イチョウ | akazukinのブログ

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「日本史のいわゆる「非常時」における「抵抗の精神」とは真理追求の精神、科学的精神に他ならない」野々村一雄(満鉄調査部員)

熱帯アマゾンにはないイチョウのことが、プロトキンの豊富な知識から著書の中にて紹介されていた。


知っている人には大昔から使われてきており、珍しくもないが、われわれにとっては強力な「新薬」となる植物成分に、イチョウの抽出物がある。イチョウはチャールズ・ダーウィンに「生きた化石」とも呼ばれれるイチョウの近種の(現に二億八千万年前のものとされる化石が発見されている)、地球上でもっとも古くからある植物の一種だ。野生のイチョウはすでに絶滅して久しいが、中国や日本の寺院の庭で生き残り、両国では五千年も前から、喘息やアレルギー性の皮膚炎などの薬としてその抽出物が使われていた。今日ではイチョウの成分は、ヨーロッパ全体で売買され、年間七億ドル以上の収入を生み出している。


「シャーマンの弟子になった民族植物学者の話」(上巻)マーク・プロトキン著、築地書館、1999年刊、12頁


日本で至る所に植えて愛でていたイチョウは、私個人としてせいぜい銀杏を拾うくらいだったが、ヨーロッパのようにイチョウ葉エキスを薬として研究しいち早く商品化し市場に流通している様は、目を見張った。


5000年前の中国『神農本草経』ではイチョウの葉と実を煎じた吸入薬が記載があり、これが文献に名を現した最初であるという。


2億年前頃に地球上広く繁栄し170万年前の氷河期の直前期に現生種が一度絶滅した。その後中国南部の浙江省天目山で生き残った種が繁殖し、日本にもたらされたのはその改良種だと言われている。


鎌倉時代に八幡宮の神社や寺の境内で火事に備えてイチョウは多く植えられた。
古代から生き続ける生命力をかわれてのことだ。
雷に打たれても生き残ったり、戦災をくぐりぬけたイチョウも報告されている。


九州宮崎の高千穂の天の岩戸神社にある銀杏と長野戸隠神社にある銀杏は同じ種であるという。
イチョウの葉に見られる割れがこれらにはないとして「古代イチョウ」といわれている。


ヨーロッパで「生きた化石」と呼んだのは、ダーウィン(1809-1882)が最初というのは定かではない。
イチョウはその前に知られている。


エンゲルト・ケンプファー(1651~1716)、というドイツ人医師がオランダ領インドネシアの東インド会社を経由して江戸時代(元禄時代、綱吉将軍)1690~1692年、長崎に入国した。


鎖国の折、唯一海外貿易を許可していたオランダは、ヨーロッパ・イルミナティの本拠地のひとつだった。
江戸時代交易国だったオランダに日本は情報を提供していたことになる。


日本でケンペルとして知られるこの方は、日本で初めてイチョウを発見しオランダに持ち帰り、それからヨーロッパ中に広まった。


ケンペルの帰国後書かれた本(1712年刊)によって、リンネ(Carl von Linne、1707-1778)が学名を命名した。
ケンペルの後続として、ツンベリー医師(Carl P. Thunberg; 1743-1828;1775-1776年滞在)、シーボルト医師(Philipp F. von Siebold; 1796-1866; 1823-1829年、1859-1862年滞在)、
らがやはり、東インド会社を経由して日本で精力的に植物の採集調査している。


オランダ東インド会社は1799年に倒産解散したが、同じ海域では、イギリス東インド会社も活動していた。イルミナティのアジア進出の足場として天然資源の調査のみでなく、諜報活動も兼ねている。


トマス・スタンフォード・ラッフルズ卿(1781~1826)もイギリス東インド会社を通じてスマトラ、ベンクーレンに副知事として赴任した。歴史学者、動物学者、植物学者でも知られて情報を常に自国に送っていた。地政学的にシンガポールの重要性からこの地域をイギリス帝国領植民地として開発した。


イギリス領マレー半島、オランダ領東インド(インドネシア)が、第二次世界大戦(大東亜戦争)で日本軍の進軍により、オランダによる350年の東インド支配に終焉を迎えた。この点からもイルミナティは日本を常に敵視しているという。


ちなみに、ケンペルは、イチョウや日本の植物をヨーロッパに紹介したのみでない。
彼の来日と共に日本に紹介したのは、歴史家ケンペルとして「日本人シュメール起源説」であった。


(2009.10.5)