カフェにいるのが心地良い。
見ず知らずの他人の喧騒がこんなにホッとするものなのだと気がついた。

興味を示されない。
でもそこに人の温もりがある。




仕事や友だち、家族と一緒にいる
少し今はキツイ。
何も聞かずにそばにいてくれる。
それはわかる。
それでもキツイと感じる心を大事にしよう。

きっと、少し元気になった筒井千賀を見せたくなる。
たくさん心配をかけたから。
「ほら大丈夫だよ」って。


今はまだ無理だ。
無理だと感じている心を大切にしよう。

この状況を受け入れてくれている人々に感謝を。

今は見知らぬ他人の気配が心地良い。





もしかしたらウツになってしまった人もそうなのだろうか?
人の気配を感じていたい。
ただあるがままに人の気配に紛れていたいと。

だからどこかへ出掛けるのかもしれない。
ただ見ず知らずの他人の気配を感じていたいから。







少しだけ楽になってきているように感じている。

AIニンゲンにやめてと言っていたと気がつけたせいかもしれない。

私にとってAIでも他人に取っては人間なのだろう。

そして「AI」は「あい」、「愛」。
見る角度を変えれば「愛」なのだと。
でも私には「AI」だっただけの話だ。
ただそれだけだ。

住む世界が違うあの人と私。
出会ったから傷つけあったのだ。
出会わなければ誰も傷つかなかっただろうに。
出会う運命だったのだろう。
出会いと別れを体験するために。

私はこの経験を役に立てる。







私はもう迷わないように友だち基準を設定してみた。
自分の死んだ後の葬式来て欲しい?きてほしくない?

筒井千賀の人生劇場の終幕にきて欲しい人は誰だろう?


日経ダイヤモンドを読んでいたら書いてあった。
「私が付き合う人は20人」と、

それに質問がされていた、
「これから新しく出会う人達はどうなるんですか?」

「そうしたら常に20人のリストを入れ替える。私の人生で付き合えるのは20人までだ」と潔く書いてあった。



それを読んだ時に冷たいと感じた。
しかし命は時間なのだ。
自分の命を削ってまで会いたい人って?と考えた時
「その20人基準はわかる」

自分の命を時間単位に変えて、会う、思いをはせる。
葬式に来て欲しくない人に命を使うのはやめよう。



自分に「あの人はどう?」と問うてみた。
わたしは全力で
「来るな!!!死んでまで私に気を使わせるな!来んでよし」
それが答えだ。

もうやめよう。
あの人の事を考えるのは、
命の無駄だ。
ただこの状態を招く手伝いをしてくれた事に感謝をしよう。
あの人でなければ私をここまで殺せなかったのだろうから。





葬式基準で私の周りの人間関係を見てみる。

今はFacebookでしかつながっていない人
「もし時間があって、来てくれたら嬉しいな」と
浮かぶ人達。


リアル関係は?
「あっ、私の葬式プランを話してるから家族に伝えて」


「あっ、あの人には葬式に来て、身内に混じって弔問客にお茶出して欲しい。そんで知り合いでもない私の友人と「千賀さんバカでしたよね」と笑って欲しい」


あの人には葬式に来て欲しいけど、気分的に愛人の立場なので、そっと式場にきて陰ながら涙を流して欲しい


別の人は、
私の葬式の連絡を受け取っても「あっ、その日仕事で無理」と言いながら
後日、知り合い同士で飲みながら私を語って欲しい。
ほんの一言二言。そして違う話題で盛り上がって楽しんで飲んでと思う。


そんで妹はなんやかんややりながら、門番のように私が来て欲しくない人が来たら追い返して欲しい。
いや、ヤツなら言わなくても確実に追い返す。
間違えない。





そっか、これからは葬式基準で行こう。
葬式基準を考え出したら楽しくなってきた。


もういい人でいるのはやめる。



私は葬式に来て欲しい人のために命を使い、それ以外の人はどうでもいい。

私は私の葬式に来て「千賀さんバカでしたよね」と笑って語ってくれる人のために。





仕事関係は別になるのかな。

それでも葬式基準で考えよう、
その職場の人間関係の人に来て欲しい?来て欲しくない?

今の職場なら、どっちでもいい。
来ても来なくても。
どうでもいいんじゃなくて、来るか来ないか選ぶのは相手だから。

だから私は今の職場が居心地がいいのだろう。

今の派遣先が終了して、次を選ぶ時も葬式基準で更新しよう。