どうしてこんなに不幸続きなんだろう…。 | OKバレンタインEX

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2月25日の朝母はいつも通り起きていつも通りごはんを食べていつも通りホワイトボードに予定を書いてトイレに行ってリハビリに行った昼も何ともなくリハビリから帰って来た、
この日の昼御飯はいつもと比べるとゆっくり食べていて特に問題はなかった、弟も具合が悪くて母が昼寝をしていて夕方起きて座らせたら傾いて倒れてしまい「かったるい」と言って食欲もなかったから寒暖差もあったから風邪をひいたと思い早めに寝かせた
26日の朝何も食べてなくてゼリーを食べさせても「距離がわからない」と言って届いてなくて
トイレに行くのも歩けなくて棒に捕まらせてパットを取り替えた
昼間は寝ていて夕方に起きたらボーッとしていて座っても倒れて熱が38度もあり救急車を呼んだ
救急隊員が来たとき右に力が入ってなくて顔も歪んでたから「アレ?」と思ったし嫌な予感はしていた。
救急車に運ばれて弟の連絡待ちで不安で仕方なくて私は不安な気分を無くすために友達に電話をしたりしてました。
そして22時頃付き添いで病院に行った弟からの連絡が来て母は軽度の脳梗塞で入院は1~2週間の入院でした。 入院して良い方に向かうか悪い方に向かうかだけど手足の麻痺が多少は残るみたいでなのでリハビリ特化の病院に転院したほうが良いとの事。コレを聞いたとききのうの昼は歩けて食べれたのに脳梗塞のような病状が出てないからショックでしたし、お母さんが帰ってきたら介護をしないといけないのかという自分の時間がなくなる不安でいっぱいになりましたし、24日の夜無理やり台所に立たせたのがいけなかったのかという私のせいだという罪悪感もありましたし、「お母さんと私の何が
いけないの?」というのと「どこで歯車が狂ったの?」というのと「どこで間違えたの?」という気持ちでいっぱいになりました。

兄と弟も泊まりの仕事をしていないから家に一人ぼっちでいる時が多かった。
気を紛らわせるため友達に電話したりチケットを買ってハマスタに行ったり外食にいったりゲーセンに行ったりしてたけど家に帰ると誰もいないし、TVを見ても話し相手がいないから寂しくて涙が出てしまいました。

3月10日病院から電話がありお母さんは話しかけたら話してこっちから話すことがなくて左手でご飯を食べてるから食べるのゆっくりで歩いてなくて車イスで移動してるとの事、コレを聞いて歩けなくて右が使えないので片マヒで歩けなくなるんじゃないかって不安になってきました。

3月11日病院から電話があり月曜に転院になって月曜にお母さんに会うことになりました。
お母さんに会えるのはうれしいけどきのうの母の現状を聞いてから会うのが不安になっていました。

3月14日転院の為3週間ぶりに母に会うことができました。
しかしお母さんは右の手足がほとんど動かなくて指が少し動いて言葉が話しづらくて口数が少なかったです。
転院する病院に着いたら習い事のピアノの時間に間に合わないから途中で抜けたけどまた会えないし右の手足が使えなくなって歩けなくなって話せなくなるのかとなると不安になってきました。
夜一緒に病院に行った弟が帰ってきて母の事を聞いたら半年間の入院になりました。
寂しいし回復しないで半寝たきりで戻ってきたらどうしようという不安にかられしまいました。

母が脳梗塞で入院してからは本当に不幸続きで入院する前から自分のスマホの調子が悪く母が転院した次の日生活費用の財布が壊れたりその次の日はTVが壊れたりその次の日は大きな地震があったりと本当に不幸続きでした。
去年お母さんがコロナに感染してから神社に行くとお母さんが元気になるようにお参りしてるのにお守りもたくさん買ったのに弘明寺観音の護摩行でお母さんの回復祈願に行ったりお兄ちゃんは去年四国のお遍路様に八十八ヶ所回ったのになんでこんな目に合うんだろうなんでこんなに不幸続きなんだろう?

不幸続きで不安でいっぱいの中、弟が休みの日は弟が料理を作ってくれるのですが弟が作った野菜炒めがおいしくてどうやって作ったか聞いたら香味ペーストを入れたと聞き次の日試しに香味ペーストを使って中華風玉子スープやチャーハンを作ったら出前や外食や惣菜よりもおいしくでき
お母さんがコロナに感染してからずっと落ち込んでいて外食や出前や惣菜やお弁当ばかりだったのですが料理を作ろうという気持ちになりました。

3月31日病院から電話があり、お母さんが食欲がなく介助しても食べないとの事。
電話先からは家では何を食べてて歩けてたかを聞かれました。
面会ができないから母がどうなってるかは気になるが病院から連絡が来ると何かあったのかと不安になる、この連絡があってからお父さんとお母さんが元気だった頃の事を思い出してしまい泣いてしまいました。
元気だった頃は一緒に野球見たり笑点見たり外食に行ってと楽しい思い出がいっぱいあって、そのせいか昼寝をしても寝れなくてピアノを弾いても気分が晴れなかった。

4月4日病院から電話があって食欲がないので食べ物を持ってきてほしいとの事食べ物を持ってきて病院に行きました。

4月11日弟が病院に行って担当の医師と今後の事を話しに行き弟が母に会いました。
弟がLINEで送った写真と動画を見たら右半身が動いてなくて担当の医師から右足を支えるために装具があったほうが良いと言われて半年後退院したら母を見ないと行けなくてまた自分の事ができなくなるんじゃないかって不安と右半身が動かなくて帰ってくるんじゃないかって不安が強くなり、食欲もなくて食べ物を持ってきてほしいと言われ最悪の場合鼻にチューブを入れて栄養を取ると言われました。

4月15日弟と母の入院してる病院に行って食事を届けに行きました。
看護師さんの話だと固形物をあまり食べなくてコーラばかり飲んでると言われて不安になり、父も同じ病院に入院していて病室が同じ階なのに面会ができたらデイルームで家族水入らずできるのに面会できないから会えないのが辛い…。

4月18日弟が母の入院してる病院に行って食事を届けに行ったら母は焼おにぎりを食べる日と食べない日があって波があるとのこと
退院して食べなかったらどうしようという不安も出てきました。

4月19日母の誕生日その日母の推しの選手がヒーローインタビューを受けてました。
お母さんがいたら見せたかったなそんな気持ちになってしまいこの日の夜は眠れませんでした。

4月22日母が入院してる病院に行って食事を届けに言ったら前と比べると8分食べるようになったとのこと、食べれるようになったのはうれしいのですが退院したら自分の事ができなくなる不安でいっぱいになってきました。

5月11日制限付きで面会ができるようになり4ヶ月ぶりに父に会って2ヶ月ぶりに母に会いました。10分間の面会ですが父と母に会えてよかったです母は食欲がなくて手足が少ししか動かなくて口数が少なくなりましたが喜んでましたし父は痩せてしまい耳が遠くなり声が小さくなってました。

5月18日父が退院して銀行に行ってから老健に行きました。
しかし父は耳が遠くなり声が小さくなり足腰が弱っていて字を書いてと言われても字が書けなくて名前を書いてと言われても名前ではなくなぜか白米と書いてました。

6月15日母の面会に行ったら食欲が無く点滴をしていました。
母がコロナに感染してからですが良くなったと思いきや悪くなる事があったので不安になりました。

6月21日母の面会に行ったら食欲がなく点滴をしてるが体重が減ってるので胃ろうにする話になりました。

6月23日老健に入ってる父のオンライン面会に行きました。
オンライン面会に慣れてない父で耳が遠い父ですが私を見てわかってたりして久々に見れてよかったです。

7月12日母が胃ろうの手術をして7月16日面会をしたとき胃ろうのせいか元気がないように見えました。

7月19日病院から電話が来てコロナが増えてしまい面会が禁止になってしまいました。
私も母も週1で10分間だけでも会えて嬉しいのにまた会えなくなってしまい寂しいです。

7月27日午前中は父の老健のオンライン面会、午後は母の入院してる病院でソーシャルワーカーと今後の事で話す。
父は家で見るのは難しいと言われ母も家で見るのは難しく父と同じく老健に行って特養に入る可能性になりました。
母は認知症ではないので退院して帰りたいという気持ちがあったのですごく胸が痛いです。

8月18日母の入院してる病院に着替えも持ってきたら
リハビリの先生がいて遠くからだとお母さんに会えるのでお母さんに久々に会えました。髪の毛は伸びましたが前と比べると顔色がよくなりました。

9月6日母が入院してる病院から電話があり、食べれるようになったので胃ろうを取って1週間食べれるか様子を見るとのこと9月に退院予定で延期になり病室も変わる、退院するとなると自分の時間が取れなくなるんだみんなに会えなくなるんだという不安にかられてしまいました。

9月20日病院から電話があり胃ろうが取れて食べれるようになったので老健を探してくださいとのこと、老健に行くので母が帰ってこないのはわかったがその後は帰ってくるのかもと不安になってます。

9月27日母の老健が決まる。父と同じ老健に入ることになり移動する日が10月6日と決まった。
いきなり決まったので準備で大変だ。

10月6日母が退院して父のいる老健に転院しました。
今コロナ禍で病院は面会禁止で1ヶ月半ぶりに母に会いましたが痩せていて右半身が動かなくて立てないので父とは違い認知症ではない母は退院して家に帰りたいという気持ちのある母が帰れないのはかわいそうだった。
あと老健に行ったついでに父のオンライン面会をして父は9ヶ月ぶりに母を見ました。
私と兄と弟の時のオンライン面会の時は声がボソボソと小さくて聞こえないくらいだったのに父は母を見たとき声が出て元気になりました。

10月28日兄と弟と私で老健にいる父と母のオンライン面会に行きました。
兄は初めて老健に向かうモノレールに乗りました。
あとオンライン面会中タブレット越しに話して老健でも元気でやってる父と母を見て3人で泣いてしまいました。
コロナ禍じゃなかったら直接あって握手とか写真撮ったりしてたからね。

11月10日父と母が入所してる老健から便りが届いてハロウィンのイベントの写真が載っていました。
写真で姿が見れたので少しはホッとしました。
11月29日月一の父と母のいる老健のオンライン面会に行ったら。母は前と比べるとふっくらして笑顔になり明るくなって、父はいつも眠そうでボソボソ言ってるのに野球の話をしたら前に乗り出してしゃべりだしたので今日はお父さんは元気で私と弟で泣きました。

12月20日老健からLINEが届きクリスマスレクレーションで父がケーキを食べてる写真、母の認知機能のリハビリの動画が届きました。母の声は小さいですが、正答も多いので認知症の問題はなく、父は糖尿病で甘いものが食べれないと思ってましたが父が好きな甘い物が食べれてよかったです。
12月27日父と母が入ってる老健のオンライン面会に行きました。
父は最初はカメラを見てなくて送ってきた写真と比べると少しふっくらしてて
老健の人の話だと母は老健にいるときはあまり話さないのですがオンライン面会の時は話すみたいでオンライン面会の日が楽しみのようだ、しかし父と母のいない年末年始はすごく寂しいです。

1月26日オンライン面会に行ったら老健に入ってる父と母の写真が届きました。
これを見たとき母の知り合いから手紙を預かっていて父や母の親戚の写真を送ろうと思いました。
2月14日ベイスターズファンの父と母にユニフォームを老健に持っていきました。
2日後ベイスターズのユニフォームを着てリハビリしてる所を送ってくれました。
父は変わらずしゃべらず腕を組んでウロウロしてるのですが
母は左手で「がんばってるよ〜。」と手を振ってくれました。
ベイの力ってすごいな。

3月24日
老健にオンライン面会に行きました。
父を銀行に行かせたい事をケアマネジャーに話したら特別に行かせることができて老健から特養に入る話になりました。
いろいろ大変な事になりそうだ。

4月5日
銀行に連れて行くため半年以上ぶりに実際に父に会うことができた。
父は認知症で足腰が弱ってて話は噛み合ってませんでしたが喋っていて元気な父の姿が見れ半年以上ぶりに実際に会えてよかったです。
でもオンライン面会の時みたいに話すことは少なくて車の中で思い出の曲や好きな曲を聞かせても何も反応はありませんでした。

5月22日
8日から5類になったのでアクリル板越しで面会ができるようになる。
でもまだ月に1回で3名までなので兄と弟と私の3人いる時に老健にいる父と母に会いに行きました。
10分間でアクリル板越しでしたが、半年以上ぶりに直接本人に会えてよかったです。
でも別れるとき父は兄と弟が手を出したら握手をしてくれた。 でも私が手を出したら握手をしてくれなくてすごく寂しい…。

6月19日から老健の面会が月一から週一に変わったので6月23日に兄と弟と私とで面会に行く
母はベイが交流戦優勝した事を話したら驚いてました。あと父は面会する部屋に来たとき何かわかりませんが「情けねえな」と言っていて私が背中の骨が潰れていて湿布を貼ってたら背中がかぶれた写真を見せたら「でっかいおしりだな」と言ってました。

そして週一になったので26日の週は兄と弟が仕事と用事で行けないので私一人で行きました。
ベイが1位や桃が届いた話をしましたが、母はベイが1位で驚いてましたが父は無表情で喋らなくて山川穂高の事を話したら母は驚いてボーっとしてた父の目が開きました。あと最後に「お父さん誰だがわかる」って聞きましたが聞いた時違う所を向いてしまいました。

7月7日父と母のいる老健で父と母の栄養ケアを見たら主食が全粥で副食が父はきざみ食母はペースト状のムースになっていて父と母が車椅子と介護食になって寂しく感じました。あと何も話さなかった父が帰りに握手したら「絢香ちゃん、絢香ちゃん」と私の名前を呼んでくれました。

7月19日この日は午前中に老健に父と母の面会に行ったこないだ7月11日は母が胃ろうを入れ始めた為父だけだったのですが今日行ったのは午前中で母が眠かったみたいで口数が少なかった。でも帰りに握手はできました。

8月2日父と母のいる老健から電話があって、父がコロナ陽性になってしまった…。
その為次の面会はオンライン面会になってしまい
8月4日の面会はタブレット越しで母だけでしたかタブレット越しだと母がよく話してる感じがした。
あと特養探しの話で母が胃ろうなので特養と隣接する病院で胃ろうができる特養探しになりました。
そして8月10日の次は母がコロナに感染して老健でクラスターが発生してしばらくの間面会が中止になってしまった。
前の日の夜39℃の熱が出て薬を飲んだら
今朝は37℃まで下がったので最初みたいに咳や呼吸器の乱れや高熱の重くなかったのは不幸中の幸いだけど
今隔離してるのでしばらく面会できない&おそらくまたタブレットになるのは寂しいです。
8月28日老健に入ってる人が全員陰性になった為老健で面会が再開され9月1日に行く
母は元気でしたが喋らなくて父は珍しく話してました、寒いとか桜がどうとか言ってたが。

9月9日スターナイトでもらったユニフォームを父と母に渡す9月15日の面会の日に父と母はスターナイトのユニフォームを着てくれました。
9月19日老健に行った時特養の申込みをする老健に入ってて父と母の生活がわからないのでケアマネージャーに書いてもらったら父が刻み食母が胃ろうとゼリーになっていて元気だった頃ファミレスに行ってたことを思い出して悲しくなりました。

10月4日は先週父が来れなかったので話す内容が多くそして週1で10分間だからどうしてもスパスパと話してしまう。弟から「そんな一方的に話さないでキャッチボールしろよ」と言われました。父も母もあまり話さないので会話のキャッチボールの仕方がわからなくて落ち込んでいる。
10月18日
この日は珍しく父が何かしゃべっていて動画を撮ったりペンをもたせたがすぐにペンを投げてしまい終わりごろにはマスクを目まで隠してアイマスクみたいに寝てしまいました。

10月26日4年ぶりにカナダから帰国した母の友人を連れて父と母の面会に行きました。
母は友人が来てくれたことに驚いてたしうれしそうだった。終わり頃母と友人が握手をした時「会えてよかったね。」と私と弟は泣きました。

10月28日朝老健から電話があり父が肺炎のような症状が出て老健に来てほしいと連絡があり急遽老健に行きました隣接する病院で診察を受けたら肺に水がたまる心不全でした。
父は87だからどこかで覚悟を決めなきゃ行けない時が来るだろうな…。

10月30日老健の母の面会に行く、面会に来た時父と母の部屋は別の部屋で「お父さんいないけど」と言ってたのでいつもは父と母一緒なのに父が土曜日に入院してしまい離れ離れになってしまって寂しいだろうなと思い心配してるんだなと思いました。

11月1日いろいろ不安と覚悟を決めながら入院した父の病院の面会に行きました。病室に行ったらグッタリしてなくて父は起きてテレビを見ていて言葉も出ていて写真を撮ったら笑ったり手を出したら握手をしていて元気になってました。
元気な父の姿を見て私と弟は「よかったね、よかったね。」と泣きました。

11月16日母の老健と父の入院してる病院に面会に行きました。母はやはり父のいない老健は寂しくつまらないと言っていて父の入院してる病院に行ったら点滴も鼻のチューブも取れて食事も食べれて車椅子にも座っていて早くて今月末に退院できると言っていて面会に行ったら寝ていて10分間寝てる父を見てました。

11月30日父が退院して元の老健に戻りました。
最初はもう87だから覚悟を決めなきゃいけないと思ってたけど元気になれてよかったです。
弟と父の写真を撮ったらいい顔してて思わず「二人ともいい顔してるね」と言いながら写真を撮りました。

12月1日きのう退院した父もいて久々の2人揃っての老健の面会でした。父も退院後何も変わりがなくてホッとしましたし、
老健のスタッフから退院後の父と母の写真を見せてもらいました。
やはり2人ともうれしそうでしたね。

12月15日
父のリハビリ計画書が来ましたが父はこないだの入院で8キロも痩せてしまい食事も全粥でも口の中に残っていて飲み込みができなくて発語がなくやりとり困難でした。
面会の時足を見たら細くなってたし、父も母も話し好きで一緒に食事に行ってたので話ができなくて介護食になったのがさみしいです。

12月26日
訪問看護が終わり極楽湯に行く時老健から電話があり父が血糖値が高くて入院することになってしまった。
22日の面会の時写真を見せても手紙を渡しても寝てるようでケアマネからも寝てる事が多いと言われてたし、次の日病院に行ったらほとんど寝ていて目が少し開いていました。
心不全の心配はなく正常になれば退院なのですが今年は父と母は離れ離れで年を越すことになるんだなと思いました。

12月29日
弟が病院の先生から話があって病院に話を聞いてきたら、父の状態は良くなく2週間以内に少しずつでも食事が取れない場合は覚悟してくれと言われました。
87なので覚悟は決める時は来ると思ってたがやはりショックだったりするのです過去の事を思い出すと…。

そして年が明けて病院から連絡もなく1月4日に母の老健の面会に行く、母は一人で年を越して寂しいだろうなと思いましたが元気でした。
そして次の日父が入院してる病院から連絡があり
急遽面会に来てくださいと言われ9日話があると言われました。
これを聞いてから危篤なんだと不安だらけで病院の面会は2名までで兄と弟が面会に行き面会から帰ってきたら父は酸素マスクを着けてるとのことやはり覚悟は決めないと行けないのかなり不安になりました。

1月7日朝6時に父が入院してる病院から電話があって父が危ないので急遽病院に来てくださいと言われました。
父は呼吸してて寝ているようで体は冷たく痩せていた。心電図が低くなり点滅すると本当にビビる、もしかして父に会うのが最後になると思い急遽親戚も呼びました。
久々の再開に泣いてしまいましたし、ずっと不安でしたが
親戚と話をしたら不安な気持ちがなくなりました。

1月8日今日も父の面会に行きました。
父はきのうと同じく寝てましたが酸素マスクをして動いてました。
本当は春風亭昇太の寄席に行く予定でしたが父が危篤なので寄席より人の命が大事なので父の方を選びました。

1月9日今日は主治医の先生からの話でした。
父は腎臓の数値も悪くて食事が取れなくて毒素を排出できないとの事いつ亡くなってもおかしくないので電話にはすぐに出れるようにしてくださいと言われました。
訪問看護もしばらくの間落ち着くまで休みました。

1月10日面会に行ったら呼吸をしてなくて
隣の老健にいる母も来ました。
そして2024年1月10日15時12分私の父が糖尿病から来る腎不全で亡くなりました。87歳でした。
年末から酸素マスクで寝ていていつ亡くなってもおかしくない状態でした。
最後に家族全員に看取られ天国に行きました。
2週間がんばったよ私の自慢の父だよ。
亡くなった父の顔を見ると笑って寝てるように見えました。
天国で空襲で亡くなった家族に会えて嬉しいんだろうな。

そして葬儀屋が来て父は葬儀の車で病院を後にしました。

しかし家族全員揃ってる時に看取られたのはよかった。
亡くなった時は家族全員で泣きましたね。
でも一番心配なのは長年連れ添っていた父が亡くなって母が落ち込んですごく弱ってしまわないかが心配ですね。