前回の投稿から1年以上。相変わらず。
世の中はTwitterがXになり、何事もない平和な日常が揺らぐ世の中になりつつあり、
それでも毎日飯を食い、たまに眠れない日を過ごし、天気が良いと機嫌が良くなる、というような毎日を過ごしている。
去年の11月から、本を媒介としたコミュニティスペースのメンバーになった。とはいえ月に一度お店番をするくらい。何かを企画しても良いし、ただ居るだけでも良い。大人のサークル?大人の保健室?いろいろな捉え方がある。
そこでは一人一人の自己紹介の本棚がある。
あるメンバーの棚に、個人の日記を書籍化したものや、日記そのものが置かれている。その棚の持ち主の日記ではない「誰かの日記」。戦前、戦中、戦後、そしてもっと現代。誰の目にも触れずに消えることになる可能性があったのもたち。だけど偶然が重なって、見ず知らずの人間が読むことになったもの。
SNSをやることや、ネット上にことばを残すことがとても恥ずかしいことだと思っていた。一度残してしまうと消えることはないだろうから。恥ずかしさの裏にあるのは恐怖だ。こんなことを書いたら、こんなことを見たら、馬鹿にされるかもしれない・・・嫌われるかもしれない・・・
でもブログに書かなくても、紙の手帳は事務的なことやその日感じたことやさまざまな言葉によって埋め尽くされている。
紙ならば消えるという概念は「誰かの日記」を読んだときに書き換えられた。残したものは、どこかで不意に他人に共有されることもある。
「誰かの日記」を読んだとき、私は全然恥ずかしくなかった。その内容は一般的に言えば恥ずかしいものだったかもしれない。でも恥ずかしいことではない。
恥ずかしいことを書くことは、恥ずかしいと思われることではないのだ。読み手がどう受け取るかなんて選べないのだから、怖がる必要はないのだ。
そんなことを考えながら久しぶりに書いている。
今日はいつもの稽古会で、「習う」ことの気楽さとおおらかさについて話した。
誰かの真似をしていても、時間が経つと私のものになる瞬間ってある。
そこには時間が関係している。生きている時間そのものが影響し続けている。
11月にダンスをする。今はまだ、先生の振り付けを必死になって踊っている。
11月が終わりではないから、そのうち、いつか、私の踊りになる日を気長に待ちながら、ご飯を食べたり、人と話したり、毎日を続けていきたいと思う。