語録66 | パーサによるトマスの福音書

パーサによるトマスの福音書

Closing the Circle: Pursah's Gospel of Thomas and a Course in Miracles

「神の使者」、「不死というあなたの現実」で再生された、トマスの福音書について書かれた「Closing the Circle」の和訳です。

野口博和さんから以前頂いてた、和訳をアップしています。

 語録66

Jは言った。「家造りが捨てた石をわたしに見せなさい。それは要石である」

J said, “Show me the stone that the builders rejected. That is the keystone.”


自我はいつも先に話し、いつも間違っている。
 これはコースのワークブックのレッスン、「私は神の法以外のもとにはない。 (I am under no laws but God’s)」 (W-76)や、テキストの次のような言葉を思い出させる。 :

この世界には、この世の論理は完全に狂気であり、何ももたらさないと教えるものは一つもない。しかし、この狂気の論理を作った人のうちには、それは何ももたらさないと知っている「方」が在る、なぜなら「彼」はすべてを知っているのだから。

“There is nothing in the world to teach him that the logic of the world is totally insane and leads to nothing. Yet in him who made the insane logic there is One Who knows it leads to nothing, for He knows everything.”
(T-14.Ⅰ.3.8-9)

つまり、状況に対する私たちの理解はまったく関係がなく、私たちの「論理」もまたそうである。というのも、それはいつも、自我に選択された代理の現実に基づいているからである。しかしイエス、あるいは聖霊は、全体を見て、その状況の中にある要石を正しく見分けることができる。この比喩はまた、面白いことに、正典の伝承のよく知られた言葉、「一つの石も・・・他の石の上に残ることはない」“not one stone shall remain on the other” (マルコ13:2)にも似ている。

 コースへのもう一つの類似として、またもや、自我と聖霊の思考体系はまったく互いに相容れない、という考えがここでもよく関係しており、これは確かに、まさにそのことを生き生きと表現したものである。

(野口博和訳)