心が、頭が騒がしい。

上へ下へと騒がしい。




ブログのアクセス数を見て、
上へ下へと騒がしい。





このアクセス数が必要な人、私を心配してくれる人へ伝わってると思うと嬉しい。


やらかしのアクセス数だと思うと怖い。
なにせ実名。
また頭の中に「消せ!消せ!」が来るのかと思う不安。



私のブログが「世界発信だ怖い」と言ったあの人に届く不安。
あの人をこのブログから確定出来ない。
出来るのは本人と今回の件に関わった数人だ。



ブログ書いても2桁前半台のアクセス数が3桁更新中。
怖くなる。



それでも必要な人へ届けと湧く思い。
まだ見ぬ世界のあなたへ。





こうなった時、人は寄り添ってくれる。
「うん、うん」と

私も同じような人が自分の大切な人なら心底寄り添う。


だけど、まさかの想像超え。
Excelのファイル名変換が重労働?
コピペ出来るのに?
こんな心境はわからない。

心を尽くして寄り添ってもわからない。

通常モードの時は同じ作業にしか感じないからだ。


それでも心が壊れると微細なことが、同じように見えるものが全く違うものになる。


通常モードの時に感じる微細なズレを修復して仕事をするのは容易い。


こうなった時は微細なズレを直すことが重労働。




こんなのは心が壊れないとわからなかった。



わからなかった事は書こう。
書かないと忘れてしまう。


明日の私は忘れる。

1ヶ月後の私はそんな事を思ったことすら忘れる。

一年後の私はこんな状態になった事すら笑って話せるようになる。
「そんなこともあったよね〜」と。



だから書こう。
この状態にならなければ出てこないこの状態を。

どんなに心を尽くして寄り添ってもらっても、理解されないこの状態を書こう。









そして、頭がバラッパッパッ〜となっている時は、
本になって、ドラマになって、インタビューされて、統計心理学を語っている私がいる。

届け!届け!と書いて、届いた快感を味わいたいのだ。


なんとも忙しい頭の中だ。



世の中に統計心理学で素質の違いが広まっていたら、こうなる前に、傷つけ合う前に、お互いを分かり合えていたのであろうかと想像する。



「いや無理だ」
とささやく頭の声。


「理解し合いたい」
「わかろう」
そう思う心がなければ、統計心理学もただの知識の情報になってしまうから。


心がなければ無機質なものでしかないのだ。



統計心理学を伝えたいと行動している人々には心がある。
それの違いだ。