李登輝閣下に田母神閣下と一緒にお会いしてきました。 | 井上政典のブログ

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 今週の月曜から昨日までの三日間、台湾に行ってきました。

 私は初めてだったのですが、予想以上に台湾の人たちは親日的で食べ物もおいしく、ぜひまた行きたいと思ったところです。

 今回は台北の北にある淡水という町の李登輝閣下の事務所の会議室で田母神閣下を団長とする訪問団25名の平幹事としてお世話をさせていただきました。

 李登輝閣下に初めてお会いしましたが、その人間の大きさにびっくりしました。先輩政治家として期待する田母神閣下を慈しむように政治家としてどうあるべきかをご自身が台湾で行ってきた政策を紹介しながらご教授されているように思えました。

 「台湾はいつも日本に片思い」、こうはにかんでおっしゃるお姿は、日本をとても愛しておられ、その日本が心配でたまらない、そして田母神閣下のような私欲なく日本国のためにはっきりとものを言う政治家が誕生してほしいと切に願っておられるようでした。

 「田母神閣下に総理大臣になってほしいと思っている」とまで言われました。

 李登輝閣下は、哲学を持った政治家です。こんな政治家を日本では見たことがありません。ほとんどが薄っぺらい知識をひけらかし、小理屈をこねくり回すだけの小物ばかりだからです。

 「政治家としての国民に対する義務を果たす」と言われたお言葉が胸に沁みました。

 政治家になると権力を掌中に収めます。そしてその権力を自分の欲や名誉のために使おうとしますが、その天から与えられた権力を国民を幸せにする義務を感じて行動することが大切なことです。それを実践してこられたのです。

 戦後大陸から逃げてきた国民党に中華民国という国の民にされ、CHINA人の一部のように扱われてきました。

 そして自分たちもそう思いこんでいた台湾の人たちに、台湾人としての矜持(アイデンティティー)を植え付けた哲人政治家が語る言葉は一言一言重いものがありました。

 今の台湾の人々の中にはしっかりとした台湾人という概念が育っています。それが去年の学生による行動で馬英九総統の対CHINAの融和政策に待ったをかけることとなります。

 私は次のように質問をしました;

 「李登輝閣下のような素晴らしい政治家の後に、どうしてあまり大したことが無い政治家が続くのでしょうか?」

 これは陳水扁や馬英九のことを表します。なぜなら、李登輝閣下のような国民の精神構造まで言及した政策はまるでなく、私利私欲そして大陸に阿る政策しかしていかなかったように思えるからです。
 
 李登輝閣下は次のようにお答えになりました。

 「台湾には三種類の人間が存在します。一つは70歳以上の日本から教育を受けた世代。二つ目は40歳から70歳まで外省人(戦後蒋介石と一緒に大陸から逃れてきた人たち)によって教育された人たち。最後に40歳以下の李登輝閣下政権下、日本的な概念でしっかり教育された世代によって構成される世代です。

 そしてこの40歳以下の層の台湾人がもっと世に出てくれば、台湾から再び偉大な政治家が生まれ出るとおっしゃっていました。

 その三層構造がはっきりわかるとこれからの台湾の行く末が見えてくると思います。

 日本列島、南西諸島、台湾はCHINA大陸の東側でしっかり蓋をしている位置にあります。

 もし、台湾が親CHINA政権になりCHINAが影響力を持つと、日本のシーレーンという首元に匕首を突きつけられた状態になります。

 またそうなることは、たくさんいる親日の人たちの生命や自由を失うことになるのです。

 李登輝閣下は、台湾地震の際に日本の速やかな救助行動と義援金に感謝しています。その義援金で消防署に救助装備を整えました。

 そして当時日本財団の理事であった曽野綾子氏に日本に何かあったら真っ先にこの装備で助けに駆けつけると約束されました。

 東北大震災の時に、今こそあの時の約束を果たす時だと救援隊を真っ先に組織し、救助をしたいと日本政府に申し出しましたが、外務省が当時の民主党政権の顔色を窺ってのらりくらりと返答をしてきません。

 救助隊もそれを輸送する航空会社も手配済みなのに日本が受け入れてくれなかったのです。 

 困っている恩人を助けたいという気持ちが空回りするだけで忸怩たる思いがしたそうです。

 ようやく日本に入国できても、どこに行くか明確な指示もなく、半日ほど時間を無駄に使いました。

 甲府のNPO団体のおかげで岩手に入って救助活動をしましたが、もしあの時にすぐに日本が受け入れてくれて救助活動をしていたら助かった命があったのではないかと本当に悔やまれると血を吐くようなお言葉でした。

 そして指導者はヘリコプターから下を見下ろすのではなく、下を歩き自分の目でつぶさに見て、そこに最も応じた対応を部下にすることが大切であり、菅直人のように素人が原子力発電所にいって邪魔はすれど何の役にも立たないような行動は絶対にしてはならないと痛烈に批判されました。

 事実台湾地震の時は、いち早く被災地に入り、一刻も早く困っている人々の話を聞いて対処することこそ、指導者の責務であると力強くいわれていました、

 指導者として国民のために何ができるかを常に問い、そして李登輝閣下は台湾の人たちの心の中に台湾人としての誇りを植え付け、文化を醸成し、自分は何者かという自我をしっかりと目覚めさせ、そして自分は台湾のために何ができるかを理解させました。

 そして一滴の血も流さず民主化を成功させたのが李登輝閣下なのです。

 堂々とした体躯のお体はもう90歳を超え、足が衰えてこられているようですが、頭と心は全く凛としておられました。

 そして自分は死ぬまで台湾のために尽くすというお言葉は今までお閣下の人生を表しておられるように力強くでも現実味を帯びた具体的な響きと共に私の胸にずしっと入ってきました。

 あの強烈なオーラを普段は放っている田母神閣下やお仏壇の長谷川相談役のオーラが李登輝閣下のオーラの前では色あせてしまうほどの凄味を持っておられました。

 その強い輝きは田母神閣下を再び輝かせ、「李登輝閣下は92歳、私はそれよりも25歳も若いんです、だからまだまだ頑張れると思うんです」とその後のお話で言われていました。

 国家のため、国民のための政治家が今求められています。ある特定の団体や組織のための政治家ではなく、純粋に国家のための政治家田母神俊雄を応援しています。

 だから応援する私も一切その見返りを欲しがりません。来年の参議院選挙で田母神閣下を田母神先生とお呼びすることができるようにしたいと思います。

 映画KANOの舞台になった嘉儀市にも行きました。

 台湾に野球を根付かせたのは日本人です。そして台湾と日本の学生たちが甲子園に行って日本及び台湾の人々を熱狂させました。

 その熱い思いが今の台湾の野球熱に繋がっています。

 そしてアジア野球大会の決勝戦で日本と台湾の試合が行われた時に、その内容の素晴らしさに日本人も台湾チームを応援せざるを得ないような状況になりました。
 
 テレビでも球場の一体感は伝わってきたのを覚えています。その感覚の出処は、日本と台湾が本当に兄弟のような血で繋がっていたんだと今回の旅で実感したのです。

 あの時は日本の観客が台湾に政府ができなかった義援金のお礼をプラカードに書いて表しました。

 そして惜しくも敗れた台湾のチームはマウンドを背に輪を作り球場にいる観客に頭を下げて応えました。

 隣の礼儀知らずの国との国際試合がクローズアップされる昨今、こんなにも国際試合ですがすがしい気持になったことはありませんでした。

 それは台湾の人たちがいまだに日本を愛している証拠なのです。

 それを現地で実感できました。

 それは李登輝閣下という哲学と愛国心を持った政治家が台湾の人たちの心を豊かにしましたが、その李登輝閣下の心を育てたのは日本人の先人たちでした。

 李登輝閣下が育てた台湾の人たちと日本人が堅く手を結んで隣の厄介な国に立ち向かっていくことが、世界の平和に繋がることになるのだと思いませんか?