前回、最後にあげた写真は、竹ノ内環濠集落↓
本記事は、ここから先の記録です
果樹園
南方向にてくてくと歩きます
相変わらず、秋晴れの良い天気です
道の左右は、みかんなどの柑橘類🍊や柿🍑…と果樹園の中を歩いているような感じです(『いやいやえん』を思い出す←古い)
↓この柑橘類🍊はなんだろう?
大和(萱生)古墳群
果樹園の中を進むと、いつの間にか大和古墳群(萱生古墳群)に入っていました
↓現地案内板
↓拡大(古墳ゾロゾロ)
大和古墳群は、古墳時代前期前半、初期大和政権の大王とその構成員の墳墓を中心に構成されているそうです
上の説明板(令和4年3月)には、大和古墳群が次の2つに分類されることが書かれています
サマリーを書き出してみますね
❶南側の中山支群(南側丘陵上、前方後円墳のみで構成)
該当するのは、
中山大塚古墳、西殿塚古墳(衾田陵)、東殿塚古墳
また、同じ尾根筋上で累代的な築造が考えられているそうです
(はなこ注・このあたりが柿本人麻呂の妻が葬られた「衾道(ふすまじ)」←あとで出てきます)
❷北側の萱生支群(北側の緩やかな斜面上、前方後円墳・前方後方墳・円墳から構成)
該当するのは、
ノムギ古墳(最古級大型前方後円墳)、波多子塚古墳、下池山古墳
これから進むのは南方向なので、❶中山支群に出会えそうです
でも、この時点で少し日が傾いてきたこともあり、基本的に寄り道はやめて真面目に?歩くことにしました
道端に万葉歌碑がありました(後ろの建物はなんとトイレだった…)
すぐ近くには
舟渡地蔵(ふなどじぞう)
背後の色褪せた説明板に、このお地蔵さんのお話が書いてあったので文字起しをしてみます↓
「舟渡地蔵(ふなどじぞう)(腰痛なおし のお地蔵さん)
むかし萱生と竹之内両村で池掘りをしていたところ一枚の石に刻まれた二体のお地蔵さんが出てきました。お寺へ移そうとしたら運ぶ人達の足腰に痛みがおこり、さあ大変。
お地蔵さんのたたりかとおもわれましたが見晴らしの良いこの場所で丁重にお祀りし供養をすると、まあ不思議。痛みはすっかり治まりました。
今も腰から下の病気にはこのお地蔵さんのご利益が受けられるとか。
「天理の昔ばなし」より
地元では「ぼっくり地蔵」とも呼ばれ信仰を集めています。」
立ち位置チェックです
↓朝イチに行った石上神宮から3.8㎞進みました(実際に歩いた道のりはもっと長いはず)
↓前記事を含め、たびたび二上山を遠望する似たような写真をあげていますが、
いちいち感動して撮っています
舟渡地蔵より一体多く、三体が一緒に刻まれた石仏も無造作に置かれていました↓
3体だとさすがにぎゅうぎゅうだわね
西山塚古墳に登る
西山塚古墳が見えてきました
↓「もこもこ」していますが、この写真の正面に写っているのは二段の後円部(高さ13m)で、写真左側に少し欠けて写っているのが三段の前方部(高さ8m)
(周濠の外側=萱生環濠集落側から撮っています)
実はこの古墳の後円部に登ることができるのです
↓いったん引き返して、周濠が切れたところから古墳に入ります
↓階段状に土嚢が置かれていますので、それを足掛かりに登ります
↓後円部2段目
↓二段目から見えた二上山
二上山よりも北側の遠景
↓土嚢に促され、三段目に登る
↓頂上
ビール箱がたくさん置かれていましたので、座って小休憩
↓秋のきれいな空気のおかげで遠くまでよく見えます
↓東側は、萱生環濠集落と竜王山
集落の白壁がきれいです
↓南東側…竜王山、三輪山…
萱生環濠集落を抜ける
↓古墳から降りて、萱生環濠集落の中の入り組んだ細い道を道しるべに従って歩きます
すぐに、集落を出そうです
集落を出ると
↓猿田彦大神石碑
ひなびた道を進み…
↓五社神社
ここで道がT字になっているので、直進せずに左折し、衾田陵に向かいます
西殿塚古墳(継体天皇皇后手白香皇女)・衾田陵
民家の軒先をくぐるようにして進むと目の前に現れたのは
西殿塚古墳(継体天皇皇后手白香皇女 衾田陵)
全長230mの巨大な前方後円墳を西側から撮っています
3世紀後半、古墳時代前期前半の築造、初期ヤマト政権の箸墓古墳に続く造営と考えられているそうです
「衾田陵」の「衾」から、「衾道(ふすまじ)」と呼ばれる場所がこのあたりなのではないかと考えられているようです
柿本人麻呂が「衾道」を歌った有名な歌がありますが、この後の歌碑のところで書きますね
↓大きな古墳だという雰囲気が伝わったでしょうか?(全容は撮れなかった)
この写真、近接する民家や青バケツなどがなるべく入らないように撮りました
下池山古墳と念仏寺
先ほどのT字路まで戻り南に進むと、途中池を巡って一瞬だけ道が西向きになります(この池は濠なんだろうか?)
↓道が西向きになったところ
池の向こうの木がこんもりとしたところは、
下池山古墳(前方後方墳)(今回唯一確認できた❷萱生支群に属する古墳)
再び道は南向きにかわり、
念仏寺という寺の墓地に入りました(山の辺の道はこの墓地を通り抜けます)
↓墓地の入り口に、一休さん?の石の像
キョーレツ!
燈篭山古墳と中山大塚古墳
↓燈篭山古墳の説明板
もともと前方後円墳でしたが、西に向いた方墳部分が墓地になってしまったようです
全長は、110m
↓燈篭山古墳を撮ったつもりですが、よくわからん…
続いて現れたのが
↓中山大塚古墳
↓説明板
この古墳は全長が120mの前方後円墳
中山大塚古墳のすぐ南には
↓大和神社御旅所
ここより西にある大和神社の境外末社で「ちゃんちゃん祭り」等が有名らしいのですが、今回は通り過ぎました
↓中山観音寺の脇の石仏たち
相変わらず、素敵な風景が続いていきます
衾道を引手の山に妹を置きて…人麻呂万葉歌と犬養万葉歌碑
↓竜王山のふもとには、犬養孝先生の万葉歌碑
「衾道乎 引手乃山尒 妹乎置而 山径往者 生跡毛無」
(衾道を引手の山に妹を置きて山道を行けば生けりともなし)
この歌は、柿本人麻呂の短歌です
人麻呂は宮廷歌人でしたが、妻を失った時の私的な挽歌が、万葉集巻2の207~216に続きます(歌われた妻が同じ人物かどうか議論があるらしい←現代なら大モンダイ)
歌碑の背後の竜王山は、人麻呂の長歌に「大鳥の羽易(はがい)の山」として詠まれ、ここに妻が葬られました↓
万葉集巻2、210(長歌の一部)
「…大鳥の羽易の山にわが恋ふる妹は座すと人の言へば…」
この長歌に続く短歌二首の内の二首目
万葉集巻2、212には、
衾道を引手の山に妹を置きて山道を行けば生けりともなし
と妻が葬られたことを詠んでいますが、
「衾道」は先ほど通った「衾田陵」のあたりを指し、
「引手の山」は「大鳥の羽易の山」と同様に竜王山を指します(これには諸説ありそうです)
↓私の部屋の本棚を漁ったら
この歌碑の除幕式の時の犬養先生の写真を見つけました
(犬養孝監修 扇野聖史著『万葉の道』山辺編 巻の二、福武書店、昭和57年)
昭和45年に除幕式だったんですね
長岳寺へ
さてさて、一年で最も日の暮れの早い季節、日差しが弱くなってきました
先を急がねばなりません
↓長岳寺まで0.7㎞となりました
↓日が傾きかけた時の二上山
↓道が急にきれいな石道になりました…秋篠寺に行く「歴史の道」みたいだ
↓「卑弥呼の里」(言ったもん勝ち)
いよいよ長岳寺です
↓到着しました(駐車場に大型バスが数台停車していました)
↓「祈りの回廊」の看板…なんだか、急に現実世界に引き戻された気がする
↓コロナ以降初めて来ました
↓またネコに逢えた!
↓楼門から入ります
↓本堂内部から見た外の紅葉
↓夕日を浴びて、輝くような紅葉です
↓逆光がまた紅葉を引き立たせています
↓長岳寺はなんといっても、池越しの風景が美しい
↓ひっそりと座る石仏は、よく見たら三鈷杵か五鈷杵を持っています
偉いお坊さん?
実はこの時、関東地方の女子高生たちの修学旅行と重なり、本堂では地獄絵の絵解きが延々と続いていたのでした
この女子高生たちのなかに、かつての私のように修学旅行をきっかけに奈良にハマる子が出るかもしれないと思い、絵解きが終わるまで本堂に入るのをじっと待っていたのでした
その本堂におられる長岳寺の美しい阿弥陀三尊像や、地獄絵、お寺の猫などについて、今回は書きませんでしたが、過去記事で少し書いています ↓
困ったことに、JR万葉まほろば線は本数がとても少ないため、長岳寺を後にして、
走るように柳本駅に行きました
今回は、長岳寺以南の山の辺の道を歩くことができませんでしたが、
季節のいい時にまた歩きたいと思います(って、半年前に歩いたばかりなんだけどね)
↓桜の季節に大神神社から箸墓古墳まで歩いた時の記事
奈良 大神神社から山の辺の道、檜原神社、箸墓古墳へ 2023-04-03