できるの できないの
やるの やらないの

ほんとは 何を望んでいるの

抜け出したいの ここに居たいの
帰りたいの 

ここが帰る場所だったら…?

いつまでそうして
いじけているの

立ち上がるとき 

自分の手で 扉は開けるもの
最近、ふわっと自分の身体から自分が抜け出す感覚を覚える。
人には伝わらない感覚なんだけど。
自分の身体が自分じゃないように感じる、と表現した方が伝わるのかな。
とは言え自分にとっては「身体から抜けちゃう」方がしっくり来るのですが。

昔からこの感覚は共にあるのですが、少し思い起こすと成人してからは環境が変化する少し前によく起きてるような気がします。
学校を退学しようか悩んだ時(この時は結果もう少し踏ん張って留まったけど)や、違う勉強のためにもう一度学生をしようと決めた時、休職する前も。

と、言うことは今は何かが変わろうとしているのだろうか。

身体から抜けちゃう感覚に強い恐怖は感じないけど「あー、やばいやばい抜けてる」くらいの焦りはあるので、抜けなくて済むなら抜けたくはないのです。
とは言えコントロール出来るものでもなく。

ただ流れに任すしかないのは、少しのもやもやを残すのです。

日本語以外で自分の思考を自由自在に、、不足なく表現し切ることが出来る言語は私にはない。
それでも日本語以外の、まだまだ習得し切れていない言語で自分の思いを表現しようとするとき、日本語を使って考え、話す時からは想像もつかないほど素直に率直に自分の気持ちを表現していることに気づく。
日本語を使うときよりも心が開放されていて、やわらかく居られる心地よさがある。
もちろん語彙は限られ、表現は稚拙だからその言語のネイティヴからしたら子供の言葉と大差ないかもしれない。


自分が日本語を使って過ごして来た中で経験した、小さな挫折感が重みを増して、いつの間にか檻のように自分を閉じ込めてしまったのかもしれない。
自分を守るためか、相手を傷つけないようにか、全てを消し去るためにか。。

違う言語を使うとき、私とその言語の間にしがらみが生まれていないから、率直に表現できるのだろうか。
だとしたら日本語とのしがらみは早く解消したい。
日本語で考えるとき、感じるとき、どの言葉ならば私の中にある感覚が的確に表現出来るかを探していく作業は好きだから。
こぼれ落ちる感覚がないように丁寧に言葉の網を巡らせることは、自分を救うセーフティネットだったから。
それが自分を縛り付けるものに、いつの間にか変わってしまったのなら、そこからまた違う関係を結べるようにしたいと思う。

違う言語を使うときのような素直な明るさを日本語にも持ち込めるように。
自分や世界への眼差しを、変えていければ。