2023年3月4日 JR東海が主催、奈良県・奈良市等が後援する奈良学文化講座「蘇我氏の栄華、蘇我四代の軌跡をたどる」に参加しました
午前中は、畝傍御陵前にある奈良県社会福祉総合センターで関西大学文学部教授 井上主税さんの座学講座がありました
その内容は、ご専門の朝鮮考古学の立場から東アジア情勢も加味し、蘇我氏の4代の軌跡を辿るものでした
(参考 井上主税「大和地域の百済系渡来人の様相ー5・6世紀を中心に」『都市と宗教の東アジア史』勉誠社、2023)
午後は、現地散策講座
明日香村教育委員会 西光慎治さん 長谷川透さんの説明を無線の受信器で受けながら飛鳥の各地を回りました
散策の経路は
甘樫丘→甘樫丘遺跡群→(飛鳥寺と飛鳥寺西方遺跡→)飛鳥宮跡苑池→飛鳥宮跡→島庄遺跡→(石舞台古墳)→都塚古墳(塚本古墳、坂田寺跡)
それぞれの場所で蘇我氏にまつわる話を聞きましたが、回る順番と歴史的な時系列が違っているので、具体的な散策の内容に入る前に蘇我氏4代について順番に整理しておきたいと思います
なお、この記事は講座の内容を中心に書いていますが、適宜(気分で)私が万葉歌等を補足して書いています(また、余計なことを…とか言わないでくださいな)
蘇我氏4代について
蘇我氏4代すなわち稲目・馬子・蝦夷・入鹿は、飛鳥宮を取り囲むように邸宅・寺・墓を築きました
ここでは文献と、発掘から推定される邸宅・寺、墓地の場所を整理しておきます
①蘇我稲目
文献
稲目は宣化元年(536)大臣に任命され、欽明即位時に大臣に再任されます
邸宅・寺院
欽明13年(552)に仏教が伝来すると積極的に受容し、
仏像を「小墾田(おわりだ)の家」(甘樫丘のすぐ北、現在の豊浦付近)に安置、
「向原(むくはら)の家」を寺としました(現在の向原寺=豊浦寺、下層から6世紀後半の柱穴や石組溝が検出)
欽明23年(562)には拠点である「軽(かる)の曲殿」に高句麗の女性2人を住まわせました(「軽」は旧山田道と下つ道の交差するところで交通の要衝)
❶天皇の外戚となる
稲目は、娘を欽明・用明天皇の妃とするなど、天皇の外戚として政権内での勢力を強化しました
↓蘇我稲目の外戚関係
❷渡来系知識層(特に東漢氏)をバックにつける
5世紀後半、百済から渡来した手末才伎(たなすえのてひと)たちを、東漢直に命じて、上桃原・下桃原・馬神原(まがみがはら)の3か所に住まわせました(雄略7年)
稲目の時代には、王辰爾が屯倉の開発を行ない、
馬子は司馬達等(しばたっと)とともに仏教興隆を推し進めました
飛鳥寺造営では百済からの技術者集団が携わりました
蘇我氏は知識層である渡来系集団をバックにし、勢力を伸ばしたのです
檜隈を中心とした東漢氏は阿知使主(あちのおみ)を始祖とし、渡来系集団をまとめる役割を果たしました
座学で、井上先生の説明によれば、
渡来系集団は従来、韓国系と考えられていたそうですが、最近の発掘調査によりミニチュア炊飯器・釧・指輪・横穴式石室などの特徴を持つことがわかり、(韓国系ではなく)中国系百済人やその子孫であることが明らかになったそうです(詳しくは上にあげた論文を読んでください)
墓
稲目は570年に没しましたが、墓は五条丸山古墳と都塚古墳の2説があるそうです
今回の飛鳥散策では、都塚古墳を訪れました(後述)
都塚古墳↓
馬子の墓である石舞台を見下ろし、吉野・多武峰に抜ける交通の要衝で、飛鳥川の水利権を把握できる場所にあります
➁蘇我馬子
文献
敏達・用明・崇峻・推古の4代の天皇の大臣
587年に廃仏派の物部守屋を滅ぼし崇峻天皇を擁立し、また592年には東漢直駒に命じて崇峻天皇を暗殺して推古天皇を建てる等、専横を極めました
邸宅・寺院
584年、石川の家に仏殿を造りました(「仏法の初め」日本書紀)
これが石川精舎と言われ、現在の石川町にある本明寺がその跡地とされるようです(遺構・遺物は見つかっていないそうです)
587年に真神原(まがみのはら)に法興寺(飛鳥寺)発願
翌年には百済から仏舎利、僧、寺工、鑢盤博士、瓦博士、画工が来日し、
鞍作鳥により飛鳥大仏が制作されました
↓真神原
甘樫丘からの遠望(飛鳥寺方向)
馬子は厩戸皇子と共同執政を行い仏教を熱心に受容しました
626年には、飛鳥川傍に邸宅を構え、庭園の池に島があったことから「嶋大臣」と呼ばれるようになりました
この場所は島庄遺跡(後述)にあたるとされています
島の庄あたり(石舞台古墳の駐車場)
墓
馬子は「桃原墓」に葬られたとされ、これは現在の石舞台古墳が該当するとされています
③蘇我蝦夷
文献
蝦夷は馬子の後を継いで大臣となり、推古天皇の後舒明天皇を擁立しています
邸宅
蝦夷は豊浦に邸宅を構えたことから、豊浦大臣と呼ばれました
また、甘樫丘の頂上に邸宅を構え「上の宮門(うえのみかど)」と呼ばれました
これに対し、蘇我入鹿は甘樫丘の麓に邸宅を構え「谷の宮門(はざまのみかど)」と呼ばれました(次の入鹿のところで再度取り上げます)
墓
642年には、今来(いまき)に自分と入鹿の墓を造り、大陵・小陵と称しました
この親子2つの墓については、
・小山田古墳(最近発掘された)と菖蒲池古墳
・五条野1号墳と2号墳
などの説があるようです(さて、どちらでしょう?←わからん…)
↓甘樫丘とその南に隣接する小山田古墳と菖蒲池古墳
④蘇我入鹿
ようやく入鹿です
散策に行く前に疲れてきましたが、頑張りましょう
文献
643年に蝦夷から大臣を継承しますが、
聖徳太子の血をひく山背大兄王の上宮王家を滅ぼします(やりすぎ)
645年、乙巳の変で中大兄皇子と中臣鎌足に殺害され、蘇我本宗家は滅亡
その後、傍系である蘇我倉山田石川麻呂が右大臣になり、蘇我倉家が蘇我氏の代表となります
邸宅
蝦夷のところで言及しましたが、入鹿は甘樫丘の麓のどこかに邸宅を構え、
「谷の宮門(はざまのみかど)」と呼ばれました
甘樫丘の麓は、掘れば何かが出てくるそうです(後述)
墓
蝦夷のところで書いた通り、入鹿は蝦夷とともに「大陵」「小陵」と称する墓に葬られています
一体どこなのでしょう?
…というわけで、壮大な前置きはここまでにして(疲れた)、
ここからは明日香村の現地散策の画像とともに、説明された内容をできる限り再現していきたいと思います
それから、万葉歌もちょっと入れちゃったりするかもしれませんが、どうぞお許しを!
散策講座
↓今回のルート
立寄りポイントは、①~⑤までの5か所です
↓散策講座の集合場所は飛鳥バス停(シャトルバスが出ていました)
お昼過ぎ、快晴
この日の参加者は、300人くらい(と聞きました)
甘樫丘の麓の広場に向けてバラバラと移動します
↓飛鳥川の橋を渡ったところ
↓甘樫丘の手前
↓右折
甘樫丘の北側の麓の小径に入り、この広場でいったん集合
立寄りポイント①甘樫丘展望台へ
↓甘樫丘の頂上めがけてスロープを登る
この丘は地元では「豊浦山」と呼ばれるそうで、佐藤栄作元総理がここに来た時から
「甘樫丘」と呼ばれるようになったそう(それって、歴史全体から見たら「ごく最近」じゃん)
甘樫丘の頂上には、蘇我蝦夷の「上の宮門」がありました
ここからは、足下に豊浦、西は軽・石川方向、東は飛鳥寺のある真神原から馬子の邸宅のあった島庄方向が見える見晴らしの良い丘で、しかも交通の要衝でもある好立地な場所です
蝦夷の物件選び、さすがですね(上り坂が難点か?)
↓頂上から東、真神原方向
集落の中に飛鳥寺、左手のこんもりしたところが飛鳥坐神社
真神原といえば
万葉集巻8-1636 舎人娘子
大口の真神の原に降る雪はいたくな降りそ家もあらなくに
↓今度は西方向
一番奥が二上山、次が畝傍山、石川池(剣池)(宅地化してよく見えない)、和田池
↓北方向
遠くに耳成山、天の香具山、足元に古宮遺跡(推古天皇小墾田宮跡)、豊浦あたり
↓聴衆でごった返す甘樫丘頂上(蘇我氏もびっくりポン!)
立寄りポイント②甘樫丘遺跡群へ
↓甘樫丘を下りて、次の目的地である甘樫丘遺跡群に向かいます
↓車道をはずれ、山道に入ります
↓桃?の花が咲いていました
↓甘樫丘遺跡群(の一部)に到着
棚田状になった山間の遺跡です
民有地で畑として使われているそうです
この遺跡群は明日香村教育委員会が発掘を行った場所です
この場所の説明をされていた長谷川透さんは発掘当事者なので、お話がとても面白かった!
配布資料の地図で確認すると、大きな楕円で囲まれたところが甘樫丘遺跡群
その下にある、甘樫丘東麓遺跡群は奈文研が発掘を行っているそうです
甘樫丘遺跡群→明日香村教育委員会
甘樫丘東麓遺跡→奈文研
という分担のようだ
この場所の棚田は全部で5段あり、
昨年は、1,3,5段目にトレンチを入れて調査を行ったそうです
↓1段目
地面の盛り上がったところがトレンチを埋め戻したところ
ここを2mほど掘ったところで、天武・持統朝頃の土器が出土したそうです
さらに掘り進めれば、飛鳥時代の遺物が出そうでしたが、トレンチの幅が狭いため、危険と判断しストップしたそうです(もっと掘ればよかったのに!と外野は無責任に思ったりした)
↓一段高いところから蘇我氏の気持ちになって真神原を眺める人たち
↓この場所からは真神原が良く見える
↓岡寺、島庄のある方向までよく見える
甘樫丘の頂上からはもちろん、麓にあるこの場所からも飛鳥京があった真神原が良く見えていました
蘇我氏がここに「谷の宮門」を建ててもよさそうです
しかし!
実際に発掘をした長谷川さんによれば、
「この谷は入鹿の邸宅としては狭すぎる」とのことでした
どれだけ狭いのか?
↓黄色い◯で囲んだところがこの場所
↓写真で見るとわかりやすいかな?やっぱり狭いね
さらに、長谷川さんによれば、最近の調査で(マスコミにこれから出る予定ですが、関東地方までは届かないかもしれないそうです)、
ここより南側のある場所から、飛鳥後半の掘立建物が確実に1つ、加えて石列と奈良時代の木棺墓も見つかったそうです
また、奈文研が発掘している甘樫丘東麓遺跡からは、
7世紀の遺構が濃密に展開し、焼けた部材が出土したそうです
そのため、こちらも「谷の宮門」の有力候補地であるとされるようです
しかし!
長谷川さんによれば、こちらからは飛鳥京跡が見えづらく、「谷の宮門」とするには疑問であるそうです
(これはもう、明日香村教育委員会と奈文研の競争なんじゃないの?)
いずれにしても、このあたりのどこかに「谷の宮門」があったと考えられるそうで、
それは一体どこなの?教えて?
…というわけで、若干モヤモヤしながら甘樫丘遺跡群を離れ、次の場所に移動します
立寄りポイント③飛鳥宮跡へ
↓飛鳥川を渡り、道路を渡る
飛鳥宮跡に行くために、飛鳥寺方向へ歩いていると
↓日本一素敵な地名「奈良県高市郡明日香村飛鳥」の地名表記を発見
あのー、すいません
この道標、私にも一ついただけませんか?
わが家の表札にしたいと思いますので…
↓ホント、何歳になっても、何回来ても、好きが止まらない場所
飛鳥の中心の通りを歩いています(この道の名称は「橿原神宮東口停車場飛鳥線」らしい←若干違和感)
正面の山が飛鳥坐神社(「おんだ祭」は疲れすぎて二度と行く気がしない)
↓飛鳥寺の表示のところで南に右折
↓好きな場所が詰まった道案内
あのー、
こちらも私に一つくださいませんか?
わが家の表札にしますからっ!
↓飛鳥寺
言わずと知れた日本最古の本格的伽藍を持つ寺院です
もともとは中金堂・東金堂・西金堂が塔を囲む伽藍配置でした(現在は中金堂のみ)
↓飛鳥寺の伽藍配置
(『飛鳥・藤原京の謎を掘る』56頁)
飛鳥寺の三金堂を持つ伽藍配置の起源について、
従来は高句麗の清岩里廃寺などとの類似が指摘されていたそうですが、
最近では百済起源説もあるそうです
というのも、百済で多く見られる四天王寺式の伽藍配置に付属した建物が三金堂の起源と考えられるそうで、さらに飛鳥寺の瓦(花組、星組←まるで宝塚)も百済のものと似るのだそうです
飛鳥寺の花組、星組の瓦
(「奈文研ニュース」No.33、2009.6、4頁)
飛鳥寺はこの日のコースに含まれていませんでしたし、「初めて飛鳥に来た」という人もいて、
列の先頭は飛鳥寺に目もくれず(なんということでしょう!)、どんどん先に進んで行ってしまいました
が、しかし、
↓多くの人々は列を離れ、飛鳥寺とその西側にある蘇我入鹿の首塚のあたりをうろうろする(そりゃ、スルーできないわ)
↓入鹿首塚
(鎌倉時代の五輪塔)
↓飛鳥寺西門跡の説明板
説明板は撮りましたが、広場を撮りそびれてしまいました(慌てていた)
皇極3年正月、ここ「槻の木の下」の広場で蹴鞠で中大兄皇子と中臣鎌足が出会い、クーデターの計画が立てられました
乙巳の変の始まりです(おーい、見ないのか―い!)
脱線組を残し、列はどんどん進んで行ってしまいますが、
ソレニモマケズ、甘樫丘遺跡群を眺める↓
あちらからこちらが良く見えたように、こちらからもあちらが良く見える
宮殿を見張る蘇我氏の勢力もすごいもんだ
↓待ってくれー
300人中280番くらいのところを歩いています
↓田んぼを見ていると、万葉集の歌を思い出します
万葉集巻19-4260 大伴御行
「大君は神にしませば赤駒の腹這ふ田井を都となしつ」
672年の壬申の乱の後(なので蘇我氏と関係ないけど)、大伴御行が天武天皇の浄御原宮を讃えた歌ですが、馬の這う田んぼを都としたというその田んぼはこのあたりかもしれませんよね(知らんけど)
立寄りポイント③飛鳥京跡苑池
↓飛鳥京跡苑池にある休憩舎に初めて行きました
2016年に建てられたそうです
↓ここからも甘樫丘遺跡群が良く見えています
皆さん、蘇我氏から見張られていますよ
↓北方向には小石で囲まれた区画が見えます
↓この石は苑池の跡を示しているようです
(『飛鳥への招待』135頁)
飛鳥京苑池は蘇我4代とは時代がずれますが、斉明朝から整備されはじめ天武朝で最も整備されたそうです
真神原の中心部に位置しています
1999年に橿考研が発掘、2003年には国の史跡名勝に指定、
世界遺産の候補として来年から工事が始まり公園化される予定だそうです
上の図でもわかるように、この苑池遺跡は北池と南池、それらをつなぐ渡堤から成ります
大正5年には「出水の酒船石」が発掘され(現在京都東山の野村別邸碧雲荘にあるそうです)、これを手がかりとして発掘が実施され、大型の石造物が見つかったそうです
大型の石造物は水を通す穴が空いたもので、南池から発見されました
南池は、飛鳥時代の石組方形池とは異なり、石組で護岸された池の底に平らに石が敷かれ、池の中には島状の石積みと曲線的な形状の中島がある、これまで見つかったことのないタイプの池だったそうです
これに対し、北池は深く、階段状の護岸と導水施設、綺麗な石敷き、船着き場を持つ池だそうです
そしてこの石敷きが、東にある酒船石直下の亀形石造物の石敷きにそっくりなんだそうです(ただしこちらには亀はいない←)
そのため、北池では「水の祭祀」が行われていたのではないか?と考えられているそうです
池の水はここより南の島庄から飛鳥川の水を取り、南池→北池と流された後、再び飛鳥川へ戻されたそうです
この苑池は、685年に天武天皇が行幸した「白錦後苑」の一部の可能性が指摘されているそうで、水の祭祀以外にも、迎賓館、薬草園(薬草名の木簡出土)、動物園(骨は見つかってない)の役割を果たしていたと考えられています
天武天皇がこのような巨大な施設をつくったのは、東アジアと対等にという意図があったためと言われています
↓出水の酒船石(レプリカ)
本物は京都、レプリカは飛鳥資料館入口にあるそうな…
(この写真は『飛鳥・藤原京の謎を掘る』から、また飛鳥京苑池についての記述はこの本の134~136頁も参照しました)
↓苑池から北には飛鳥寺、その西には甘樫丘があります
飛鳥の都と蘇我氏邸宅・寺の近さが実感できます
立寄りポイント③(その2) 伝飛鳥板葺宮跡
飛鳥京跡苑池から南に行ったところに、伝板葺宮跡があります
↓もう到着している人たちがいる!
私が到着した時には、すでに入り込む隙間もありませんでした
↓井戸の跡を囲んでいます
↓2014年の自分のブログから拾った板蓋宮の写真
この場所は1972年に国史跡に指定されました
指定名称は「伝飛鳥板蓋宮跡」
(現地での説明を少し補足すると)
1960年からの橿考研の発掘により、この場所には重層的に宮殿の遺構が重なっていることが明らかになっています
↓「宮の変遷」をまとめた表の中で、ピンクの線を引いた宮が
この場所に置かれた
(『飛鳥・藤原京の謎を掘る』18頁)
ここには、舒明天皇、皇極天皇、斉明天皇(皇極の重祚)、天武・持統天皇の宮殿が下から順番に重なっています
橿考研の発掘では、複数の遺構が重なっていることがわかり、Ⅰ期(7世紀前半)、Ⅱ期(7世紀中頃)、Ⅲ期(7世紀後半)の3つの遺構に区分することが出来たそうです
これを、歴代の宮と照らし合わせると、Ⅰ期が舒明天皇の飛鳥岡本宮、Ⅱ期が皇極天皇の飛鳥板蓋宮、Ⅲ期は途中で改変されていることからA・B二つに分けることが出来、Ⅲ-A期が斉明天皇の飛鳥後岡本宮、Ⅲ-B期が天武・持統天皇の飛鳥浄御原宮に当たることがわかりました
遺構が最も良くわかっているのは(当然ながら)一番上の層の飛鳥浄御原宮で、
掘立式建物であり、瓦は出土しないことから檜皮葺・板葺きの屋根だったと考えられ、伝統的な宮殿建築であったことがわかりました
(寺院建築の特徴は、朱塗り・瓦葺き・礎石建ちと全く対照的です)
現在見ることができる井戸の跡は、推定図の内郭のどこか(どこ?)
また、乙巳の変のあった正殿も推定図のどこかにあるはず(どこ?)
乙巳の変で討ちとられた入鹿の亡骸は、見せしめのために雨の中ムシロでさらされたといいます(首だけビューンと飛鳥寺の首塚まで飛んでったということでしょうか?)
首が飛んできた飛鳥寺は皮肉なことに蘇我氏の拠点でしたが、ここに中大兄皇子は陣を築いていました
蘇我氏の専制から天皇中心の政治へと政治体制が変化した画期的なできごとはまさにここを舞台としたということです
エビノコ郭
上の推定図にも飛び地のように描かれた「エビノコ郭」はⅢ-B期の建物で、その用途は天武天皇の大極殿説、朝堂説、天武天皇の殯宮説等があるようです(「エビノコ」はこの場所の地名らしい←かわいい地名)
↓エビノコ郭
ところで(脱線)
私が高校2年の夏休みにハマった本には、今とは違う場所が「浄御原宮跡」とされています
↓保育社カラーブックス4『飛鳥路の寺』杉本苑子・入江泰吉共著
私の生涯にわたる「奈良大好き」のきっかけとなった本
この本の中にある地図(高校2年の私がごちゃごちゃ書き込んでいる)
拡大すると、浄御原跡と板蓋宮跡が別の場所に書かれています
↓この本に載せられた板蓋宮の写真はまだ発掘中
↓浄御原宮跡は、「雷丘の南の小学校」の校庭と考えられていた
この小学校は、たしか「飛鳥小学校」だったかと思います…現在は「水落遺跡」があるあたりだと思いますがどうでしょう?
田んぼが広がる「浄御原宮跡」の写真
ついでに、もう一枚載せちゃいます
↓飛鳥寺と入鹿首塚(大して整備されていないけど、このくらいが良かったなあ)
さて脱線はこのくらいにして、伝板蓋宮跡遺跡を離れましょう
次に向かうのは、石舞台古墳の駐車場です
出発!
↓細い道をゾロゾロ進みます
石舞台の駐車場に到着
立寄りポイント④石舞台駐車場
なんとここが、蘇我馬子の邸宅跡「島庄」です
以前は高市小学校があったところで、今では立派な駐車場になってます
(まったく、石舞台は来るたびに垢ぬけるわ)
駐車場の入り口方向を見ると警備員が立っています↓
この警備員の後ろに見える土手が島庄遺跡の方形池の角に当たるんですって!
↓島庄遺跡の方形池
(当日資料)
この方形池、あの末永先生が近くのお店で食事をしていた時に見つけ発掘したところ、吉野の宮滝遺跡と同じ石敷きの遺構が出てきたそうです
最近では平成16年から明日香村教育委員会により発掘が行われたそうです
方形池は一辺が約40m、深さ2m
日本書紀推古34年(626)五月条には「嶋大臣」(馬子)が
「飛鳥河の傍に家せり。乃ち庭の中に小なる池を開れり。仍りて小なる嶋を池の中に興く。故、時の人、嶋大臣と日ふ」とあり、それがこの場所に当たります
実際に、飛鳥時代の掘立建物群が出土、馬子の時期の建物群と考えられています
隣接する石舞台古墳は馬子の墓です
つまり、邸宅と墓がセットとなっているのです
…ということは、蝦夷・入鹿の場合、邸宅があった甘樫丘とセットとなる墓はどこかというと…小山田古墳と菖蒲池古墳か?ということになるようです
面白いですね~
万葉集で嶋の宮を詠んだ歌は
巻2-170
嶋宮勾(まがり)の池の放ち鳥人目を恋ひて池に潜かず
草壁皇子の挽歌の一つです
島庄は乙巳の変で蘇我本宗家が滅んだあと、草壁皇子の宮として活用されました
「勾の池」とは、まさにあの方形池?
石舞台古墳自体はスルーして、都塚古墳に向かいます
飛鳥の奥へ奥へ
道標(ピンとこなかったけど)
見えてきた!
立寄りポイント⑤(ラスト) 都塚古墳
こんもりとした小ぶりの古墳で、戦時中はサツマイモ畑だったそうです
この古墳は、蘇我稲目の墓と考えられるそうです
7世紀初めの特徴とされる横穴式石室があり、内部は天井はドーム型
飛鳥では天皇陵に匹敵する大きさの家形石棺(家形石棺は6世紀後半の特徴だそうです)が置かれています
内部に入ることができました
中は真っ暗!
↓めくらめっぽう撮った画像には、家形石棺が写っていました
石棺の内部が写ってる?
突き当たりと思って、立ち上がったら、
↓家型石棺の屋根に頭をぶつけました
とても窮屈でしたが、
↓なんとか石棺をぐるりと回って外へ(黄泉の国に出そうな感じ)
↓次に墳丘に登る
この墳丘はもともと一辺40mの積み石による多段築で、当初は7段以上のピラミッド型だったそうです
途中、高取藩の大名行列で一部が削り取られたそうです
↓古墳に並ぶ列がどこまでも続いてるのが見えた
この写真は石舞台方向を見下ろす方向と思いますが、
石舞台より都塚古墳は13m高い場所にあり、石舞台古墳から見上げることが出来たそうです
馬子の石舞台古墳が造られた時、周囲の多くの古墳は壊されたそうです
しかし、この都塚古墳は壊されなかった
石舞台古墳が都塚より低い位置に造られたこと、その際、都塚古墳を壊さなかったことから、
都塚古墳の被葬者は権力者馬子と血縁的関わりのある者であることが想定され、
それは蘇我稲目だ!
という結論に達するようです
↓地勢的にみると、
島庄や都塚古墳は、両側から山がせまる狭い谷間にあり、
また吉野と多武峰と飛鳥を結ぶ交通の要衝です
同時に、飛鳥川の水利権を押さえることのできる場所でもあります
さらに、都塚古墳の近くにあった坂田寺は、渡来人司馬達等が継体16年(526)、草堂を造り仏像を安置したとされる寺です
538年の仏教公伝より前の時期です(司馬達等の孫は鞍作鳥で飛鳥大仏の制作者)
↓都塚から見たこの景色のどこかに坂田寺跡がある(どこだかわからーん)
坂田寺の周囲は、知識層である渡来人がいる重要な場所でもありました
このような重要な場所に蘇我氏はいち早く目をつけ飛鳥の覇権を掌握したのでした
まとめ
話が長くなりましたが、蘇我氏4代ということで軽くまとめます
蘇我稲目
仏教受容に積極的で知識階級である渡来人を周囲においた
邸宅・寺…軽(交通要衝、高句麗女性)・小墾田(仏像安置)・豊浦(向原)
墓…都塚古墳(吉野・多武峰へ続く交通要衝、司馬達等の坂田寺近く)
蘇我馬子
権力掌握、厩戸皇子と共同執政
邸宅・寺…真神原に法興寺(飛鳥寺)、島庄(嶋大臣)
墓…石舞台古墳
蘇我蝦夷
邸宅・寺…豊浦に邸宅(豊浦大臣)、甘樫丘頂上(「上の宮門」)
墓…「大陵」(小山田遺跡?)
蘇我入鹿
山鹿背大兄王を滅ぼす(やりすぎ)、乙巳の変で蘇我本宗家滅亡
邸宅・寺…甘樫丘の東(「谷の宮門」)
墓…「小陵」(菖蒲池古墳?)
(もちろん諸説あるかと思いますが、 この日の説明を中心にまとめています)
蘇我氏は4代にわたり、
飛鳥宮を取り囲むように、
北は飛鳥寺、南は島庄、そして甘樫丘からは王宮を見下ろす形で、飛鳥を空間的に支配してきました
その具体的な様相が今回の現地講座で良くわかり、
全くなじみのなかった都塚古墳にまで連れて行ってもらえたことは、
とてもとてもうれしい経験となりました
このブログは、当日の座学と現地講座で聞いた内容を中心に書かせていただきましたが、私の知識が足りないため、東アジア情勢まで書くことが出来ず、その他にも理解不足のところがあるかと思いますが、どうぞご了承のほどお願いします
参考資料
・当日の座学、現地講座のレジメ
・千田稔・金子裕之共編著『飛鳥・藤原京の謎を掘る』文栄堂、2000
・『飛鳥への招待』中央公論新社、2021
・別冊太陽『飛鳥 古代への旅』平凡社、2005等
調子に乗って書いたら、何度も文字数制限に引っかかり難儀しました
書籍のリンクも貼れませんでした