第十六回文学フリマin大阪を過ぎても [中] | 山本清風のリハビログ
【前回までのあらすじ】
 ロトの末裔である鈴木真吾は伝説の卒塔婆を求め旅をつづけた。旅路の途中、おなじく末裔である牟礼鯨と幾度もすれ違うもようやく合流し、最後に猫に姿を変えられていた山本清風に水をかけたところで、はたと気がついた。「なんだ、夢か」と。



 へらへらしたロトの末裔三人はすぐに山本桜子をみつけたが、落ち着いた照明と車座に足を組んだ面々に少々面喰って、店主が無料でさしだした珈琲を受けとるその手は恐縮していた。なにしろ本編に参加していないのだから論旨がみえない、滅多なことは云えない。

 足を組んで頬に手をあて「ふむふむ、なるほどなあ」など体面をつくろいしばし静観していた三人だったが、「ふむ、つまりこれは東京に比した大阪の不遇を嘆いているのだな。〝大阪の承認欲求〟とでも呼ぶべきか」と解した山本清風は、虚を衝いて矢を放った。

「でも大阪には飛田があるじゃないですか」

 瞬間、場がふわふわした空気になる。彼は温度差を伴う尾篭なトークが場を転換するのを知っていたし、地方出身者らしく客観的に東京/大阪の構図を眺めていたから、東京に比べて大阪はこんなにもおもしろいのだと直裁に述べればよかった。

 飛田の話題は多くの男性をにやにやさせ、女性をいらいらさせる。しかしそれは脊髄反射の一種と断ずるべきで彼の望む本意ではなかった。尾篭トークを装甲として彼の伝えたいことはまことシンプルである。

「太宰が書いた玉の井は残っていないが、織田作の書いた飛田は残っている」

 つまり彼は、文学史的価値が善悪さておいて大阪にはあるのだと伝えたかった。しかしながら酒というのは鈍する快楽なのだから、翌日もし彼の印象が場の面々に残っているとすれば「なんや新地を熱く語るエロチビ野郎がおったな」となることを、彼はいまいち理解していなかった。



 図らずも文学的話題を提供したことに彼は満足してしまい、山本桜子にようよう挨拶もせず踵を返してしまった。文学結社猫に執筆したこともある深城拓祐外山恒一を介して彼女と面識があったため、福岡遠征できぬ彼は熱心に話をすべきだったのだ。

 だが福岡からの刺客は彼女ばかりではない、最強最大の刺客である森井聖大がひかえている。なにしろ渋澤の佐藤が帰り、佐藤の佐藤が帰ってしまったいま、牟礼の佐藤というのは成立しないのだから殴られるのは、山本の佐藤以外なかったのである。

 最強最大の刺客はカウンターで大阪最大の刺客である一般客と戦っていた。どうやら間にあったようだ。山本清風はしばし戦いを忘れて上住断靭に「アイコンかわいい、てふーかわい」と絡んでへらへらしていたが流石は大阪代表を務める断靭、莞爾とした笑みを浮かべていた。ちなみに彼のアイコンは漫画家志望の少女の手によるものであり、大阪文学フリマのキャラクターも手がけている。

 大阪最大の刺客がどうやら帰るようだ。「誰か小松左京みたいな小説書くやつおらんのかい!?」彼が店内で謳いあげた問いに、誰も答えなかった。SF作家がいなかったからだ。山本清風は「くだんのはは……」とだけ呟くと、おもむろに森井聖大に対峙した。

「私が佐藤です」





 鈴木真吾、久保田輝とともに『デジタルカフェスクリプト』に戻った牟礼鯨は臨戦態勢に入った。場の空気を察したのである。それに呼応して森井聖大も詠唱に入る。この一連の「鯨ナイト」と呼ばれる戦いは多く資料が残っているため、諸氏はそれらをあたられたい。

 ひとつだけ述べるならばのちに「鯨の覚悟」と伝えられる固定イベントはつつがなく完了して、牟礼鯨はきっと上野の国立科学博物館につき刺さっているクジラよりもまっすぐに、ぶれることなく屹立することだろう。果たして彼は「鯨ナイト」の面々を残してアムザへ去っていったため、夜は表題を喪失した。

 前後して、ベルセルクとしかいいようのない修羅が入店してきた。しかし山本清風は酩酊のため眼鏡が外れていることに気づき、視力を補正するとそれが伊織だった。卒塔婆に和装との完全武装に彼は一刀両断を覚悟したが、ふと彼女は言霊の封入された卒塔婆をたてかけ微笑をたたえて席に移動したため、彼の半身と半身はいまも手を結んでいる。

 だが彼女の参入が俄然舌戦を巻き起こした。山本清風は牟礼鯨に彼女のスタイルをチェックせよ、との命を受けていたが和装のため、判然としようはずがなかった。鯨にはきっと透視能力が備わっているのだと山本清風は思った。

 さて論点は『非公式文学フリマガイドブック小説ガイド』について集中したが、佐藤が山本と判明してしまったあとでは悲惨な戦いが起きようはずもなかった。やがて鈴木と伊織はアングラナイトへと流れてゆき、クロフネ襲来が帰国し、運営陣もひとりまたひとりと去って、上住断靭が帰宅すると客は森井聖大と山本清風そして、眠りながらにして起きている(いつもはカーテンを開けない)JASONだけになった。



 正史に残らぬエキシビションマッチでありながら、やはりこの戦いもここでは語られない。なにしろそのときの会話を知っているのはふたりしかいないというのに、だ。

 すなわちそれは〝拳の温度〟なのである。文学的体験というものがあるとすれば、実地に経験したものを一時的体験、読書により追体験したものを二次体験と呼んでみたい。読書とは作家の体験を伝えるものであり、あるいは読者の体験を呼び起こすものだ。そして彼は森井聖大との対話によって文学的体験を得た。

 だがその体験は、実地に体験しているため一時的体験となるはずが、どうしてか二次的だったのである。そのことについて彼が思考したとき、まず「文字で伝えられる体験と、伝えられない体験がある」と考えた。これが〝拳の温度〟である。文章はそれを描写するが、読者の受けていない拳の温度はしんに伝導することはない。森井聖大は「逢って話してみなければわからない」と云い、文章と対話を使いわけていたのだ。

 そしていまひとつの理由は、森井聖大そのものが作品だったということである。山本清風は彼という本を読み、文学的体験を追体験した。それはすなわち実地に得た体験を森井聖大が咀嚼して与えたということであり、山本清風はその拳の温度に、ふと雛鳥めいた頼もしささえ感じたのだ。彼は思った。この体験を文章にはできない、拳を受ける以外にないのだ、と。

『フレッシュグッディ。フレッシュグッディ。言葉にできない、ららら』



 織田作之助を始めとする無頼派/新戯作派を愛する山本清風はしかし、そのことについて語りあえる相手があまりいなかった。まず友人がいなかった。そのため彼は嬉々として、中島らもについて、アングラについて、サブカルについてもっと語りあいたかったが「おれは話すときはとことん話す。朝八時半まで話す」と彼の好きな福岡の抑揚で森井聖大が云ったので、ひいた。

 しかし彼も酒をのめばその調子だった。そのためたがいに、ひいた。ちなみに以下は山本が佐藤と昼に串かつをつつきながらしていた会話である。

「おれのタイプは、普段はだらしなくていいんだけどひとつだけ、なにかしっかりしたものをもってるひとだな。たとえば酒はたくさんのむけど、ちゃんと終電で帰るとかね」
「すごくわかります~」

 しかし山本清風はちゃんとわかっていなかったらしく、森井聖大そしてJASONと三時半に店をでてからも仮初の漂泊に駆られ難波から本町までを踏破したりした。そして五時十五分の始発に乗るとホテルに戻ったり、三時間だけ寝たりして、ずっとだらしないのだった。



以下、次回。