徳川家康は将軍足利義昭に嫌われていた?(大河ドラマ考375家康1) | Prof_Hiroyukiの語学・検定・歴史談義

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源氏将軍3代で滅亡を目にした平家の生き残り達!(大河ドラマ考374鎌倉殿44-48)

以来、久々の大河ドラマ考です!

衆年度に入りました。本務校でも本日は入学式。そして午後はクラス分けのテストと、入学早々学生も大変ではあります。

さて、今回は久々にNHK大河ドラマの話を:

本年は「どうする家康」。若き日の家康(松平元康)の事件も最近の研究を元に詳しく描写されていて、ややコメディタッチは気になるものの面白い展開です。

昨日2023年4月2日は13回{家康、都へゆく」の本放送がありました。

家康は新将軍足利義昭の招きに応じて上京。義昭に拝謁しますが・・という筋。
武田信玄、織田信長も相当アクが強く描かれていますが、足利義昭や明智光秀も相当な曲者に。恐らくこの二人は「家康と仲が悪い」という設定なのでしょう。
徳川家康と足利義昭・・・同時代を生きていながら、確かに接点は少なそうで、間にいつも織田信長か豊臣秀吉が入っているような印象を受けます。

では、本当に家康と義昭は仲は悪かったのでしょうか?

(1)まず、なぜ義昭は家康を「松平呼ばわり」?
ドラマ内で、義昭は家康を田舎もの呼ばわりし、松平から徳川に改正したことを意に介さない様な態度を取っています。
ただ、義昭が家康を松平呼ばわりしていたのは史実だそうです!

なぜか?まずは、の年表を御覧頂きたい:

永禄8年(1565年) 将軍足利義輝 暗殺

永禄9年(1566年)徳川家康 三河守(松平→徳川)

永禄11年〈1568年〉足利義昭 征夷大将軍


以前、伊勢氏綱が北条氏綱に改姓するのを認めたのは幕府でした。
ですので、徳川改姓の承認は本来幕府が行うはずのものだったのですが・・・
この時期前将軍足利義輝は暗殺され、義昭就任まで京には将軍は不在(間に義栄が就任していたものの京入りできず)。致し方なく、関白・近衛前久が動いて朝廷からの改姓・任官に至ったという経緯があります。

ドラマでは改姓はスムーズに行われたと述べていましたが、その台詞をしつこく繰り返すことで
「本当は、改姓には苦労した」という事を示しているという訳です。


・・・将軍不在だったのだから仕方ない事とは言え、義昭からすれば「将軍である(所に時点ではまだ将軍ではなかったはずですが)私に断りなく「勝手に」徳川を名乗るとは何事か!そういう腹で居続けたことは間違いありません。


(2)二人はずっと仲が良くなかった?
実は、一度転機は訪れます:
義昭と信長の中が険悪になると、今度は掌を返すように義昭は家康に接近しようとします。
義昭による「家康の征夷副将軍就任」の打診もその方策の一つ。
ただ、それが義昭による信長包囲網策の一環であることに気づいた家康は征夷副将軍を辞退。足利将軍の権威も下火となり、そのまま二人が手を携えることは無かった・・・という訳です。 (次回につづく)