今年もやってきた「教員採用試験の夏」に思うこと。その2 | 「自分のままで“養護教諭”になる」YOUKYOUカフェ・柏木むつき

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【保存版】養護教諭シリーズ

 

やっと「夏休み」を感じる時期になりました。

とはいえ後回しにしてきた仕事や、

全く時間の取れなかった研究を進めようと思っていたら、

毎日があっという間です。

結局、時間があったらあったでダラダラしてしまうので、

結果としてそれほど進まないというジレンマ…。

 

 

前回の続き↓

 

ここで(というか何度も)書いている

「受かっても落ちてもあなた自身の価値は何にも変わらないよ」

ということ。

ここに対して少しだけ補足。

 

私は元々

「受かった自分に価値がある」

と思っていた人間でした。

だから、一度目の採用試験で落ちた時に、

「落ちた人間には価値がない」

という評価を自分に対してくだしました。

 

もっと言えば。

私は私自身にだけではなく、

周りの誰かに対しても、

「○○できるあの人は価値がある」

「○○できないあの人には価値がない」

と心のどこかでジャッジをし続けていました。

その積み重ねをただ、自分に当てはめていただけだった。

それだけのことです。

 

「成績の良い子の方が偉い」

「足が速いあの子の方が優れている」

「役職についている人はすごい」

そういうところで、

いつもいつもいつもいつもその人の価値を(勝手に)決めていたから、

いつもいつもいつもいつもそういうことばっかで人と比べていたから、

私は自分が落ちたことを受け入れられなかったし、

受からない自分を責め続けたんだろうな、と思います。

 

 

私は受かった自分を褒めたり、

頑張りを讃えること自体を否定しているのではなくって。

この時点で(一次試験の段階で)受かった人に価値がない、とか

そういうことが言いたいのではなくって。

「受かった」とか「落ちた」ということは単なる事実であって、

それ自体があなた自身の「価値」とはイコールではないよ、ということ。

「受かっても落ちてもあなた自身の価値は何にも変わらないよ」

とはそういうことです^^



(毎日暑い!暑くてサンダルしか履けない!)

 

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