語録52 | パーサによるトマスの福音書

パーサによるトマスの福音書

Closing the Circle: Pursah's Gospel of Thomas and a Course in Miracles

「神の使者」、「不死というあなたの現実」で再生された、トマスの福音書について書かれた「Closing the Circle」の和訳です。

野口博和さんから以前頂いてた、和訳をアップしています。

 語録52 

弟子たちが彼に言った。「イスラエルで二十四人の預言者が語り、そのすべてがあなたのことを語りました」彼は彼らに言った。「あなたがたはあなたがたの前にいる生きている者を軽視して、死者を語った」

The disciples said to him, “Twenty-four prophets have spoken in Israel, and they all spoke of you.” He said to them, “You have disregarded the living one who is in your presence, and have spoken of the dead.”


エゴにとって、永遠とは、単に 「沢山の時間 “a lot of time”」であるように思われるし、それは過去に生きているので、長命 (longevity) が妥当性と権威(relevance and authority)を測る方法である、なぜならエゴは、私たちの目の前にあるものを、ありのままに見ることができないからである。
私たちは、このことが多くのレベルで意味を成していないことに気付くだろう。 数学的にさえ、「無限(infinity)」 とは、決して辿り着くことができない、ある種の制限だということは明らかである、―エゴの体系のうちでは、と付け加えるかもしれないが。

この言葉は、時間的な意味を求めて過去を見つめようとするエゴの要求(それは霊である私たちへの「冒涜」である)に対する非難として、非常に興味深い。エゴは、いつも霊の直接性の前に怯え、自らとその価値観を守るために過去を利用し、そうして霊的な今の直接性に身をゆだねることを避けている。

ある意味で、この言葉は、キリスト教がその上に教会の代理権威の根拠を置こうとした、明らかに間違った構成概念である「使徒継承」という教義への、先行的論駁である。その結果、イエスは、権威というものが、時間と空間という観点による物理的関係や伝統や長命などに基づくこの世界に、深く引き下ろされることとなった。

「使徒継承」という概念は、ペトロが最初の法王であり、イエスの教えが代々の法王の系統を経て受け継がれてきたという、独善的な遡及神話に始まっている。それゆえ、次期法王の儀式的選挙が、非常な重要性を持っているのである。この概念は、イエスとマグダラのマリアの間に子供があり、その子らが彼らの仕事を継続したと信じる人々から、近年たくさんの注目を集めている「キリストの血統」と同じように、愚かで無関係なことである。その考えは、『ダ・ヴィンチ・コード』という本や、多くのその他の資料により広められたのであるが、私にはそれが何に基づいているのか、はっきり分からない。

どちらの場合にも、形式や物理的現実性が、霊よりも優先されている。これは、イエスが
「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」
“For whosoever shall do the will of God, the same is my brother, and my sister and my mother.” (マルコ3章35節)
と言った時、彼が教えようとしたのは反対のことである。
別の言葉で言えば、イエスは形ではなく内容を信じていたのに、明らかに血縁の考えと同様に無関係な「使徒継承」のような形式的正当性によって、世界はその転訛(てんか、bastardization)を合法化しようとしているのである。

 この世界では、私たちは皆、いつもこの同じ間違いをしている。私たちはみかげ石は硬く、泥はそうではないと考え、これらの違いは単なる錯覚の一部で、その目的は、私たちにここにある何かが永遠であると思わせることだ、ということを忘れている。
こうして私たちは、この時間と空間の世界を信用するように「誘惑され」、その信用を固めるために、イエスをこの世界に引き下ろそうとするのである。私たちの永遠の現実(或いは、私たちの「不死という現実」と言うべきか?)はただ神と共に天国にあり、私たちがすべきことは彼に付いてこの世界から抜け出すことだと気づく代わりに。
とにかく、「使徒継承」という概念は、永続的なものは何も無いこの世界において、二千年の途切れない伝統の権威をもって、あえて私たちの上にのしかかってくるのである。
 コースに関しても、私たちは同じことが起きているのを見る。例えば、コースを第三の聖書と呼ぶことで、それに誤った歴史的権威を与えようとさえする人々がいる。そして、この語録が示すのとも同じ理由による、(キリスト教のイエスでない)コースのイエスに関する膨大な混同がある。

 新約の福音書とは対照的に、Thomas/ACIMの関係について興味深いことは、まずトマスでは、私たちはただイエスの教えだけを聞き、彼の死に続く十年の間に打ち立てられた、歴史的説明や神話を聞くことはないし、イエスにちなみ名づけられたその宗教を、カエサル(世界、エゴ)に仕えるのに適するかたちにしたパウロに影響されることもない。

トマスと同様に、コースも、イエスの正確な編集されていない直接の言葉を今日伝えている、それは、歴史的な歪曲や誤解も、政治化も、資料の破壊も、解釈の誤りもない。もしあなたが、イエスが言うことを知りたければ、ただその書へ向かえば、そこにある。どんな研究も解釈も必要ない、そして、そのかたちは読者に直接語りかけるものである。

最後に、また別の次元で、この言葉は、問題は彼にいま耳を傾けていないということであるのに!、歴史的イエスを探求することはなんと愚かで誤っていることか思い出させてくれる。典型的な例として、『The Five Gospels』は、サブタイトルに、「イエスは実際何と言ったのか?(What Did Jesus Really Say?)」 、そして、カバーには、「イエスの権威ある言葉の探求(The Search for the Authentic Words of Jesus.)」 と書いてある。
目的は、私たちの日々の生活のなかでイエスに耳を傾けることであるときに、このような関心が、なぜエゴによる注意を逸らさせる作戦であるのか、いまや私たちは理解できるだろう。

(野口博和訳)