「一億総活躍社会」の意味するところー日本社会をどこに向かわせたいのか? |  政治・政策を考えるヒント!

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   政策コンサルタント 室伏謙一  (公式ブログ)

 10月7日、第3次安倍改造内閣が発足した。その顔触れについて、初入閣や派閥による待遇のさが世間を賑わしているようだ。閣僚の能力に焦点を当てた論調があってしかるべきだと思うが、そうしたものはあまり見られない。私が見る限り、能力に疑問符が付く閣僚は散見されるのだが。

 誰がどうだという各論はさておき、9月24日に発表された「一億総活躍プラン」を受けて、一億総活躍担当大臣なるものが新たに設けられた。設けられたと言っても、新しい役所が出来たわけではなく、内閣府特命担当大臣の1人が一億総活躍担当になったということなのだが。ちなみにこの内閣府特命担当大臣、大臣とは言っても、内閣府の主任の大臣たる内閣総理大臣のある意味分掌職であり、独自の権限はほとんどない。

 その一億総活躍担当大臣に任命されたのは、加藤勝信衆議院議員である。ここで加藤議員、もとい加藤大臣の能力的な評価について、私の知る限りのところを先に述べておくと、悪い評判は聞いたことがなく、一方で飛び抜けて何かということもないようであるが、無難にソツなく仕事をこなす、有能な元財務官僚人材のようである。

 その加藤大臣が担当する「一億総活躍」、一体何なのか分からない、イメージがつかない、意味不明といった評が報道では見られる。確かに「一億総◯◯」といっても、戦時中でもあるまいし、何か具体的なものと結びつかないのは無理もない。(年が上に行けば行くほど、「一億玉砕」とか「一億火の玉」とかいった先の対戦中の政府の標語を想起して、薄気味悪い気分になったかもしれない。)

 ここで加藤大臣の詳細な担当を見てみると、一億総活躍、女性活躍、再チャレンジ、拉致問題、国土強靱化、少子化対策、それに男女共同参画である。内閣府特命担当大臣の担当分野はその時の内閣によって異なるが、改造前の安倍内閣の担当大臣で担当分野が近いのは、有村大臣であろう。当然、有村大臣の時には「一億総活躍」というものはないのだが、有村大臣の担当として、任命時の担当として記載されてはいなかったが、内閣府の所掌に係る詳細な担当事項の一つとされていたものに「共生社会」というものがある。

 この「共生社会」担当、「一億総活躍」よりはなんとなくイメージはしやすいものの、同じように何のことなのか分かりにくいと思うが、内閣府に共生社会担当政策統括官なるものが置かれている。その具体的な内容は高齢社会対策、障害者対策、犯罪被害者対策、子供・若者育成支援、子供の貧困対策等であり、複数の府省のまたがる政策の総合調整がその任務である。要するに、国民みんなが、その置かれた状況に関わらず、共に生きられる社会を創ろうということのようだ。

 どうも「一億総活躍」、この「共生社会」幅を広げた概念のように見える。24日のプランの発表の際も、安倍総理は高齢者の活躍や子育てのみならず、障害者の参画にも言及している。短絡的に考えれば、「共生社会」というラベルを「一億総活躍」に置き換えただけのように見えるし、そう聞くとなんとなくいいことのように思えるかもしれない。しかし、なぜ「一億総活躍」するという発想になったのか?そこにこの「一億総活躍」の本質があるように思う。

 各人が置かれた状況、環境に関わらず参加し、活躍できる社会、総論としては素晴らしいと思うし、明確に反論する人はおそらくいないだろう。ただし、社会に参加し、活躍できるようになることと裏腹に、これまで参加ができないかしにくかった人々、活躍する機会がないかそれが得られにくかった人々に対する給付が減らされうるということを想像できる人は多くはないのではないか。

 分かりやすい例で言えば、高齢者が社会参画できるようになると、60歳や65歳で定年、年金生活入りという、士業や高度人材を除いて、これまで比較的当たり前だった人生のある意味方程式が崩れる可能性が大きくなる。多くの高齢者が、例えば75歳まで働いて、収入もある程度得られるということになれば、年金の支給開始年齢の引上げや医療費の負担割合の引上げは当然本格的検討の俎上に載せられるようになるだろう。

 高齢者も含め、国民が健康になって医療費が減るのであれば、それはそれに越したことはないし、むしろ望ましいことであろう。しかし、そのことが前提となって、そうした社会保障給付が減らされてしまうのであれば、本末転倒も甚だしいと言わざるを得ない。

 要介護の高齢者が減ることも、健康で大病を患わない人が増えることも、働ける人がいつまでも働けることも、そんな社会が実現することは本当に素晴らしいと思う。ただし、それが実現される前に、実現されたかのように、高齢者への給付開始を遅らせて、働かざるを得ない状況に追い込んだり、若者と仕事の奪い合いをせざるを得ない状況を作り出したりするのであれば、「一億総◯◯」の名の下に、国民を戦争に駆り立てていった戦時中の日本と何ら変わりない。

 「一億総活躍社会」の意味するところとは、つまり社会保障給付の削減ということであって、日本を共生社会や助け合い社会と正反対の方向に向かわせるということなのか?