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⚫︎この記事では、Doingの細かなデメリットについて、
Havingな生き方
Having(持っているもの)に囚われて生きるというのは、
「うらやましいな」→「どうすれば手に入るかな?」
という発想です。
これだと、どうしてもノウハウを求める段階で終わってしまいます。
ノウハウだけでは上限が低いというのもありますが、
ほとんどの人にとって、
心から求めているものは、大概はノウハウだけでは辿り着けないものです。
「◯◯がないと出来ない」
という発想から抜けられないと、そのうちに今度は
「若くないからもう無理だ」
と思ってしまい色々と諦めていくのだと思います。
Having(持っているもの)にフォーカスした生き方ですと、
「◯◯がないから出来ない」
「◯◯があったらやる」
という発想になりがちです。
時間がないから、お金がないから
経験がないから、知識がないから
あいつがやってくれないから
あの人がああだから
という目線から物事を見るようになってしまいます。
それらは説明するまでもなく、生きにくさに繋がりそうなものですよね。
その人の周りだけ時間が早く過ぎる訳でもありませんし、その人の周りだけ嫌な人が集まっいてる訳でもないはずです。
不満に世界を捉える癖から抜けなければ、一つが満たされたところでまた次の不満を探します。
むしろ、その満たされたものでさえ「こんなものか」と納得出来ないかもしれません。
それをずっと繰り返しますので、「満たされて幸せ」とは思えず、下手をすると一生そのまま過ごします。
また、Having(手にするもの)ばかりに気を取られる場合、
例えばお金等は、増やしても増やしてもキリがないです。
「多めに持っておけば安心」とお思いになる方もいらっしゃるかと思いますけれども、
過剰な状態でも一生ラットレースを続けることになり、そのうち今度は喪失する恐怖に怯えて暮らすことになります。
多少の不足があっても『在り方』次第では工夫が生まれますので、充実して過ごせるかもしれません。
このように、
Havingに囚われていますと、適切さからかけ離れた生活を強いられがちになります。
それは苦しいです。
Being(在り方)→Doing(行動)→Having(手にする物)
という変化の起こし方が私のご提案であり、オススメの方法ということです。
もちろん、「カタチから入る」という事で変わる人もいます。
環境が変わって人間性が変わるということもよくある話です。
ですから、必ず上の図式からしか変化が起きないということではありません。
問題は、それら「カタチ」や「環境」を変化させても状況が良くならないところにあると私は思います。
「カタチ」にしても「環境」にしても、その恩恵を享受して良い変化をもたらす場合、そのほとんどで心境(Being)の変化が生じているからです。
つまり、『良い変化をするための在り方』の有無がそれらの結果を左右するということでもある訳です。
また、
「カタチ」から入った場合の多くがそのモノに飽きがきて長続きしなかったり、
環境をガラリと変えて茨の道へ進んでみても、途中で諦めて撤退したり、
などという話が世の中にはたくさん転がっていて、
「やっぱりダメだ~」
と落ち込む人がたくさんいます。
その点、『在り方』は良いものであれば「こんな良い考え方だからオレはダメだ~」「オレはなんて素晴らしい考え方なんだ~この野郎」とはなりにくいです。
(なりにくい、と申し上げたのは、確かに100%そうなるとは限らないからです。例えば自分を責める人の場合は、良くなる事に抵抗感を持っているので、もっと根底にある『在り方』にアプローチしていく必要があります)
問題は『悪い在り方』です。
悪い考え方(Being)であればよろしくない行動(Doing)をし、みんなから嫌われます(Having)
悪い考え方(Being)に正しい方法(Doing)を行ってもらっても、挫折、失敗、後悔、反発(Having)に還ります。
そして、そこにはコンフォートゾーンを維持する働きがあるから抜けにくいため、ずっと繰り返してしまいます。
とはいえ、
あなたが良くなって下されば方法は何でもいいです。
たまたま私は『在り方』からがいいなと思っているだけでして、実際に働きかけをさせて頂く時はDoingやHavingにアプローチする場合もあります。
(ただし、その場合は『在り方』に影響を及ぼすものをご提案させて頂いています)
ですから、他の方の手法を否定している訳では決してありません。
カジュアルに色々な方法が出回っていて、一部では効果のないものを延々とやらせて料金を請求する人もいる中で、
前々回の記事で紹介させて頂いた方のように、周りの人のことを真剣に考えて下さっている人もたくさんいらっしゃいます。
私でなくても幸せへの道をご提案して下さる方はいらっしゃるということです。
私は、あなたが良くなって下さればそれでいいんです。
とにかく「自分の人生」を歩んで頂いて、幸せになってもらえればそれでいいです。
前回の記事のような行程を経て「コンフォートゾーン」を作り上げていくのですけれども、
その「コンフォートゾーン」のせいで「変わりたいけど変われない」という事も生じます。
しかし、逆に全部が変わってしまっても人格崩壊してしまうので、その機能が無ければ無いで困ってしまいます。
実はとても必要な機能です。
多重人格というのは正にその「コンフォートゾーン」が複数出来てしまう一例(厳密には違います)で、
各人格によってコンフォートゾーンが違うので同一の身体であっても苦手な食べ物が違ったり、他者との接し方への抵抗感が違ったりします。
ですから、行動(Doing)を決定する重要な役割を持つ、とても大切な維持機能という側面があることもご理解頂ければと思います。
また、
コンフォートゾーンというのはとても強力なもので、「私の内面は本当は女性だ」と思っていると、何百万円もかけて、激痛さえも我慢して、整形等を受けて肉体を精神に合わせようとします。
また、恥ずかしさを乗り越えるどころか、性の不一致を感じる現状に強烈な恥ずかしさを覚えるからこそ、服装や環境を相応なものにしようとしたりします。
他には、
一時は億万長者だった方が事業で失敗し無一文になったとしても、コンフォートゾーンが億万長者なのでその後に私たち一般の人よりも早く高収入になる傾向があります。
最近では、某IT社長が逮捕されましたけれども、出所してまもなくでサラリーマンの生涯賃金よりも多くの収入を得ています。
「コンフォートゾーン」は、何も上述した人達にばかり生じる現象ではなく、人間が本能的に持ち合わせている機能です。
よくある話では、宝クジで当然して高額をもらった人が、数年経つと元よりも貧しくなってしまうといったものがあります。
普段ファーストフードやファミレスに行き慣れている人が、いきなり超高級店に行ったら落ち着かない感じがしてすぐに出てしまったといった事や、
スポーツの試合で意気込んで相手の本拠地に乗り込んだものの、やっぱり本来の実力が発揮出来ずに負けてしまったということもそうです。
勉強熱心な方に勉強をしないように言っても隠れてでもしてしまう人もいる一方、「勉強しなくていいんだ」と喜ぶ人もいます。
このような事は、各個人のコンフォートゾーンが深く関わっています。
「だったら新しいコンフォートゾーンに置き換えればいいだけじゃん」
ということなのですが、事はなかなかそうは運ばないのが厄介なところで、あれこれ試しても変わりにくいのが現状です。あなたもそのような経験がおありではないでしょうか?
いくら読書を重ねても、どんなにセミナーに参加しても、自分のコンフォートゾーンに寄せて解釈してしまうのでなかなか変わる事が出来ません。
それらが無意識で生じてしまうところに、この問題の大変さがあります。
ですから、
そのコンフォートゾーンに変化を与えるものとして、『在り方』へのアプローチが必要不可欠になってきます。
他で同じような文章を読んだということでしたので、「やはりカジュアルに出回ってきたな」と思う一方で、
その方がいかに色々と情報収集されて学ぼうとしているかが感じられて、その姿勢には本当に頭が下がりました。
周りの人達の事を真剣に想っているということですので、その方に出会えた人達は本当に幸せですね。
ということは、ご連絡頂いた私も幸せ者ということですよね。嬉しい限りです。
そこで、私もお役に立てればと思い、
「コンフォートゾーン」について追記したいと思います。
また、『在り方』自体が「コンフォートゾーン」と密接な関係があるものですので、今後も『在り方』のお話を進めさせて頂くことによってご理解の一助となれればと思っております。
さて、
前回は「コンフォートゾーンというのがありますよ」といった内容でした。
「コンフォートゾーン」を「快適な領域」のようにお話ししましたけれど、「快適な領域」というのはいったいどのような領域か?どこに快適さを抱くのかか?ということが重要になります。
通常、「快適さ」を感じるところは、簡単に言ってしまいますと「慣れ」が生じているところになります。
「いけない、いけない」と思っていながら、ついダラダラしてしまうのも、その人にとっては「ダラダラした状態」が快適だし慣れているからそうする訳です。
頑張ってる自分には慣れていないので、それを行うことは不快なのです。
ですから、どんなに「お金持ちになりたい」と強く願っても、突然、「明日からこの方達があなたのご両親になります」(Having)とアラブの大富豪を連れてこられてもすんなり受け入れられないですし、
どんなに「偉くなりたい」と望んでも、いきなり「今からアメリカの大統領やってもらいます」(Having)と言われても「やった望んだ通りだ!」と大喜びして引き受けられない訳です。
この「慣れているもの」というのは、「恒常性」を維持する側、つまり脳や身体にとってとても都合の良いものです。
どんなに辛く苦しんでいようが、その状態で生きながらえてきたという実績があります。
臆病な人がなかなか人前で話せなくても生きていられますけれど、いきなり「明日から戦場に行くぞ!」となってしまっては、身体にとっては生命の存続に関わります。
反対に、どんなに嬉しく楽しい出来事があったとしても、数年どころか数日もその余韻に浸ることなく飽きてきますし落ち着きます。
時には「私にそんな良いことがあるはずがない」と感じて再び自分の殻に閉じこもります。
この「慣れ」は生育歴にも関わりがあります。
「慣れ」の状態が繰り返し行われることによって、人は成長過程で「セルフイメージ」「自己評価」を持つからです。
そして、それらが「慣れた領域」となっていきます。
つづく