母が。 | 猫畜生日記とつんたんか

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はじめまして。
ねこちくです。
またの名をつんと申します。
昔は「中森つん」なんて呼ばれていました。
書くことを見つけながら、書いていきます。

いつかどこかで、きちんと文字にしてまとめておきたいなと思ったのですが、気持ちの整理や母の病状悪化など、時間の都合が合わずにいました。ようやく退院が決まり、ここで一区切りとなりそうなので書き残しておきます。

母がガンになりました。

検査をした病院から緩和ケアの話を出されたのですが、そこでは治療を続けていくのが難しいとのことで、有明の病院へ転院。
再検査のための通院が続き、余命宣告を受け、抗がん剤の投与の入院が長引き、ようやくの退院です。

最初の頃、母は痛みが酷く、処方された痛み止を飲んでも眠れない日が続きました。消化によい、茶碗蒸しやクリームシチューや煮込みうどんなどを作っていましたが、だんだんと食も細くなり、結果が出る数日前からは水分のみでしのいでいるような状態でした。

通院での検査ということで、在宅での療養を母は希望しました。そこからが大変でした。栄養学の本からガン治療の本まで読みあさり、毎日の献立を考えながら、家事と母の看病をこなす。私以外の家族や親戚には知らせていなかったので、母も私に頼るほかなく、しかし死の恐怖と戦わねばならず、わがままを言いながらも、ままならない体になっていくことを嘆く日々が続きました。

日によって、時間によって、母の食べられるものはかわります。昼には肉類が食べたいと言っていても、夜になると全粥しか食べられないことも多々ありました。出された食事に箸をつけずに、処方された薬だけ飲んで横になることもありました。

私が弱音を吐くことは、母の余命宣告に対する侮辱のような気がしていて、しばらくはひとりで抱え込んでいました。気丈に振る舞い、泣かず、笑って家事と看病に時間を費やす。それが私に出来る母への最後の親孝行だといまでも思っています。

転院先での再検査も終わり。
母はスキルス性胃ガンのステージ4。

居なくなってくれたらどれだけ楽かと憎んだ母が、居なくなります。母は夏物の衣類をほとんど処分してしまいました。胃潰瘍になっても珈琲を飲んでいた母が、珈琲を飲みたいとすら言わなくなりました。

こんなにも突然に母が居なくなるとは思っていなかったので、私もまだ覚悟が出来ていません。ひとまずこうしてまとめましたが、きちんと受け入れられているかはわかりません。

明日、母が家に帰ってきます。だいぶ痩せ細り、入院生活が長引いたために歩行も難しいところですが、帰ってきます。現時点で音信不通だった兄とも連絡をとるようになり、家を出ていった父親には見舞いの往復の車を出してもらったりしています。

恋人様が遠方から見舞いに来てくださったことを、母はとても喜んでいました。また来てほしいと言っています。いつか残される私の、いつか隣に寄り添う人を、きちんと見ておきたいのだと思います。私は一度失敗して戻ってきていますから。

いつかが遠い未来ではないことはわかっています。こうして年末を迎えられることすら、奇跡のようなものです。それでもまだ、私は母に言えていない言葉があるので、母が一日でも長生き出来るように、支えていきます。

何もかもを一人で背負うのは難しいのですが、母と猫たちと暮らした時間は、私たちにしかわかりません。だから、母の最後をみとるのは私だと思っています。

長くなりましたが、明日、母が家に帰ってこられることが嬉しいです。少しずつ、ゆっくり、生きていきます。最後までお読みいただきありがとうございました。

中森つん