「分かる」と思った時点で分からなくなる。 | 「自分のままで“養護教諭”になる」YOUKYOUカフェ・柏木むつき

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半年前にこんな内容を書いたのですが↓

「私は○○について知っている」

と思った時点で、

「それ以上」はないな、と思う時があります。

そこで終わっちゃうな、と。

 

もちろん「知っている」ことは大事だし、

「知っている」ことを否定するつもりもない。

 

けれども、

「私は○○について知っている」

ということは、

時にそれ以上を知る機会を自ら奪っていることもあると思います。

 

これって、人間関係においても同じことが言えるなぁと。

 

 

「知らない」とか、

「分からない」とか、

そういうのって、日常生活において

何でか(これまでの教育とか)「マイナス」な感情を持ちがちだから

(知らないなんてダメだとか、

分からないなんて言えないとか。。。)

ついつい、

「知っている」

「分かっている」

ことがいいと思ってしまうこと、あると思います。

 

目の前の「相手」のことだって、

おそらくどんだけ長いこと一緒にいても

(たとえ親子であっても)、

信頼し合っている友人でもパートナーでも、

100%「知っている」「分かっている」「理解している」

なんてことはあり得ない、と思っています。

だって「その人」じゃないんだから。

 

 

「分からない」って思うからこそ「知りたい」って思うわけで。

「分かる」と思った時点で分からなくなる。

そのことを「知っている」方がよっぽど大事な気がします。

 

 

「分からない」からって「分かること/知ること」を放棄するのではなく、

ここで書いたように↓

 

どんなに頑張っても、

「相手の気持ちを100%理解することはできない」

ということは分かったうえで

(「相手の気持ちがわかる」と思い込んだらそれはとってもおこがましいことだと思う)、

「相手の側(がわ)に立つ」ということ。

一方的に決めつけたり、

一方的に自分の「解釈」だけで理解するのではなく、

目の前の相手と自分の間に起こった出来事、として考えてみること。

という姿勢は忘れたくない(し、忘れないようにしたい)。

 

 

特に「学校」という場にいると、

つい、

子どものこと「分かった気」になったり、

先生たちのこと「知っているつもり」になったり。

相手が「人」じゃなかったとしても、

既存の制度やマニュアルに当てはめて、

「これは知っているからいいや」

「どうせ○○ってことでしょ」

「できるから関係ないや」

って学ぶことをやめてしまったり…。

 

本当に私は「知っている」のだろうか?

本当に私は「分かっている」のだろうか?

本当に私は「できている」のだろうか?

 

そんな風に考える姿勢を忘れず

(だからといって自分を過小評価せずに)、

自分の大事な人やモノと向き合っていきたいなって思います。



(美味しかったものシリーズが久しぶりにできそう!ずっと外食してなかったから💦)

 

 

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