おんぶ。 | 大辻織絵 ―「Yesだった。」

大辻織絵 ―「Yesだった。」

織絵さんが、今日のことや昔のことを回想しながら、いまに生きるさまを書き綴っています。

 


近所の奥様が玄関周りを一生懸命お掃除されていた。

1歳くらいだろうか、小さいお子さんをおんぶされていた。

寒い中、一心にタイルの目地をブラシでこすっておられたのだが、手の動きに呼応して全身が揺すれると、おんぶされたお子さんも同時に揺すれる。

あまり見つめてもいけないとは思うものの、つい気になってしまう。

なんとも美しい母と子の姿だった。

 

 

十代の頃だったか。おんぶをしている女性の姿を見るととても気恥ずかしくなった。なぜなら、おんぶする紐を胸の前でクロスさせて背中に赤ちゃんを固定するせいで、やけにおっぱいが強調されて見える。子育て時期のお母さんのおっぱいは多かれ少なかれ大きくなる傾向にあるようなので、おんぶ紐を縛るとおっぱいが体の中で最も前に出ているような感じになってしまう。自分が子どもを産んだとしても、あれはぜったいにやらないぞと思っていた。

 

 

時は経ち、20年近く前、スリングという赤ちゃんを体の前で抱っこする形の抱っこ紐が流行りはじめた。欧米から入ってきた習慣だったと思う。スリングーslingーは、吊り下げるとかいう意味だと今初めて知ったが、まさにそういう雰囲気のかたちになり、コウノトリが赤ちゃんを運んでくる絵に似ていた。赤ちゃんとお母さんが目をあわせられるので、赤ちゃんの情操に良く、お母さんも両手が空いて便利だとか、安心だとかいうことだったと思う。

お母さんの鼓動をお腹にいた時と似たような近さで聞けたり感じたりすることや、スリングの布に体が丸まって入る姿勢がお母さんのお腹にいた時の姿勢と似ているとかいうこともあって、赤ちゃんの安心につながるんだというお話を聞いたこともあった。それを聞いて、深く納得した。

見た目も良く、赤ちゃんにも良く、母子の間のコミュニケーションが深くなり、やりにくいことはあるかもしれないが、両手も空くなら、いいことづくめではないか。強度などが適するものであれば、スリングは好きな布地で自作出来るというのも素敵だなと思った。

 

 

5年ほど前だったろうか、何かの拍子にふと、「おんぶって凄い!」と直感的に思ったことがあった。

直感の後、なるほどと独り合点をしたことが蘇った。

 

お母さんが両手を両足を使って目の前の「事」に取り組むときの、その振動や筋肉や骨の動きや鼓動や、体温の上がり下がりや汗の湿り気や、もしかしたら、「事」のやり方や体の使い方や、そうする想いや感情や心のありようまでもが伝わってくる、お母さんの背中に密着しているかダイレクトに・・同じ方向を向いているだけでなく、二人羽織のようになって、背中とお腹をぴったりくっつけて、互いの右手左手右足左足がそれぞれに一体のような状態になっているからこそ、言葉では伝えきれない、人が「事」に相対するリアルなありようが体感として自然に母から子へと伝わる、幼稚園や学校に行く前に、言葉の前に、言葉より奥のほうで、無理なく学べる機会なんじゃないか・・

 

 

 

 

父にちゃんと向き合って欲しかった私だった。父は私と向き合うのは苦手だったのだと思う。父も祖父祖母と向き合ってもらっていなかった。そういうことに慣れてもいないし、戦前生まれの男がそんな風にすることは恥ずかしいとかバツが悪いとかいう部分もあったかもしれない。

どんなに産科医として立派であっても、父は自分と変わらない人間で、完全無欠などではないものを、私自身が父に完全無欠な神のようなものを期待してしまった。そして、当然そうでない父を責めた。

そんなに私は欲深ではなかったつもりだが、人間が人間に対して、いちばん与えるのが難しいものを父に求めてしまっていたのかもしれない。

 

そうだ。父の医院の手伝いを曲がりなしにもさせてもらっていた頃は、軋轢はあっても、楽しかった、やりがいがあった、そんな部分は確実にあったなと思い出す。

おんぶみたいに、同じ方向を見て、一緒に歩んでいられたら、向き合えなくても、向き合わなくても、大丈夫な気がする。

もし向きあえるチャンスがあったなら、それはとても素敵なプレゼントなんだと思う。

 

 

 

私は極端な性格で、ついつい、これはいいと思うと「これこそがいい」と思い過ぎてしまいがちだ。

こうやって、左右にグワングワント振れながら、バランスが取れていくのかなと思う。

 

 


 

おんぶのことを思っていたら、こんなところまで想いが広がってしまった。

 

私は子供の頃のことをあまり覚えていない。抱っこされたこと、おんぶされたこと、全く覚えていない。思い出せない。

こんな歳になっても、ふざけて夫の背中におぶさることがある。ふざけて、ではあるのだが、相手の背中とこちらのお腹がぴたっとなるおんぶはなんだか、嬉しい。

 

 

母もきっと私はおんぶしてくれていただろう。

その時、きっと私はどんなにか安心で安らいだ気持ちだっただろうか。

 

 

久しぶりに、いま、母を近くに感じている。