語録54
貧しい者は幸いである。あなたがたは父の王国の者だから。
Fortunate are the poor, for yours is the Father’s Kingdom.
キリスト教において、これらの文章を文字通りにとることによって、この線に従い言葉を歪めようとする、絶え間ないお気に入りのやり方があった。それは、伝統的に、キリスト教を国教として普及させることに役立ったし、遠い未来に、天国でのより良い生活を約束することによって、貧しい市民たちを元気づけておくのにも役立ってきた。
『神の使者』で、パーサは再びはっきりと、この言葉を文字通りにとることに注意を促している。それは明らかに、心理的執着について語っており、物への執着についてではない。彼女は重要な点をあげ、さらにこの考えを明確にしている。もし私たちが何かをあきらめなければならないと信じるなら、切望するときとちょうど同じ様に、それを現実にしている、と。
私たちは、このこととコースの次の言葉を比較することができるだろう。:
「この世界を忘れ、このコースを忘れ、完全に空っぽな手であなたの神のもとへ来なさい。」
“Forget this world, forget this course, and come with wholly empty hands unto your God.” (W‐189.7:5)
明らかに、その趣旨は、コースそのものも含めて、形あるすべては、文字通りではなく、比喩的にとられるべきであり、それらはただ私たちに困難を乗り切らせ、旅をするのを助けるためのものであり、そうしてその有用性がなくなったとき、私たちは形の世界における 「すべての」投資を手放さなければならない、ということである。
私たちの経験に要する時間は、真実に対するエゴの防衛を放棄することへの、私たちの抵抗に相当する。なぜなら、真実への道は、再び、「決して変わらなかった目的地への距離のない旅路」*だからである。「貧しい」とは、その意味で、天国の本当のわが家が差し出す、霊の豊かさを受け取るために、私たちの手が自由になるよう、不足と欠乏の自我世界に対する執着から自由になることを意味しているのである。
*“a journey without distance to a goal that has never changed ” (T‐8.Ⅵ.9:7)
(野口博和訳)