〓ここのところ、ラテン語、ギリシャ語のハナシばかりなので、さっぱりと茶漬といきたいところなんですが、モイッチョ、地中海風味を召し上がっていただきやしょう。
〓「世界三大悪妻」 というものがあるらしい。
クサンチッペ (ソクラテスの妻)
コンスタンツェ (モーツァルトの妻)
────────────────────
ソフィア (トルストイの妻)
ジョゼフィーヌ (ナポレオンの妻)
〓1位、2位は、ダントツで決まりらしいですね。3位には異説があるようです。もっとも、「世界三大悪妻」 と銘打っているのは日本だけのようです。見当たらないんですよ、外国では。
〓ソクラテスの名言として知られるものに、
By all means marry; if you get a good wife, you'll be happy.
If you get a bad one, you'll become a philosopher.
結婚だけはしておきたまえ。良妻に恵まれれば幸せだ。
悪妻に当たったならば、哲学者になれるではないか。
があります。しかし、これには出典がいっさいなく、おそらく、後世の何者かの創作でしょう。もちろん、クサンチッペというヒトが悪妻だったという伝説をふまえてのことでしょう。
〓あるいは、
Are not the male cicadas a happy lot?
Their females haven't a bit of voice in them.
オスの蟬は運がいいとは思わないか?
メスはウンともスンとも鳴かないんだぞ。
なんてのもあります。これをソクラテスの言とするのは誤りで、ギリシャの滑稽詩人、
Ξέναρχος Xénarkhos [ ク ' セナルこス ]
の詩の一節であるらしい。この詩人については、ギリシャ語のページでさえ、あまり情報がなく、どんな詩のどんな一節なのか、それについてはわかりません。
Ὕπνος Hýpnos [ ' ヒュプノス ] 『眠り』
という作品らしいのですが……
〓アレクサンドロス大王の治世末のアテネの人です。
〓「クサンチッペ」 の名は、今では、英語でも
Xanthippe [ zæn 'θɪpi , - 'tɪpi ] [ ザン ' すィピ、 ザン ' ティピ ]
(比喩的に) 「ガミガミとうるさい女・妻」
として使われます。意外にヨーロッパ世界で多いのが、 「イヌの名前」 に使う例です。ネコではなく、イヌに名付けるあたりは、やはり、「ワンワンとうるさい」 からでしょうか。
〓ネットで、傑作な写真を見つけまして、 “Socrates + Xanthippe” というんです。「窓から外をのぞいているイヌとネコ」 なんですが、惜しいかな、どっちが 「ソクラテス」 で、どっちが 「クサンチッペ」 だかわからない。
〓希望的に言うと、大きなイヌが 「クサンチッペ」 で、小さいネコが 「ソクラテス」 であったほうが面白いと思うんですが……
http://www.flickr.com/groups/cultural-boxes/discuss/72157600390016681/
〓ところでですね、「クサンチッペは悪女だ」 という言説は、イヤと言うほど巷間に出まわっておるわけですが、みんな、案外、
“クサンチッペ” とはどういう意味か
ということに思いが至らないらしいのです。
Ξανθίππη Xanthíppē [ クサン ' てィッペー ] クサンティッペー
〓これは、たいして難しい造語ではありません。もっとも、古代ギリシャ人の名前の構成は、わかりやすいものが多いんですが……
ξανθ- ← ξανθός xanthós [ クサン ' とス ] 黄色い
+
ἵππ- ← ἵππος híppos [ ' ヒッポス ] 馬
+
-η -ē [ ~エー ] 「女性名詞語尾」
↓
Ξανθίππη Xanthíppē [ クサン ' てィッペー ]
〓字面どおりとれば 「黄色い牝馬」 (ひんば) という意味ですね。ところがですよ、古代ギリシャ人にとって 「何が黄色かったか」 を調べないとまずい。言語にとって、色の名前というのは、おおいなる落し穴なんですね。
言語によって、色のカテゴリー分けは、全然ちがう
のです。少し前までは、日本語でも、
アオ = アオ + ミドリ
でしたね。
〓噺家 (はなしか) の笑福亭鶴光 (つるこ) さんの師匠は、六代目の笑福亭松鶴 (しょかく) 師匠でした。あるとき、
「おいツルコ。“アオ” のマジック買うて来い」
言わはったんやそうな。鶴光師匠、近所の文房具屋で、“アオ” のマジックを買って帰った。
「やいツルコ。こりゃ “アオ” とちがう。
もいっぺん行って、“アオ” のんと変えてもろて来い」
〓“イラチ” の師匠ですさかい、もう不機嫌になっとる。しかし、なんべん変えてもらっても、
「ちがう」
言わはるのやそうな。シマイに、文具屋さんでマジックを一通り全部借りて持って帰った。師匠どれです?と目の前に差し出すと、
「あ、これやこれや」
と言って 「ミドリ」 を取らはったんやそうな。
〓古代ギリシャ人は、「黄色い」 という単語で、
クリーム色 pale yellow
黄色 yellow
金色 golden, blond(e)
ダイダイ色 red yellow
赤褐色 auburn
栗色 chestnut
をあらわしました。トテツもなく幅が広いですね。
ξανθαὶ τρίχες
xanthaí tríkhes [ クサンた ' イ ト ' リけス ]
金色の髪の毛、金髪
ξανθαὶ ἵπποι
xanthaí híppoi [ クサンた ' イ ' ヒッポイ ]
栗毛の牝馬たち
〓そう、ここで出ちゃいましたね。そうです。「栗毛の馬」 です。ギリシャ語で、“栗毛の馬” を、
ξανθὸς ἵππος
xanthós híppos [ クサン ' とス ' ヒッポス ]
「栗毛の牡馬」 (オス馬)
ξανθὴ ἵππος
xanthḗ híppos [ クサンて ' エ ' ヒッポス ]
「栗毛の牝馬」 (メス馬)
と言いました。ギリシャ語の ἵππος híppos という単語は変わった単語で、単語じたいは 「男性名詞」 としてしか変化しませんが、
「男性名詞」、「女性名詞」 どちらにも成り得て、
「女性名詞」 として、冠詞や形容詞などをつけると、
「メスの馬」 という単語として機能する
のですよ。
〓もっとも、女性の名前としては、語末の -ος -os を、女性の語尾 -η -ē に付け換えます。
〓現代ギリシャ語では、「黄色い」 ことを言い表すのに、もはや、この単語を用いません。
κίτρινος kítrinos
[ ' キートリノス ] 黄色い。現代ギリシャ語
を使います。ならば、 ξανθός xanthós はどうなったかと言うと、
ξανθός xanthós
[ クサン ' そス ] (肌が)白い、(髪が)金髪の。
〓これは、ちょうど、英語で言うところの fair 「色白で金髪の」 に当たります。ですから、「クサンティッペー」 というギリシャ語名は、たぶん、現代ギリシャ人にとっても、“意味不明” だろうと思うんです。
「色白で金髪のメス馬」 (?)
〓古代ギリシャの語りべ、ホメーロスの語った叙事詩に
『イーリアス』 Ἰλιάς Īliás [ イーり ' アス ]
があります。シュリーマンがその物語の虜になった 「トロイア戦争」 が語られる詩ですね。第19歌に、
Ξανθός Xanthós [ クサン ' とス ] クサントス
という、主人公 “アキレウス” の戦車を曳く馬が登場します。この 「クサントス」 が、「アキレウスの命がつきる日も近い」 ことを予言します。
〓まさに、この 「クサントス」 という馬こそ、
栗毛の馬
だったんでしょう。
〓古代ギリシャ人の名前には、ワリと 「馬」 の入るものがあります。言わずもがなですが男性に多い。女性名にもありますが、「クサンティッペー」 も含めて、男子名から派生するのが普通のようですね。
【 男子名 】
Ἀλέξιππος Alexippos [ ア ' れクスィッポス ] 守備の騎兵
Ἂλκιππος Alkippos [ ' アるキッポス ] たくましい馬術家
Ἀνάξιππος Anaxippos [ ア ' ナクスィッポス ] 馬術家の王者
Ξάνθιππος Xanthippos [ ク ' サンてィッポス ] 栗毛の馬
Φίλιππος Philippos [ ' ぴりッポス ] 馬を愛する者
【 女子名 】
Ἂλκιππη Alkippē [ ' アるキッペー ] たくましい女馬術家
〓こうしてみると、「クサンティッペー」 も男子名から派生したものだろうと推定できます。
〓「栗毛の馬」 ねえ。“金馬” (きんば) と取れないこともありません。「黄金」 というより 「ブロンド」 の馬ですね。「金 gold の色」 という意味では、
χρύσεος khrýseos [ く ' リュセオス ] 黄金の色の
という単語がありました。
〓どうでしょう。「クサンチッペ」 という名前に、何かちがったニュアンスが加わったでしょうか。