさん度高め、インパクト大の十一面観音像の登場です
この像はカヤの一木で、唇の朱、目・髭の墨書き以外は無彩色素地仕上げの檀像彫刻だそうです(前の大安寺の記事でも書きましたが、本来、白檀系で作るところを日本で入手できるカヤ材で代用した檀像彫刻ということになります)
右肩から胸にかけての部分に節(フシ)が込められているようです
この顔の怖い表情といい、フシといい、何か呪術的な意味があるのかもしれないですね
このコワモテの、おっさん度高めの顔面だけでもインパクト大ですが、
実は全身のバランスを見るとさらにびっくりします↓
(副島弘道『日本の美術4 十一面観音像・千手観音像』、36頁)
あれ?頭デカくない?(てか、足短くない?)
全身で86㎝しかないのですが、首から上の長さの比率が「どんだけ~」
(比較したらかわいそうですが)同じ十一面観音でも
↓このように美しい十一面観音像もこの世にいらっしゃるわけで…
渡岸寺十一面観音像
何だか、人間界の不条理ならぬ、十一面観音界の不条理を感じてしまいます(ほっとけ~)
「どーせ彫るなら、渡岸寺みたいに彫ってよ~!」という心の叫びが聞こえてきそうですね
はい、次です
毘沙門天像(重文、68㎝、12世紀)
なんとこの像は珍しく桐材で(防虫効果抜群)、邪鬼まで一木だそうです
(直接関係ありませんが)桐材といえば、奈良の矢田寺の地蔵菩薩を思い出します
そして、次
持国天立像(重文、120㎝、弘安年間)
何故か、顔面のどアップ写真しか説明書に載せられていなかったので、全身像をお見せすることが困難だし、よく覚えてもいないのですが、
彩色のヒノキ材のようで、玉眼がギョロギョロしています
上の方にあげた十二神将と時期が一致するので、もしかすると持国天・多聞天と十二神将が1セットだったのかな?とも思いますが、詳しいことはわかりません(ひょっとしたら、増長天・広目天もあったのかもね)
多聞天(同上)
多聞天に至っては、横顔のドアップ写真しかないため、全身どころか、正面がどんな顔なのかもよくわかりません…
横顔を見る限り、表情が豊かで奥行のある顔面で、腕の良い仏師さんによって彫られた像のように思います
澄んだ瞳(玉眼)が、怒りの中にも誠実さを滲み出させているような印象を受けます
持国天の顔の表面がバリバリに塗られたものであるのに対して、多聞天は木目が顕わで、この二像がもともと対だったのかちょっと気になります(何しろ入手できた画像がドアップすぎて、私の記憶からも飛んでしまっていてよくわからない)
次は、
地蔵菩薩立像(重文、80㎝、康元元年(1256)銘記)
80㎝と小振りながら、端正ですらりとしたお地蔵さまです
ヒノキの寄木造、彩色像で、光背・台座・錫杖も当初のものだそうです
このお地蔵さまの衣文を拡大すると、
↓こんなに華麗で繊細な截金模様が施されています
さりげなく、このようなお地蔵様がいらっしゃるなんて、
すごいお寺です
最後に
外陣に掛けられていた
↓薬師三尊懸仏(重文、径98.7㎝、貞治5年(1366)背面墨書)
小振りな仏像が多い中、外陣に懸けられたこの懸仏は径が1メートルもあり、「大きいな」という印象を受けました
ヒノキの板に銅板を貼った円形鏡板面に銅製の薬師三尊があらわされています
本尊薬師三尊が秘仏だったため、御前立の性格をもっていたと考えられるそうです
鏡の面に神仏を取り付ける「懸仏」は本来、本地垂迹の考えに基づき、神様の真の姿としてあらわされたものです
その考えと、薬師如来の御前立的な性格との関連性が(果たして矛盾しないのか)気になりますが、どうなんでしょう?(わからんのかい!)
…と、仏像の話が最後にはナゾの状態で終わることになりました
ついで(と言っては申し訳ないが)、本堂以外の場所の写真も少し載せてみます(なにしろ猫が気になり速足でしたが)
三重塔
青空に映えますねー
小振りで、浄瑠璃寺の三重塔と似た印象でした
内部の公開はありませんでした
バラ園
ここだけ見ると、こじゃれた公園の中のバラ園のようです
バラがきれいでした
で、もはや猫の鳴き声の幻聴が聞こえる友人に促され、霊山寺前からバスに乗り、
近鉄富雄駅で乗り換えました
猫の飼い主はそのまま急いで東京に帰り、
残された私たちは近鉄奈良駅近くでランチの後、解散したのでした
(後日、何度か飲み会してますが、それは別の話です)