滋賀県立美術館「千年の秘仏と近江の情景」 | 奈良大好き主婦日記☕

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鎌倉在住
奈良や仏像が好きで子育て終了と共に学び直し大学院博士課程修了、研究員になりました。
テーマは平安後期仏教美術。

明日香村、山の辺の道等万葉集の故地が好きです。
ライブドアにも書いていました(はなこの仏像大好きブログ)http://naranouchi.blog.jp

 
10月に滋賀県立美術館に行ったときの記録です
 
10月の長浜観音まつりの前後に滋賀県に何度か行ったのですが(最後にリンク貼ります)、
滋賀県立美術館で観た仏像についてまだ書けていなかったので、忘れないうちに(いやもう忘れたかもにやり)書き留めておこうと思います

 

 

滋賀県立美術館

「千年の秘仏と近江の情景」

10月7日から11月19日まで開催されていました

 

チラシの説明の抜き書きをしてみます

「千年の秘仏と近江の情景

 滋賀県は、県域全体に貴重な文化財が散在する全国有数の文化財集中県です。

 (中略)

 本展では……湖南市の名刹正福寺の仏像を中心として、……伊賀県立美術館のコレクションとともに展示します。

 特に正福寺の本尊大日如来像(重要文化財)は国内最古級の胎蔵界大日如来像で、厳重な秘仏のためその公開は三十三年ぶり、寺外では初の公開となります。そして、この度は正福寺大日如来像と非常に近い関係にあると考えられる湖南市・善水寺不動明王像(重要文化財)を特別出展します。」

 

博物館内部での写真撮影はできなかったため、博物館HPの画像をお借りします

また、館内展示の説明を基本に、お寺の概要や仏像の説明を書きたいと思います

 

 

 正福寺大日如来坐像と善水寺不動明王像

 

・正福寺大日如来像について

・寺の由緒

正福寺の創建は奈良時代、開山は東大寺をひらいた良弁と伝えられるそうです

しかし、本尊が、平安時代に天台で重視された(胎蔵界)大日如来像であることや、

周辺地域への天台の影響を考えると、実際は平安時代以降に天台寺院として創建されたと考えるのが適当のようです

その後、寺は戦乱で荒廃、承応年中(1652ー55)に浄土宗僧寂誉(じゃくよ)により再興されたそうです

 

現在も浄土宗の寺院

 

かつては、清寿寺、永厳寺、金剛寺などの子院を抱えていたそうですが、昭和22年清寿寺(本尊阿弥陀如来像)、永厳寺(本尊阿弥陀如来像)を合併したそうです

正福寺の仏像は、大日如来像だけでなく、かつて永厳寺にいらしたというノッポの十一面観音像3体も出品されていました

 

・大日如来像

11世紀 木造 重文

 

 

(上一枚)

 

33年ぶりの公開で、また初の寺外公開ということで、撮影禁止ではありましたが、

ゆっくりと対面してきました

 

定印を結び、右足を上に結跏趺坐する大日如来像(胎蔵界)

この像には像内にウロがあるそうで、霊木を利用したことが考えられるようです

 

側面観は厚みがあり、頬のふくらみが薄い印象(むしろくぼんでいるくらい)を受けました

正面から見た胴体は、引き締まっていて、胸の線は正面から左脇にまでつながりっていました

それから、引き締まった胴体のわりには、お腹が出ていました(メタボ?)


 

 

・善水寺不動明王像について

・寺の由緒

館内の説明板によれば、

善水寺は、元明天皇の和同年間(708~715)創建の和同寺を前身とすると伝えるそうです

平安時代初め、桓武天皇が病の時に、最澄がこの寺の水を献上したところ、桓武天皇の病が平癒したことから、善水寺と寺号を改めたそうです

 

本堂(国宝)は、貞治5年(1366)

内部の仏像は、本尊薬師如来像、梵天・帝釈天、四天王、聖僧文殊、兜卒毘沙門天で、いずれも正暦4年(993)ごろの制作だそうです

この仏像の構成は、10世紀延暦寺根本中堂と同様と考えられるそう

 

・不動明王坐像

↓善水寺 不動明王坐像 10世紀(993年ごろ) 木造 重文

 

↓展示はありませんでしたが、こちらも有名

善水寺 薬師如来坐像(正暦4年、993年)(重文)

善水寺HP

上の2体以外の仏像の画像もHPにあります

 

 

 

 

 同一工房の可能性?

正福寺大日如来像と善水寺不動明王像は、同一工房による制作が推定されるそうです

その根拠は、二つの像に次のような共通点があることです

①二つの像の共通点

二つの像には。「大腿部と腰布」「臂釧の形」「耳の形」に共通点があります

 

・大腿部の腰布の共通性

どちらの像の大腿部にも腰布が巻かれていることが、共通します

どんな感じに腰布が巻かれているかというと…

 

↓正福寺像の左足大腿部と腰布(現場での私の下手すぎるメモですが許して)

 

↓善水寺不動の左足大腿部の布(これ、一応大腿部ですアセアセ

(もっと丁寧にスケッチすればよかった…ショボーン

 

・臂釧の形の共通性

これも、私のスケッチしか入手できる資料がないのでガマンしてください

 

↓「正」と書いたほうが正福寺の臂釧、「善」と書いたほうが善水寺の臂釧のざっくりスケッチ(もう薄目で見てください)

「ほとんど同じ」とメモしてありますが、

こういう比較って、一体どのレベルからが「同じ」とか「似てる」とか言えるのか、いつも戸惑います

 

・耳の形

同じく、スケッチしか資料がないので載せますが、これって同じなのかな?

(こんなスケッチじゃ判断できないわ)

 

かえって混乱させてしまって申し訳ないのですが、

大腿部や腰布、臂釧、耳の形などの共通性から両者が同一工房の制作ではないかと考えられているそうです

 

②相違点

共通点があるのと同時に、正面から見ると正福寺像のほうが善水寺に比べて細身であるという相違点もあります

(たしかに正福寺像はお腹が引き締まっていましたが、側面から見るとお腹出てましたよね←悪口)

 

③同一工房による制作

上に挙げた共通点から(相違点はあるものの)2像は同一工房の制作であると考えられているそうです

ただし、正福寺像の太ももの細い布には善水寺から写し取ったような表現が認められることから、制作年代は善水寺像が先行し、わずかに遅れて正福寺像が作られたという順番になるそうです

 

制作の順番は

  善水寺不動明王像→正福寺大日如来像

 

④立地からの裏付け

同一工房の裏付けになるかどうかよくわかりませんが、二つの寺の位置関係は

↓このようになります

グーグルマップから、希望する地名を抽出できなかったので

館内の説明板から私が写した地図(汗)を一応載せました

岩根山は書き加えました

せめて位置関係だけでもわかっていただけたらと思います
 
丸で囲った二つの寺の位置関係をみると、

善水寺は「十二坊(岩根山)南端の中腹」に立地し、

正福寺は「十二坊から連なる丘陵の南麓」(南麓?)に位置します

この立地からは、10世紀末に近江盆地の出入り口の旧甲西町(現 湖南市)一体に

天台宗勢力が拠点を築いていたことが推定されます

 

とすれば、延暦寺周辺各地の天台寺院で造像を行った仏師集団が存在したと考えられ、正福寺像や善水寺像は「その典型例」ということになるようです

(長浜で見た、渡岸寺や石道寺、鶏足寺のようなできばえの良い仏像たちと、

町のお堂にいた愛らしい像たちは、異質の仏師たちがいたことを思わせますが、

善水寺等湖南地方の天台系の仏師たちとの関係ってどうなってるんでしょうね?(独り言)

 

 

 正福寺所蔵の3体の十一面観音像(旧永厳寺所蔵)

正福寺では、このほかに

半丈六の薬師如来像(平安、重文)、2m超の十一面観音像(平安、重文)、等身地蔵菩薩坐像(半跏)などがあるそうです(展示はありませんでした)

 

今回の展示では、正福寺が所蔵する大きな十一面観音像が3体もありました

これらの像はもともと永厳寺の所蔵だったそうです

 

↓3体のうちの1体

(もと)永厳寺十一面観音立像(重文)(現在は正福寺所蔵

館内で並べられたそっくりな3体のうち、HPには1体だけが載せられていました

 

館内の説明によると、

3体いずれも平安後期、ほぼ同寸

(これを便宜的に①②③とすると)

①割矧、水瓶あり

②割矧、水瓶なし、印を結ぶ(右手・垂下、左手・わっかを作る)

③寄木、水瓶あり

というように、それぞれが異なる特徴を持ちます

上の写真は水瓶を持たないので②の像ですね

 

この3体、すらっと背が高く、似たような雰囲気でした

館内の説明には3体の「力のない表情」が、「六波羅蜜寺十一面観音像につながる」と書いてありました

いわれてみると、確かに、六波羅蜜寺十一面観音像に似てる感じかもしれない

 

 

↓「力ない表情」が似てるといわれてしまった

六波羅蜜寺十一面観音立像 国宝 258㎝ 木造 漆箔

↑若干、むっとして気を悪くしているようですよ

 

この六波羅蜜寺十一面観音像は、天暦五年(951)の制作です

ちょうど、仏像の和様化に向けて作風が確立される前の時期にあたります

力のない、沈鬱な表情をしているように受け取られることが多い像です

 

表情だけでなく、おなかが出て胸がひっこむ姿勢も似ているように思います

 

ちょっとだけ脱線

私のメモには、②の像の鼻から口元が「(KAT-TUNの)中丸くんに似てる」なんてことが書いてありました

 ↓口元、中丸くんに似てる?

↓中丸くん

どちらも鼻梁が広がり、唇が前に出ているところが似てると思います

 

m(_ _)m  (怒られる前に、謝罪🙏)

 

えっと…?

 

そうそう、館内の説明によれば、3体ともに永厳寺にあったとは考えたがいそうで、

近隣の複数の堂舎から集められたとか…

 

また、3像ともに大きな像で(寸法不明)

現在の正福寺観音堂にも2m超の10世紀の十一面観音像が伝来することから、

どちらにも「巨像信仰」の影響が考えられるようです

(ところで、「巨像信仰」って何?)

 

 

 

 疑問に思ったことー正福寺像の側面観や善水寺像との関係など

で、今回この記事を書きながら、正福寺像と善水寺像のそれぞれについて疑問が湧いてきてしまいました

主な疑問点を先に取り出すと

1.正福寺像についての疑問

 疑問点は次の二つ

側面観の厚みに関する疑問~制作年代と作風のズレについて

体・脚部の接合部に関する疑問~寄木造りじゃないよね?

2.善水寺像についての疑問

 ~善水寺ファミリーにいながら、正福寺像とは「兄弟仏」という関係性

 

 

ここから、1,2それぞれ疑問に思ったことを書いてみたいと思います

1.正福寺像についての疑問

館内の説明板によれば、正福寺大日如来像には次の2つの特徴があるそうです

①側面観の厚み

②体・脚部の接合部を直線とせず凸凹を組み込んだ構造

そしてこの二つの特徴は、10世紀後半の顕著な作風の傾向と説明されていたように思います

その傍ら、像自体は11世紀の制作と表示されていました

ということは、制作年代と作風や構造にズレがあるということ?

 

…というような疑問について、ちょっと掘ってみました

 

①側面観の厚みに関する疑問~制作年代と作風のズレについて
仏像の重量感に関しては、一般的に9世紀末には「平安前期特有の重量感や奥行きを残し」(山本勉『日本仏像史講義』)ながらも新たな方向へと作風が変化のきざしをみせたといわれます(それまでの平安前期の像は、重量感たっぷりで奥行きが深いのが特徴でした)

 

10世紀前半になると、例えば法性寺千手観音像(934年)ではすでに体躯に「重量感や部分を強調する方向は認められな」(『日本仏像史講義』)くなります

法性寺千手観音像(934年)

こうやって見ると、お腹のくびれがすごいね

 

 

これに対し、10世紀後半京都六波羅蜜寺の薬師如来坐像(10世紀後半)は、体躯にまだ「ボリューム感があって体奥も深く平安前期風を残」し(美術出版社『日本仏像史』)ています

六波羅蜜寺薬師如来坐像

側面↓(側面観に厚みが残る)

1089ブログ

 

 

同様の例として、定朝の父・康尚作といわれる京都・同聚院不動明王像(1006年)も「平板な正面観からは意外なほど体奥が深くて10世紀的な要素を残す」(同上)とされています

↓同聚院不動明王坐像(11世紀に入っても厚みが残る)

(脚部は後の時代)

(『日本仏像史』)

 

 

しかし、六波羅蜜寺薬師如来像や同聚院不動明王像よりも前の制作である

10世紀後半、951年の六波羅蜜寺本尊十一面観音像では、「この時期の造像の平面的・絵画的な造形処理がめだ」ち(『日本仏像史講義』)、奥行きの深さを減じさせる像の出現を思わせます

 

六波羅蜜寺十一面観音像(951年)(再登場!)

 

 

 

ここまでをまとめると、

10世紀後半の仏像には、前時代の作風の名残として側面観の厚いものがまだまだ制作されるのと並行して、新時代の傾向である平面的・絵画的な表現が現れ、側面観では奥行きが減じる傾向にある、と解釈されそうです

 

そして、11世紀に入り定朝の時代になると、一気に側面観が薄くなります

 

定朝作の平等院鳳凰堂阿弥陀如来像(1053年)については、「平面性の強調」「一木造り敵な塊量感や重量感はまったく感じられず」(『日本仏像史』)などと説明されたり、

像の奥行きは極端に薄く、平安時代初期以来の木彫を特徴づけてきた塊量感は希薄である」(『日本仏像史講義』)ともいわれたりします

 

平等院鳳凰堂阿弥陀如来像(1053年)の薄い側面観

(『日本仏像史』)

 

ちょっと気になるのは、この時期の作風の展開について論じられる像の多くが京都の代表的な仏像であるため、同時期の滋賀県の仏像の作風がよくわからないということです(そこを調べなきゃだめだよね)

 

正福寺大日如来像についての、館内の説明板に「10世紀後半の作風」を顕著に持つ、「11世紀」作というのも結局よくわかりませんが、

「10世紀後半の制作」ととらえるなら京都の仏像との「時差」はそれほどではないものの、「11世紀」作であるならば、京都より少し遅れた作風を持つということでしょうか?

 

いや待てよにやり

滋賀県と京都での天台宗の影響の差異を考えると、一概にそうも言えない気がするな

 

だがしかしイヒ

京都の六波羅蜜寺も天台寺院だし、同聚院像を制作した康尚も天台とゆかりの深い人だし…そうすると、京都も滋賀も天台がらみの寺の仏像の作風に時代的な差異はないのかな?

わからんチーン

 

 

正福寺に関する疑問の二つ目

②体・脚部の接合部に関する疑問~寄木造りじゃないよね?

正福寺像について館内の説明板には、体と脚部の凸凹の接合が10世紀後半の特徴とされていました

時期的には寄木造が出てくる時期ですが、この像の接合は寄木なんでしょうか?

 

ということで、寄木造について少し掘ってみます

寄木造の始まりは、一般的に六波羅蜜寺薬師如来像10世紀後半)や、京都太秦の広隆寺千手観音像11世紀初め、1012年)とされています

 

六波羅蜜寺薬師如来像(10世紀後半)再登場!

image

 

広隆寺 千手観音坐像(1012年)

 

六波羅蜜寺薬師如来像は頭体の根幹部が左右2材の不規則な寄木造り

広隆寺像は4材の本格的な寄木造りです

少し時代が動いた間に、技術が進歩したみたいですね

 

では、正福寺大日如来は、このような寄木造りなのでしょうか?

寄木造りとすれば、内刳りがあるはずです

 

正福寺大日如来像は、内部にウロのある霊木を使用したと説明板に書いてありましたので、寄木造りではなさそうです

 

 

 

寄木造りではないが、複数の材を接合する例には、

8世紀末新薬師寺薬師如来坐像があります

この像は、両脚部を縦材で矧ぎますが、一木造です(内刳りもちろんなし)

新薬師寺 薬師如来坐像

 ↓新薬師寺薬師如来坐像の木取り想像図

(山﨑隆之『仏像の秘密を読む』東方出版)

この図は、一木の巨樹から彫り出されたイメージで制作されたという意味で、

実際は、腕や脚部は別のところから切り出した縦材を使ったということでしょう

 

新薬師寺像の場合は脚部を縦材で矧ぐ一木造りでしたが、

正福寺大日如来像は、体と脚部を凸凹で接合するという10世紀後半の特徴を持つ一木造りということでしょうか?

 

以上をまとめると、正福寺大日如来像は

①10世紀までの中央の仏像に残る側面観の厚みを、11世紀になって再現した像で(その理由は地方仏のためか、天台系のためか、そのほかの理由か不明)

②接合方法は、この時代に現れる寄木法ではなく、霊木を使用した一木造りで、10世紀の特徴である凸凹による接合方法を用いた像である

ということになるのでしょうか?

(知らんけど)

 

2.善水寺像についての疑問

 ~善水寺ファミリーにいながら、正福寺像とは「兄弟仏」という関係性

 

例によって、長くなってきたので、簡単に書きますね

善水寺不動明王像が、正福寺像に先立って同一工房で制作された可能性について、上にすでに書きました

善水寺像の太ももにかかる細い布の表現が、正福寺像に写し取られていることがその根拠でした

 

これに加えて、説明板には、「大日と不動が教義的に本体と化身」であることから、

正福寺大日如来像と善水寺不動明王像は兄弟仏の関係にある

と記されていました

 

疑問点は、善水寺不動明王像と正福寺大日如来像の「兄弟仏」という関係性です

 

上にも書きましたが、善水寺本堂にはいずれも正暦4年(993)ごろの制作である、

本尊薬師如来像、不動明王像、梵天・帝釈天、四天王、聖僧文殊、兜卒毘沙門天がおられ、10世紀延暦寺根本中堂と同様の構成と考えられているそうです

いわば、善水寺ファミリーを構成し、不動明王はその家族の一員です

 

 

↓善水寺のHPにも、ファミリーの仏像たち(上にリンク貼りました)と一緒に、

不動明王像もおられ、「本尊薬師如来と共に一具像」と書かれています

 

 

しかしですね、繰り返しますが、

正福寺の大日如来(胎蔵界)と善水寺の不動明王像は教義的に本体と化身で、同一工房による制作なので兄弟仏の関係にある

 

ん?

 

善水寺不動明王は、かたや善水寺ファミリーの一員でありながら、かたや正福寺像とは兄弟なの?(正福寺像、里子に出された疑惑)

 

 

なんだか、ドキッとしますが、仏像界の複雑な家族関係などではなく、

このエリアの仏像が、同一工房の制作によるものなので、

ある場所ではファミリーを形成し、ある場所では兄弟の関係性になる

というような結論でいいでしょうか?

 

若干、いや大分モヤモヤしますが、そういうことにしておこう

 

 

そのほかの展示

 

展覧会には、仏像のほかに大津絵などもありました

↓大津絵図(1804)

 

 

 

特別展のほかに

企画展『”みかた”の多い美術館展』も開催されていました

 

カンディンスキーの絵

 

 

今井祝雄『ヴォワイヤン』

↑これ、なんだか楽しかったニコニコ

 

 

映像作品『聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと』(百瀬文)

は、「あら?」と思う変化が画面上に表れて面白い作品でした(目が覚めた)

 

 

 滋賀県立美術館について

 

滋賀県立美術館は、JR琵琶湖線瀬田駅から路線バスに10分ほど乗ったところにあります

(路線バスは、現金のみでしたので慌てました)

バス停も、時間帯によって、道路脇か敷地内か違ってくるので、少し混乱しました

 

美術館のある場所は、「びわこ文化公園」のなかで、10月下旬に訪れた時は、

木々が黄葉しかけの天気の良い日でした

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ぐる~っと歩くと、美術館が見えてきます

 

今回記事にした展示は終わってしまいましたが、また楽しい展示があった時にゆっくり訪れたいと思います

 
 
 
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